23話
「じゃあ、ちょっと休憩にしましょうか。うちの料理人に何か作らせてきますから、二人で歓談してて下さい」
クロツハルトがそう言うと、コレットが慌てて立ち上がろうとした。
「旦那様、そういう仕事は私が……」
「『旦那様』じゃなくて、『先生』だろう? 授業は終わっていない。今の君は、まだ俺の生徒だ」
そう言い残し、クロツハルトは部屋を出ていった。
残されたのは公女とメイド。
しかし公女殿下の方は、とても元気だった。
「大公になったら、やることいっぱいありそう! ワクワクしてきた! コレット、あなたの暮らしも良くしてみせるわ。期待しててね」
「あ、はい……」
クロツハルト邸での勤めは破格の好待遇なので、どう答えるのが『正解』なのかわからない。
そう、自分より強い人には『正解』しか言ってはいけないのだから。
もし『不正解』を言えば、どんな暴力や懲罰を受けるかわからない。
だからコレットは救児院にいる間も、ずっと『正解』だけを言い続けてきた。うまくやり遂げられたと思う。
もちろん、これからもそうしようと思っていた。
ただ、最近はそれが揺るぎ始めている。
「クロツハルト様は、不思議な方ですね」
「え?」
マリシェ姫が不思議そうな顔をしたので、コレットは『不正解』を言ってしまったかと怯える。
だが姫はにっこり笑った。
「そうね、私もそう思うわ! とっても不思議な方!」
「はい」
あの変な異国の男の人は、『不正解』を言っても大丈夫だった。
気に入られるために色仕掛けをしたコレットだったが、それはクロツハルトには通じなかった。
それどころか、たしなめられてしまった。信じられない話だが、色仕掛けは完全な『不正解』だ。
それなのに解雇されるどころか、クロツハルトは以前に増してコレットに目をかけてくれるようになった。
忙しい公務の合間に、コレットに個人授業までしてくれる。
こんなことは、貴族と使用人の間柄では考えられないことだった。
学問は力であり、財産でもある。
例えば下級役人は平民にしては安定した生活を保証されているが、なるには法学や簿記などを修める必要がある。
だが学ぶには多額の学費が必要だ。
神官になるなら神学、医師には医学。いずれもタダでは学べない。
そう考えれば、クロツハルトから歴史や文学の授業を受けられるのは、月給以上の報酬といえた。
何せクロツハルトは公女殿下の教師、コレットから見ればロイツェン最高の頭脳だ。
高価で貴重な書物を惜しげもなく読ませてもらえ、特権階級の知識を好きなだけ与えてもらえる。
これがどれだけの価値を持つかは、コレットにはよくわかっていた。
だからコレットは、しみじみとうなずく。
「本当に、不思議な方です……」
コレットには、何の見返りも求められていない。
すると公女殿下が興味を惹かれたように、ふと問いかけてきた。
「クロツハルト殿は、どうしてあなたに学問を教えようと思ったのかしら?」
「それが……」
コレットは途方に暮れたように答える。
「あの方は『救児院長のカルツ殿に頼まれたし、君は伸ばせば伸びそうだから教えてみたかった』と仰せられました」
さすがのマリシェ姫もあきれたような顔をする。
「伸ばせば伸びそうって、それは理由になるのかな?」
「わかりません……」
二人は顔を見合わせて、やがてクスクスと笑い出す。
「でも確かに、クロツハルト殿なら言いそうなことね」
「はい。私もそれで納得してしまいました」
マリシェ姫はどことなく安心したような顔をしている。
「最初は何事かと思ったけどね。使用人にまで学問を教えてるっていうんだから」
「申し訳ございません。不遜な真似をいたしまして」
たぶんこれが『正解』だろうと、謝罪するコレット。
しかしマリシェ姫は苦笑して手を振った。
「ううん、そんなのいいの。学問は誰にとっても大事だわ。クロツハルト殿が教えてくれるっていうんだから、素直に教わっておけばいいのよ」
これはコレットにとって意外だった。
どうやらまた『不正解』を言ってしまったらしいのだが、公女殿下は困ったように笑っている。お怒りではないらしい。
