03話
マリシェ・ルドリア・フォーンハウト・ロイツェン殿下、つまり俺の教え子となった十五歳の少女は、今日も小学校低学年レベルの計算ドリルを解いている。
「つまんない……」
「十五かける八を解くぐらいで、いちいちふてくされないでください」
やっかいなお姫様だ。
彼女は決してバカではない。その証拠に、文学や語学や歴史学にはかなり精通している。
なのに小学生レベルの計算問題に手こずっている。
この世界で学問といえば「神学・文学・史学」のことだから、仕方ないといえば仕方ないんだが、だからといって数学をやらなくていい理由にはならない。
ロイツェンの文化や技術を見た感じ、そろそろ近代化が始まりそうだ。
そうなったら数学は必須教養になる。
「筆算はできますよね?」
「できるわよ」
ぶーと頬を膨らませるマリシェ姫。すみません、馬鹿にしてる訳じゃないんです。
うん、確かにできてる。
だとすると、計算が遅いのは九九の部分か。
「九九、できます?」
「クク!?」
マリシェ姫が顔面蒼白になる。
「な、なな……なんてこと言うの!? あなた正気!?」
ガタッと椅子を蹴って立ち上がり、俺に対して恐怖の表情を浮かべた。
なんだなんだ。
俺はまだロイツェン語を完全に習得できた訳ではなく、知らない単語が結構ある。過去にもこんなことはあった。
「『九九』は日本語です。ロイツェン語の『クク』とは違いますよ。一桁の数字を掛け合わせる計算法です」
そのとたん、マリシェ姫はハッとした表情になった。
「え、それってつまり……」
それからうつむき加減になり、みるみるうちに顔が赤くなる。
「そ……そういうことだったのね……」
「はい。驚かせて申し訳ありません。ところでロイツェン語の『クク』って、どういう意味ですか?」
「知らないわよ! バカ! 変態!」
はいはい、だいたいわかりました。
後で俗語辞典でもあれば引いておこう。
しかし俺の予想通り下品な俗語だとすると、どうして彼女がそれを知っているのかという疑問が残るが……。
まあいい、今はそんな探求よりも九九だ。
「十五かける八ですと、一の位は『五八、四十』ですね」
「ゴハヨンジューって何?」
来たよ、またこれだ。
どうやら九九に該当するものがないらしい。
もちろん、かけ算自体は存在する。当たり前だ。
「姫、五かける八ってどうやって計算してました?」
「えーとね……五十から五引いて、もう一回五を引いたら四十でしょ? ほら、できたわ」
なにそれ。
「八は十に近いから、五かける十で五十。でも八は十に二足りないから、五十から五を二回引いたら四十になるわ。ま、これぐらいはできて当然ね」
逆に混乱してきた。
この後のやりとりは面倒くさかったので忘れることにするが、要するに九九に該当する暗記法がないらしい。
だからまず十倍とか五倍とかのキリのいい数字でかけ算し、過不足を足し算と引き算で調整しているのだ。
考えるだけで頭が痛くなってくる。
もちろん本職の商人や税吏などは計算が早いが、そのためにひたすら計算練習するそうだ。
彼らの場合、仕入れ値や税率などよく使う数字がほぼ固定だからというのもある。
なるほど、数学が特殊技術になる訳だ。
よくわかりました。
わかったところで、俺はマリシェ姫に重々しく告げる。
「姫の計算速度は、日本の庶民の七歳児よりかなり遅いです」
「庶民の七歳児より遅いってどういうことよ!?」
さすがに傷ついたらしい。
そこで俺は彼女の自尊心を適度に破壊しながら説明する。
「日本には先ほど申しました九九という暗記法がありまして、七歳になった子供は一桁のかけ算を全て暗記するのです。その結果、計算速度は飛躍的に向上します」
「暗記するの? えっ……全部!?」
「全部です」
別に十九の段まで覚えろとは言わないので、日本と同水準の九の段までは全部覚えてもらおうじゃないか。
とはいえ、俺の九九は日本語。
姫の母語はロイツェン語で、他の習得言語もロイツェンと同じ語族だから日本語とは全く違う。
ロイツェン語の九九を作る必要があるな。
俺は呆然としているマリシェ姫に講義の終了を言い渡し、今日のところは自分の屋敷に帰る。
ちゃんと門衛と料理人と女中がいる、小さいながらも貴族の邸宅だ。下級貴族だから一人ずつしかいないけど。
俺は彼らに夕飯と風呂の支度を頼むと、自分の部屋で羊皮紙を広げた。
ロイツェン語の九九を作ろうか。