27話
その日、俺は紋章官としての仕事で首都を離れていた。
護衛官として同行するハンナが、馬を歩ませながらクスッと笑う。
「姫様のことが気になってますね、クロツハルト殿?」
俺は馬上で慣れない手綱を操りながら、小さく溜息をついた。
「姫の成人の儀までに、最低限のことは一通り教えておきたいんだが……」
思ったより授業が進んでいない。
姫は今、ロイツェン北部に数日間のお出かけ中だ。
といっても旅行ではなく、これも大公家の行事だ。姫は北部にある聖灯教の聖地へ巡礼している。
聖地への巡礼は聖灯教徒の義務であり、最低一度はやっておかないと成人の儀ができないのだという。
貴族の場合、血統や家格で巡礼地が決まっているので、いろいろとめんどくさい。
「まあ、慌てても仕方ない。急にいろいろ詰め込んだって覚えきれないしな。コレットを連れていって一緒に課題をやってくれるそうだから、まあ大丈夫だろう」
うちのメイドのコレットは、マリシェ姫の格別の計らいで侍女見習いとして同行している。破格の待遇だ。
「課題ですか」
「ああ、いずれはロイツェン全土が姫の領地になる。隅々まで見てレポートにまとめるよう指示したよ」
ロイツェン北部の文化や風習を見学し、南部との違いをレポートにまとめること。
これが俺の出した課題だ。
一方の俺にも、紋章官としての職務があった。
騎乗したハンナの後方には、徒歩のマスケット銃兵が二人。大公家から借り受けた、俺のための護衛だった。
俺がもう少し偉ければ、十人ぐらい護衛を連れて歩けるんだけどな。
ロイツェンでは、出張する紋章官の従者は三人だ。ロイツェンの法律で決まっているから仕方ない。
ハンナが苦笑してみせた。
「ギルベルム卿の件なら、すぐに片づくと思いますよ。あの方は大公家の遠縁ですから、大公殿下に逆らうような真似はしません」
「だったら俺の前に片づいてるはずなんだが」
俺は溜息をつき、懐から紋章の図案を取り出した。
ギルベルム卿が申請した軍旗だ。
「『鳳翼』は大公家の象徴だから勝手に使うなって、何回言えばわかるんだ。これで四回目だぞ」
その度に紋章官が説明に行き、そしてボロクソに罵倒されて追い返されてきた。
とうとう誰も行きたがらなくなったので、俺が大公から指名された。
「なんかこだわりがあるんだろうが、『鳳翼』はまずいんだよな……」
翼は紋章に好まれるモチーフだが、伝説の鳥の翼は神聖なものとされる。
「『鷲翼』か『恐翼』あたりにしとけば御前もお許しになっただろうに」
恐鳥は飛べないが翼はそれなりに大きく、ジャンプするときに使う。なかなかの迫力だそうだ。
俺はこれから大公の遠縁のバカ貴族、ギルベルム卿の説得に向かう予定だ。領地は小さいが家格は高いので扱いが面倒臭い。
するとハンナが首を傾げた。
「紋章の管理って、そんなに大事なのですか?」
「紋章の許諾を与えるのが、大公家の権限だからな。勝手なことされると困る」
本当はもっと深刻な理由があるんだけど、口外は禁じられている。
(まさかこんな鳥の翼に、配下の兵士に無謀なまでの勇気を与え、敵の戦意をくじく力があるなんてな)
この世界に伝わる『紋章術』というテクノロジーだそうだ。
紋章術の法則で作られた紋章は、見た者の精神に影響を与える。
精神に影響を与えるといっても、洗脳するほどの力はない。
何となく尊敬の気持ちを抱いたり、何となく闘志が湧いてきたり。
あくまでも「何となく」程度だが、毎日毎日紋章を見て生活していると、その効果は結構侮れないらしい。
支配者にとっては民衆を従わせたり、兵士を鼓舞したり、いろいろと便利な代物だ。
これがロイツェン大公家が支配力を拡大してきた秘密だという。
俺は大公との会話を思い出す。
『御前……。本当にこんな重要なものを、私のような異邦人に教えて良かったんですか?』
『いや、それがな。この紋章術は、ロイツェンの文化で育った者にしか通用しない。例えば君は、白狐を神の使いとする文化で育った者だ。君が白狐紋を見ても、紋章術は働かない』
『白狐紋の効果って何です?』
『見た者の心に、名状しがたい恐怖を呼び起こすのだよ。ロイツェンの白狐神話を知る者なら誰もがわかることだ』
大公はそう言って、俺の前に紋章学の書物をどさどさを積み上げた。
『だから君はここでしっかり紋章学を学び、ロイツェン秘伝の紋章術からどっぷりと影響を受けてくれたまえ』
『別にいいんですが、ぶっちゃけすぎではありませんか、御前?』
俺は大公のそんなところも結構好きだ。
いいボスに巡り会えたと思っている。
もっとも今でも、俺には紋章術の効果はほとんどないのだが……。
そんなことをぼんやり考えていると、不意にハンナと衛兵たちが表情を引き締めた。
「どうした、みんな?」
即座にハンナが答える。
「尾行されています」
「何?」
俺は驚いたが、ここで狼狽えると貴族失格だ。
それに俺たちを尾行している者たちに、こちらの手の内を知られることになる。
今はまだ、気づかないふりをしておこう。
「数は?」
「複数……としか。ただし少人数です。まとまった軍勢ではないようですね。五人か十人か、そんなところではないかと」
だとしても嫌だなあ。
こちらはマスケット銃兵がハンナを含めて三人。あとアマチュア射手の俺が一人。
マスケット銃は一発撃てば後が続かないので、四人そこらでは敵の集団を撃退できない。
衛兵の一人がそっと言う。
「クロツハルト様、相手はこちらの銃の射程外にいます。距離を保っているようです」
「間合いに入ってこないということは、こっちの銃を警戒してくれているんだな」
慎重な連中で良かった。
ここは森の中の街道で、近くには住民のいなくなった廃村がある程度だ。
ハンナが俺に尋ねてきた。
「クロツハルト殿、少数の銃兵では遮蔽物がないと戦えません。廃村に逃げ込みましょう」
「敵もそれは想定してる気がするが……他に方法もないか」
ここはギルベルム領だ。
ロイツェンの法が支配する土地ではあるものの、ギルベルム卿がその気になれば俺たちを消すぐらいはたやすい。
「よし、ハンナが指揮を執れ。俺はお前の命令に従う」
「クロツハルト殿……」
ハンナは驚いたような顔をしたが、すぐに表情をきりりと引き締めた。
「ロイツェン騎士の誇りにかけて、御身を命に代えてもお守りいたします」
衛兵たち二人も真剣な表情でうなずいた。