もしかすると、世の中というものは自分が思っているよりも複雑なのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思うコレットに、マリシェはにんまりと笑いかける。
「もしかして、好きになっちゃった?」
「え?」
「結構かっこいいと思うんだけど、どう思う?」
あ、これは絶対に『正解』を言わないといけないヤツだ。
コレットは確信する。
ただ正直なところ、コレット自身にもよくわからない。
「歳も離れていますし、異国の方ですし、何より身分が違います」
「あー、そういうのはいいんだってば。ほんとの気持ちを教えてよ?」
困った。
「尊敬できる方だと思いますが、恋愛感情は抱いておりません」
「ほんとに?」
「優しくされたとしても、異性として好意を抱くとは限りませんから」
「まあね」
姫は納得したような顔をしている。
「で、ほんとのとこはどうなの?」
この人も相当しつこいなと思うコレットだった。
うまく切り返そう。
「私のような身分違いの者よりも、公女様はどう思われているのでしょうか?」
「えっ、私?」
「公女様もクロツハルト様も、どちらも貴人であらせられます」
貴族の間にも序列や派閥はあるらしいが、平民のコレットには違いがよくわからない。
マリシェ姫は急にもじもじして、ぐねぐね不気味にうごめく。
「いやあ、私は、ね……。なんていうかね……」
よし、「正解」だ。コレットは確信を持って、さらに切り込む。
「どうなんです、公女様?」
するとマリシェ姫は顔を赤らめながら、手をぶんぶん振ってみせた。
「ち、違うのよ!? ていうか、私もよくわかんないんだから! ただ……」
「ただ?」
ちょっと拗ねたような顔になり、姫はつぶやく。
「私の知らないところで、クロツハルト殿が『先生』をしているんだなって思ったら、なんか落ち着かなくてね……」
「そういうものですか」
「うん。なんだろね、これ」
質問されたってコレットにもわからない。
マリシェ姫は机に突っ伏してぐねぐねうねりながら、小さく溜息をついた。
「ま、確かに『公女の家庭教師が、メイドに講義をするなんてどういうことなの』とも思ったわ」
「仰せの通りです」
無表情に頭を下げるコレット。
封建社会では「同じ人間」などという言葉は通じない。身分が違えば違う種類の生き物だ。
しかしマリシェは苦笑して、頭を掻いた。
「まあでもクロツハルト殿なら、あなたに教えたくなるのはわかるわ。だってコレットは教えがいがありそうだものね」
「えっ!? あ、はい、恐れ入ります」
予想外の言葉に、コレットはドキドキしながらもう一度頭を下げた。
クロツハルトといい、マリシェといい、不思議な人ばかりだ。
ちょうどそこに、クロツハルトが戻ってきた。一緒に入室してきた料理人のリックが、大きなバスケットを持っている。
「さあ姫様、コレット、ロイツェン軍御自慢の『野戦サンドイッチ』をお持ちしましたよ」
マリシェ姫とコレットは顔を見合わせる。
「野戦サンドイッチ?」
「野菜じゃなくて?」
するとリックがたくましい肩を揺らして笑った。
「野戦中でも旨いものを食わせるために、俺たち炊事兵が作ってきた伝統的な軽食ですぜ」
クロツハルトが横から注釈を添える。
「民間人の我々にもわかる言い方にすると、『昨日の残り物サンドイッチ』ですよ、姫。今日は汁気の飛んだビーフシチューを具にしています」
「なんだ、意外と普通ね……」
がっかりしたマリシェ姫だが、すぐにこう言って笑った。
「でも美味しそう。軍人の食事って思うと、興味が出てくるわ」
リックがまた笑う。
「味は保証しますよ、姫様! 兵隊は旨いものを食わないと戦えませんからね!」
「俺はせめて、甘いものにしておけと言ったんだが……」
クロツハルトは溜息をついたが、コレットたちに笑顔を向けた。
「まあいいでしょう、庭で休憩しませんか? 今日はいい天気ですから」
「うん!」
「はい!」
少女たちはほとんど同時に、大きくうなずいた。




