34話
マリシェとコレットは山荘を抜け出し、夜の森の中を走っていた。
周囲は真っ暗で、ランタンも何も持っていない二人はぬかるみや木の根に足を取られて何度も転ぶ。
「きゃっ!?」
「コレット、しっかり! わわっ!?」
「姫様も気をつけて!」
二人は山荘で近衛兵たちの集結を待っていたが、それより早く正門が爆破されたという報告が入った。
『忍び込むことができるのに、わざわざ正門を爆破したのは軍勢が押し寄せるためよ』
マリシェはそう言い、コレットに雨具を着せた。
『今は夜だし、近衛兵たちも混乱しているわ。明るくなれば近隣の駐屯地から兵が集まるから、それまで隠れていましょう』
結果的には、その推測は外れていた。正門が爆破されたというのは誤報で、爆発と思われたものの正体は正門付近への落雷だった。
だが、さすがにマリシェもそこまではわからない。
だから二人はこうして、いちかばちかの賭けに出たのだった。
「聡明で冷静なマリシェ公女なら、このまま近衛兵たちの警護を受けて朝まで待つ。敵はそう考えているはずよ」
「聡明で……冷静ですか?」
「何よ」
「いえ、続けてください」
公女とメイドの身分差コンビも、だいぶ遠慮がなくなってきた。
死線を共にくぐっているという一体感が、身分の差を意識させずにいる。
ただそれはそれとして、コレットの質問は容赦がない。
「姫様、森の中だと山荘より警備が手薄なんですけど、襲われたらどうなりますか?」
「死ぬと思う」
「死ぬ」
ふと遠い目になったコレットに、マリシェが笑いかける。
「だから急ぎましょう」
コレットはまじまじとマリシェの顔を見つめる。
「よくわかりました」
何がどう「よくわかった」のかは、コレットは教えてくれなかった。
マリシェは走りながら、コレットにこう続けた。
「来る途中、近くに村があったでしょう?」
「ああ、このへんの領民の村ですよね。あそこに隠れるんですか?」
「そう、風車小屋にね」
ウィンクするマリシェ。
「ずっと前にクロツハルト殿に教えてもらったんだけど、水車小屋や風車小屋はとても丈夫に作られていて、敵の襲撃に備えてるんだって」
「なんでですか……?」
「だいたい領主の持ち物だから。作るのも維持するのも、お金かかるのよね、あれ」
詳しい説明はまた今度にして、マリシェはコレットを走らせる。
「ここは大公家の直轄地だから、風車小屋は私が自由に使ってもいいのよ。ほら、鍵もあるわ。明日見学に行こうと思って用意してたの」
「いつの間に」
コレットの呆れたような視線を浴びて、少し得意げなマリシェ。
「敵もまさか、この大騒ぎの中で公女が風車小屋に隠れてるなんて思いつきもしないでしょう。明るくなってから近衛隊と合流すれば、後はもう安心……」
そう言いかけて、マリシェの足がぴたりと止まった。
「コレット、隠れて!」
「え? え?」
とまどうコレットを強引に茂みに引き倒して、マリシェは茂みの隙間から外をうかがう。
「ほら見て。風車の羽根がおかしいわ」
「もう何がなんだかわかりませんよ……」
雨に濡れた葉っぱを顔に貼り付け、コレットが溜息をつく。
するとマリシェはまた、得意げに言った。
「風車の羽根は遠くからも見えるから、傾き加減や羽根の状態で情報を伝えることができるの。あれは『敵襲』を示しているわ」
民家の明かりが微かに漏れていて、それが濡れた風車羽根に反射していた。
「たぶん誰かが危険を知らせてくれているのよ。……誰だろ?」
その瞬間、背後で男の声がした。
「私ですが」
* * *
俺は溜息をつきながら、茂みの中にいる二人の生徒を引っ張り出した。
二人ともずぶ濡れで、泥と葉っぱと何だかよくわからない汁で汚れている。
「よく生きてましたね、二人とも」
俺が溜息をつくと、二人は目をキラキラさせて俺にくっついてきた。
「先生!」
「旦那様!」
うんうん、無事で良かった。
良かったけど良くない。
「うちのメイドまで巻き込んで無茶苦茶しないでくれますか、姫?」
「なにが?」
何がじゃないよ。
「確かに私は以前、『水車小屋や風車小屋は小規模な敵の襲撃に耐えられる』と教えましたが、あなたが立てこもっても無駄ですよ」
「無駄じゃないもん。銃だって使えるもん」
ぷぅと膨れる姫。子供か。
そういや子供だった。
「いいですか。たった二人、しかも片方はまともに銃を撃てないような未熟な射手で、プロの殺し屋を何人も相手にして……」
倒したな。俺とハンナで。
