21話
こうして俺は優秀なメイドを得て、少しばかりの善行をし、貯金をだいぶ減らした。
そして今日もまた、マリシェ姫の授業をするのだが……。
「クロツハルト殿は、自宅でメイドに勉強を教えているそうね?」
不意に姫がこんなことを言い出したので、俺は採点の手を止める。
「ええ、コレットはまだ十四歳ですから、まだまだ勉学に励んでも良い年頃です。非常に優秀ですし」
「優秀なの? かわいい?」
かわいいかどうかは関係ないだろ。
「優秀ですよ。理解力が高く、系統立てて物事を記憶できる子です。九九もすぐに覚えましたし、家にある本はあらかた読み終えてしまいました」
再び姫のテストを採点しながら俺は答えたが、姫はおもしろくなさそうな顔だ。
「私より優秀?」
「どうでしょうね……。優秀さの基準っていろいろですから」
俺の説明が不満らしく、姫は机に突っ伏しながら足をパタパタさせる。小さい子供みたいだ。
「そんなに優秀なら、その子に大公継がせたらいいじゃない」
「ムチャクチャ言わないで下さいよ。血筋が大事なんですから」
すると彼女は顔を上げて、真剣な表情で俺を見つめた。
「じゃあ私は、血筋以外は大事じゃないの?」
そうきたか。
この年頃の子なら、それは悩むところだよな……。
俺は採点を中断すると、マリシェ姫に正面から向き合った。
「正当な血筋でないと大公の座には就けません。就いたところで、誰も従いませんからね」
俺は慎重に言葉を選びながら、とりあえず言いにくいことは先に言ってしまう。
「確かにコレットが大公家に生まれていれば、良い君主になれたかもしれません」
「うー……」
落ち込まないで。
俺は笑ってみせる。
「でも、ロイツェン大公家に嫡子として生まれたのはあなたでした、マリシェ殿下。あなたには生まれつき、大公の跡取りとしての責任があります」
「責任かぁ」
ますますおもしろくなさそうな姫に、俺は言い聞かせた。
「そのおかげでこの国で一番いい暮らしをして、最高の教育を受けているんですから、良い大公になってくれてもいいんじゃないですか?」
「あ、そうだよね。最高の教育なのは間違いないもの」
俺の顔を見て、にんまり笑う姫。
いや、俺が最高の家庭教師というつもりはないが……。
俺は咳払いをしてごまかす。
「姫は聡明ですし、真面目な努力家です。最高の教育を、そして臣民の忠誠を受けるのにふさわしい方ですよ」
「えっ!? なに、いきなり!?」
面食らった様子で慌てて身を起こした姫に、俺はもう少し補足してやる。
「それにとても慈悲深く、王の器をお持ちです。こうしてお教えしていて、私もとても楽しいんですよ。いずれあなたは後世の歴史家たちから、名君と呼ばれるようになるでしょう」
「ひゃっ!?」
なにその声。
マリシェ姫はまさかこのタイミングで誉められるとは思っていなかったようで、両手で頬を押さえて小刻みに震えていた。
「ク、クロツハルト殿、急に誉めないでよ! びっくりするじゃない」
「いや、教える立場の者として、率直な評価をお伝えしたまでの話ですが……」
誉めて誉めて誉めまくって伸ばすのが、俺のスタイルだ。
もちろん適度にたしなめもする。
「もちろん、今はまだ未完の王の器ですよ。知識も経験もまるで足りてませんし、落ち着きがなさすぎます」
「あーっ、もう! 今度は何!? 振り回さないでちょうだい!」
なんでキレ気味なの。
今までになかったタイプの生徒だ。
「そういうところが落ち着きがない証拠ですよ。ほら、ちゃんと勉強して下さい。地理の続きです。御自身が治める国の風物について、もう少し知っておかないと」
俺はパラパラとテキストをめくり、北部の森林地帯について説明した。
「ロイツェン北部の森には、危険な怪物が生息しています。領民にも犠牲が出ているので、いずれは何とかしないといけません」
しかし姫はまともに説明を聞いてくれない。
「クロツハルト殿、メイドの子もそうやって振り回してるの?」
「特に振り回してるつもりはないんですがね」
この子、意外とめんどくさい。
「メイドの子、なんて名前だっけ?」
「コレットです。コレット・リンネン」
するとマリシェ姫は、何か秘策を思いついたような顔をして口を開いた。
「じゃあ、コレットも私と一緒に講義を受けましょう」
「何が『じゃあ』なんですか」
訳がわからんぞ。
この国には厳格な身分制度がある。しっかり言い聞かせておこう。
「ダメですよ、姫。宮殿の敷地内に入れるのは貴族や神官、あるいは役人など、定められた身分を持つ者だけです。一貴族の使用人が、公女殿下の部屋に入ることは許されません」
身分に応じて細かいルールがあるから、貴族も庶民もいろいろな制約を受ける。
俺みたいな流れ者が貴族待遇を受けているのも、大公の傍にいるためにはそれが必要だからだ。
