19話
昼下がりの柔らかな光が降り注ぐ一室で、メイドのコレットは聖灯教神官と話し込んでいた。
「そんな訳で、クロツハルト様は思っていたよりもずっと立派な方でした、院長先生」
青い神官服を着た眼鏡の青年は、静かにうなずく。
「ふむ、それは確かに意外だね……」
首都の北区、いわゆる貧民街の一角で孤児たちの面倒を見ている神官は考え込む。
「私が聞いていた話とも違うが、とにかく良い方で良かった。使用人に親切にしてくれる貴族はとても貴重です。永くお仕えできるよう、しっかり働きなさい」
「はい、院長先生」
(妙だな……)
眼鏡を押さえながら、神官は内心で首を傾げた。
彼が上司から聞いた話では、クロツハルトという若い貴族は若い娘に目がないという。
そんな屋敷にコレットを働きに出すのは正直嫌だったが、上司である大神官の命令には逆らえなかった。
神官といっても組織に仕える身だ。
(何も問題が起きていないのなら、それに越したことはない。もしかすると大神官様の取り越し苦労かも知れないな)
この救児院を巣立っていった子供たちの中には、悲惨な生活を送っている者も少なくない。
しかしこの救児院は、わずかな寄付と聖灯教団パルネア派の資金で運営されている。
救わねばならない子供の数は多く、自立できる年齢になった者の面倒まで見ていられない。
神官は溜息をつき、それから静かに微笑んだ。
「この聖ユートリウス救児院も他の場所と同様、十代半ばになれば自立して生活するのが規則です。もう君の相談に乗るぐらいしかできませんが、仕事がうまくいくよう祈っていますよ。困ったことがあったら、いつでも来なさい」
「ありがとうございます」
コレットが一礼する。
彼女が帰った後、神官は窓の外を眺めながら腕組みをした。
(どういうことだ……?)
そのとき、ドアがノックされた。
* * *
俺は内心、かなり頭に来ていた。
だが表向きは礼節を保ち、丁寧な言葉遣いを心がける。
「クロツハルトと申します。突然の訪問をお許し下さい。あなたがこの救児院の院長ですか?」
「ええ……。私がこの聖ユートリウス救児院の院長、カルツです。正灯師の位階を戴いております」
背の高い眼鏡の青年が、俺に会釈する。青い神官服はロイツェン聖灯教のパルネア派、別名「青炎派」の象徴だ。
正灯師は神殿や施設の責任者の位階らしいから、住職みたいなものかな?
よくわからないが、俺も一応は聖灯教徒という体裁なので頭は下げておく。ロイツェン派だけど。
カルツ神官は俺をじっと見つめて、それから微笑む。
「コレットがお世話になっております。良い主に巡り会えた幸運を、コレットと共に神に感謝しておりました。もちろん、あなたにも」
「それは光栄です」
俺はもう一度頭を下げたが、さっさと本題に入ることにする。
「喜んで頂けているのは私も嬉しいのですが、コレットのことで少し相談が」
「何でしょう?」
急に不安そうな顔をするカルツ神官。
俺は言いづらいが、これを言うために来たので思い切って言う。
「この救児院では、メイドに色仕掛けを教えているのですか?」
「それは……」
言いよどむカルツに俺はたたみかける。
「それとも、コレットにだけ特別に?」
「いえ……」
はっきり言え。
俺はカルツ神官に詰め寄った。
「もし私が『そういうこと』を期待して彼女を雇ったとでも思っておられるのなら、重大な侮辱と受け止めますぞ」
「侮辱ではありません。ただ……」
カルツは苦悩の表情を浮かべ、それから溜息をついた。
「クロツハルト様が『そういうこと』を好まれる方だと、お聞きしたのです」
なんてこった。俺をステレオタイプなスケベ貴族みたいに言いふらしてるヤツがいるのか。
「誰です?」
「それはさすがに、私の口からは申せませんが」
「言えないような人なのですね?」
「御想像にお任せします」
どうやら偉い人らしい。
そいつの正体も気になるところだが、それより先に問いただしておかないといけないことがあった。
「カルツ殿、あなたは自分の救児院で子供たちに何を教えているんです? コレットのあの仕草、明らかに歳相応のものではありませんでした」
カルツの表情はこわばっている。
俺はなおも言う。
「あなたがコレットに、余計な教育をしたのですね?」