俺は咳払いをして、こう続ける。
「……勝てないこともないですが、姫のようなアマチュアには無謀な賭けなのでやめてください」
今日みたいな雨天の夜間じゃ、さすがに俺たちも無理だっただろう。
ときおり、その雨の夜空に銃声が鳴り響く。
「クロツハルト殿、あれは?」
「猟兵隊の山狩りですよ」
「えっ、猟兵隊!?」
「そうです」
「って何?」
ああもう、このクソ忙しいときに。
「前に説明しましたよね!? 猟師は山岳戦の射手としても優秀なので、猟師たちを徴兵して『猟兵』と呼ばれる兵科にしてるって!」
「あー、うん?」
あーじゃないよほんとに。
まあでも、教えたことを全部覚えてるはずはないからな。叱るのはやめておこう。
「この村は猟師が多いので、在郷義勇軍の猟兵隊がいるんです。普段はただの村人ですが、れっきとした大公家直属の兵ですよ」
「ふぅん、強いの?」
「強いですよ。この辺りの山林では特に。なんせ村の里山ですから」
「里山……」
今その辺の説明してる暇はないぞ。
「薪や木の実を集めるために整備している山林です。村民にとっては庭みたいなもんですよ」
どこに何があるか全部知ってるからね。
ああ、ついうっかり説明してしまった。
時間がもったいない。
そこにハンナが駆けつけてくる。
「クロツハルト殿、掃討作戦は順調なようです。こちらに被害らしい被害は出ていません」
「よし」
俺は姫たちに向き直ると、ぽかんとしてる彼女たちに説明した。
「あなたたちが山荘を飛び出したもんですから、刺客たちの大半がぞろぞろついてきたんですよ」
二人は驚く。
「ついてきてたの!?」
「ぜんぜん気づきませんでした」
そりゃあっちもプロだからね。
こんな素人の小娘たちに気づかれるほどバカじゃないよ。
「で、ハーメルンの笛吹き男……じゃ、わかりませんね。ええと、『猟師とハープ弾き』の動物たちみたいにおびき出された刺客を、義勇軍の猟兵隊が狩っていったんです」
刺客たちは姫に夢中だったし、ロイツェン側の戦力は山荘に向かっていると思いこんでいたようで警戒が疎かだった。
「ただ、この雨の影響で銃が思ったほど効果を上げていません。夜ですし、何がどうなってるのか誰にもわからないんですよ」
森の中にはまだ、多数の刺客が潜んでいると思っていいだろう。
そう思った矢先、目の前の茂みが動いた。
即座にハンナが発砲する。こういうときの彼女は、敵味方の識別が恐ろしく早い。そして正確だった。
「ぐっ!?」
聞こえてきたのは男の声だ。
「ハーディヤ! ジャルハラール!」
何語だこれ。
少なくともロイツェン人じゃないので、味方じゃない。
だが茂みが揺れ、次々に黒衣の男たちが飛び出してきた。
「ヴィディーラ!」
「何言ってんのかわかんねえよ! 日本語でしゃべれ!」
無茶な注文だと思いつつ、俺も銃を構えて撃つ。
当たっただろうか。ぜんぜんわからん。
ハンナが導火線に火を放つ。
刺客たちは一瞬それを見たが、雨で濡れた地面でそんなものが使えるはずがないと判断したようだ。
しかし導火線の火は全く衰えることなく、驚くほどの早さで地面を走った。
姫たちが驚いたような顔をする。
「えっ!?」
「生石灰入りの火縄だよ、伏せろ!」
俺は即座に仕掛けを見抜き、姫たちを地面に伏せさせて爆発に備えた。
「生石灰は水を吸うと発熱して……」
化学の授業をする暇もなく、刺客たちを閃光と爆音が襲う。
閃光弾か。ハンナから事前の警告がなかったのは、相手に悟られないようにするためだな。
突然の閃光に目をやられた刺客たちが、よろめきながら茂みに飛び込む。
「アジョヤッ!?」
「サルケ、ヴィディーラ!」
だから何言ってんのか全然わかんねえよ。
まあいい、逃げるなら今だ。
「姫、馬に乗って! コレットも! ハンナ、例の場所に!」
ハンナの乗った馬に二人を乗せると、ハンナが即座に馬を走らせる。
「わかりました、すぐ行きます!」
「おい俺は!?」
「四人は無理です! 殿方のクロツハルト殿は重いですし!」
さすがはロイツェン騎士、いざとなれば主家以外の人命は簡単に見捨ててくれる。
だが、それでこそ俺の戦友だ。
公女を守りきれなかったら、大公の家臣として責任問題だからな。
「よし行け! 俺は……」
少し考えた末、俺は走り出す。
残って戦っても勝ち目ないよな。
せめてフルオートのアサルトライフルでもあれば全滅させられるんだが、マスケット銃じゃどうしようもない。
一緒に逃げよう。