02話
「マリシェ・ルドリア・フォーンハウト・ロイツェンよ」
不機嫌を塗り固めたような口調だったが、声はとても綺麗だった。
亡き母親に似て、マリシェ姫もなかなかの美少女だ。
王侯貴族は才色兼備の美女を選び放題なので、必然的にイケメンや美人の家系になりやすい。
しかしこの美少女は、俺を猜疑心まみれの視線でぐさぐさ突き刺してくる。
こんなに警戒されたのは久しぶりだ。
「あなた、お父様の紋章官でしょう? 学者でもない方に、私の家庭教師が務まるの?」
ごもっとも。
ですが姫、私は日本で塾講師をしていたのですよ。
ちょうど姫と同年代の子たちにね。
だから俺は微笑み、こう返す。
「務まると判断なさったからこそ、大公殿下は私に家庭教師をお命じになられたのです。もっとも……」
「なあに?」
「相性もありますし、姫の学力の問題もあります。うまくいくかはやってみなければわかりませんよ」
するとマリシェ姫は不愉快そうに眉をひそめた。
「相性はともかく、学力が足りないとは言わせないわよ」
本当だろうな?
庶民ならともかく、ロイツェン貴族たちは現代日本人と同レベルの教養を持ってるぞ。得意分野が全然違うけど。
ちょっと試してみるか。
「『北征戦記』はお読みになられましたか?」
「ロイツェン建国時の重要な戦争だもの、当たり前でしょ。『グライフ写本』も自分で翻訳して読んだわ」
相手国側に残っている異本も読んでるのか、なかなかだな。
俺はロイツェン語しかわからないから、まだ読んでない……。
「では『神典理論』は?」
「あー、まあ一応読んだ。退屈だったけど。あれ何?」
「教典の解釈を少し歪めて、当時の世俗政治に合わせた歴史上の転換点です。『東方異聞』は?」
するとマリシェ姫は目を輝かせる。
「あれ面白かった! 砂漠の描写最高だし、異教徒の部族がどれも個性的で興味深いわ! 続き読みたい!」
「作者は二百年前に旅の途中で行方不明になったままですので、ちょっと難しいでしょうね」
俺がそう返すと、マリシェ姫は腕組みをして考え込む。
「じゃあ私が書くしかないわね……」
「書けますかね?」
「あなた失礼ね?」
すみません、つい本音が。
どうやら文学や歴史学については、それなりに勉強できているようだ。
この国に来て日が浅い俺より、マリシェ姫の方が詳しいだろう。人文科学方面は慌てなくても良さそうだな。
となると、後は自然科学方面だが……。
「姫、算術はできますか?」
「まあ、一応はね? 基礎はバッチリよ」
胸を張ってみせるマリシェ姫だが、俺は騙されない。
こういうのは往々にして、生徒が苦手科目をごまかすときの虚勢だったりする。
確認しておこう。
「では姫、こちらを」
俺は用意しておいた計算問題を、彼女の前に置いた。
彼女はペンを取り、自信ありげに微笑む。
「あなた、本当に疑り深いのね。まあいいわ、驚いて叫ばないでよ?」
インクをつけたペン先が踊り始めた。
そして数分後。
「ぬあーっ!」
みっともない悲鳴をあげているのは俺ではなく、マリシェ姫だ。
彼女はペンを放り出して苦悶する。
「解けるか、こんなもん! 何よこれ!」
「何と言われましても、簡単な二次方程式ですが」
「ニジホー?」
だめだこりゃ。
マリシェ姫のいう「算術の基礎」とは、足し算と引き算のことだった。
かけ算やわり算になるとどういう訳か異様に遅く、方程式は一次方程式が何とか解ける程度だ。関数や確率はもう意味すらわからないらしい。
「小学生レベルですな。それも低学年」
「ショーガクセーって何よ?」
「十歳児より下と申し上げているのです、姫」
するとマリシェ姫は首をぶんぶん横に振る。
「こんなもの、十やそこらの子供が解ける訳ないでしょ!?」
「私の国では、二次方程式は十五歳で習いますよ。庶民も全員」
「嘘だ! 絶対嘘だ!」
本当ですよ?
マリシェ姫は数字の羅列を恨めしげに眺めつつ、うめくようにつぶやく。
「だいたいこんなの、商人や税吏の技術でしょう? 公女の私がなんでこんなことやらなくちゃいけないのよ」
あー、そうか。
近代化されていないこの世界じゃ、日常生活で使わないような計算法は特殊技術なんだな。学問じゃなくて職人的な技術。
紋章官は数字を扱わないから、その辺りは気づかなかった。
姫は別に悪くないよな。
とはいえ、これからのことを考えると、やっぱり数学は必要だ。
「姫」
「なによ……」
「算術は今後、ますます重要になります。発達する学問や複雑になる社会において、算術は必須ですよ」
「本当に?」
「ええ、他にも必要な学問がいくつもあります。いずれ大公となられるのでしたら、それらを修めておかねば国は危ういでしょう」
「うーん……?」
乙女の半信半疑のまなざしをたっぷり浴びる俺だった。