すると姫は、とんでもないことを言い出す。
「なら、私がクロツハルト殿の屋敷で講義を受けるわ。それなら問題ないでしょ?」
「ない訳ないでしょ!?」
冗談じゃねえぞ。自宅に主君の娘が毎日来るなんて、俺の安らぎはどうなるんだ。
ただでさえむさ苦しいゴリラみたいな野郎二人と、複雑な生い立ちの女の子がいるっていうのに。
俺は断固として拒んだが、そのとき俺はすっかり失念していた。
あの屋敷をくれたのはロイツェン大公であり、目の前にいるめんどくさい生徒はその大公の娘である、ということを。
数日後、俺の自宅は公女殿下の学問所として正式に認可されることとなった。
いやあ、大変名誉なことだ。
勘弁してくれ。
そして俺の自宅で授業が行われる初日。
「お初にお目にかかります、公女殿下。コレット・リンネンと申します」
丁寧にお辞儀するメイドに、マリシェ姫は鷹揚にうなずいた。
「初めまして、会えて嬉しいわ。マリシェ・ルドリア・フォーンハウト・ロイツェンよ。マリシェでいいから」
全く身分の違う二人の少女は挨拶し、彼女たちは学友となった。
なったことはなったのだが。
「さすがに姫の方が学力は上ですからね。コレットも猛勉強していますが、姫が十年以上かけて学んできた知識には到底及びません」
「ふふん、まあ当然ね」
ちょっと得意げな姫。
すぐ調子に乗るのが姫の悪いところなので、軽くへこませておくことにする。
「あと三年もしたら、どうなっているかわかりませんけどね。コレットは抜群に記憶力がいいですから、学習の速度は姫より上です」
「なっ!?」
うろたえる姫に追い打ちをかける。
「前にも言いましたが、コレットは理解力が高いんです。何事も深く分析し、整理して覚えます。語呂合わせや丸暗記に頼りがちな姫と違って」
「私と比較しなくてもいいでしょ!」
お前の方が遙かに偉くて学問でも先輩なんだから、少しはコレットに優しくしてやれよ。
傲慢な王は嫌われるぞ。
あ、そうだ。コレットにも注意しておかないと。
「公女殿下と君は学友になるが、身分の差はわきまえるようにな。泣かせるなよ?」
「はい、旦那様。気をつけます」
こっくりとコレットがうなずくと、マリシェ姫がまた叫ぶ。
「ちょっと、泣かせるなってどういう意味よ!?」
社会の最下層で泥にまみれて這い上がってきたコレットと、温室育ちのお嬢様じゃ、人間としての強さが違う。
もっと正確に言うなら生き抜く強さ、目的のためなら手段を選ばない覚悟が全然違うからな。
さて、授業を始めよう。
「えー、延び延びになっていた地理の授業、特にロイツェン国内のやっかいな怪物に関するところです。二人は『恐鳥』は知ってますか?」
マリシェ姫とコレットは顔を見合わせる。
先に口を開いたのは姫だった。
「あれよね、でっかい鳥の怪物」
コレットは首を傾げる。
「あまり聞いたことありません。本当にそんな怪物がいるのですか、旦那様?」
「前から言っているが、授業のときは『先生』でいいぞ」
教えるときまで主従のままじゃ、お互いやりづらい。
俺は最新の図鑑を開き、そこに描かれている細密画を示す。これ木版画だけどメチャクチャ高かった。
「ロイツェン北部ヘルゲルト地方の一部の森に生息する怪物です」
ハシビロコウみたいな顔をしている巨鳥だが、大きさと活動性に雲泥の違いがある。
飛べない代わりに、走るのがメチャクチャ速い。
馬に乗っても逃げきれるかどうか怪しい。
「成鳥の身の丈は四メルク以上、要するにこの二階の窓から顔が見えるぐらいです」
「でかっ!?」
マリシェ姫も大きさについて、改めて認識し直したようだ。
「そりゃ人間も丸呑みにされちゃう訳だわ……」
それを聞いてコレットが不安そうな顔をする。
「公女殿下、人が丸呑みにされてしまうのですか?」
「『マリシェ』でいいってば。そうなの、あの有名な『イスファハーンの挽歌』にも、恐ろしいものの代名詞として出てくるぐらい」
「あ、それ今読んでます。イスファハーンかっこいいですよね!」
「うんうん、長身痩躯で翳りのあるイケメンだもんね。金髪じゃなくて黒髪なのもいいと思う」
あの、今は地理の授業中です。
本来ならここで二人に注意をするのが正統派の授業スタイルだが、俺は構わずにしばらく脱線させておくことにした。
学友同士の絆は大事だし、こういう本筋から脱線した話題にも深い知識が隠されている。
今回は地理と文学の勉強が同時にできてるんだから、まだ止める理由はないな。
「でもね、私はイスファハーンよりゴシュペーザの方が好きなの!」
「でも公女殿下……いえ、マリシェ様、ゴシュペーザは悪役ですよ?」
「そこがいいんじゃない。それに彼がイスファハーンを執拗に狙うのには、ちゃんと理由があってね」
「あっ、それ以上はダメです。ネタバレになります」
そろそろ止めた方がいいかな……。