「余計な教育ではありません。必要な教育です」
カルツは即座に、そして断固とした口調で言い返してきた。
彼は俺を真正面から見つめる。
「庶民の子、それも家族や共同体の庇護を受けられない子供たちは、この救児院以外に帰る場所はありません」
カルツは怒りさえ感じている様子で、力強く訴えかけてくる。
「ですが私たちには、あの子たちを生涯養っていく力がないのです。だから年頃になれば、どうあっても仕事に就いて自力で生きてもらわねばなりません」
どうも深刻な事情がありそうだな。
「どうあっても、ですか? カルツ殿」
「そう、どうあってもです。巣立った子たちからの寄付がないと、今いる子たちの衣服や食事さえ満足に提供できないのですよ」
そのことにかなり負い目を感じているようで、カルツは両手で顔を覆う。
「私たち聖灯教パルネア派は、信徒も少なく十分な財力がありません。だからといって、路頭に迷う子供たちを見捨てておけますか?」
俺は話がだんだんズレていくのを感じたが、同時にカルツ神官の事情も理解しつつあった。
いろいろ考えた末に、俺は彼に言葉をかける。
「だから綺麗事は言っていられない、と」
「そうです。どんな奉公先だろうが、生活していけるのなら我慢して行ってもらわねばなりません。そのために必要なことは教えます。子供たちが生きていくすべなのですから」
「具体的には、何をどう教えたんです?」
「庶民の子は貴族と違い、男女の営みについて幼い頃から多くを知っています。寝室は家族全員が一緒で、見聞きする機会が多いですから」
隙間だらけの狭いボロ家ばっかりだもんなあ。
カルツ神官は溜息をつく。
「私は『クロツハルト様は色を好む方らしいので、機嫌を損ねないようにしなさい』と伝えました。必要と思っての助言でしたが、今となっては悔いるばかりです」
「それだけですか?」
「それだけですよ。というか、それ以上私にどうしろと……」
あれ?
「ではカルツ殿は、コレットに私の男性器を洗うように命じたりはしていないと?」
「する訳ねーだろ! いい加減にしろ!」
びっくりするような大声でカルツ神官が叫び、次の瞬間にハッとする。
「する訳ないでしょう。私は聖職者ですよ?」
言い直さなくてもいいよ……。
俺はカルツ神官をまじまじと見つめたが、改めて見るとこの人だいぶ体格いいな。神官服でわからなかったが、背が高いだけじゃなくて肩幅も広い。
ここはスラム街だし、案外荒っぽいことにも慣れてそうな雰囲気だ。
しかしカルツ神官は赤面し、眼鏡をクイッと押さえる。
「大変失礼いたしました。さっきのは忘れて下さい」
「いや、別にいいじゃないですか。驚いたんでしょ?」
一番驚いたのは俺だけどな。
カルツ神官は小さく咳払いをすると、こう答えた。
「ええ。確かに私はクロツハルト様が無類の好色家だと聞き、何とかせねばとは思いました」
だからそのデマ、誰が流したんだ。
ちくしょう。
それからカルツは申し訳なさそうに俺に頭を下げる。
「何も知らずに好色家の貴族にお仕えすることになれば、コレットが深く傷つくことになります。言いにくいことでしたが、最低限の警告は私の義務だと思ったのです」
「うーん……」
俺にとってもコレットにとっても酷い話だが、カルツの苦悩も理解できた。
俺たちはしばらく黙り込む。
またいろいろ考えた末に、俺は口を開いた。
「事情はわかりました。それでもやはり、私はあなたのやり方を認めることはできません。好色家だと思っているのなら、行かせるべきじゃない」
「ではどうしろと仰るのです。綺麗事で世の中を渡っていけるほど、庶民の生活は簡単ではありませんよ」
現代日本と違って、ロイツェンでは庶民の生活は貧困と危険に満ちあふれている。
カルツは額を押さえ、うつむいてしまう。
「ここを巣立つ子たちの就職先を斡旋するのも、私たち神官の務めです。しかし身よりのない子というだけで偏見の目で見られ、仕事はなかなか決まりません……」
いかん、なんか重苦しい話になってきた。
しかし俺は、この手の問題から目を背けることができない。
カルツは独り言のように続ける。
「男の子ならいざとなれば雑用人足でも日雇い農夫でもできますが、女の子はそうもいきません。運良くお針子や女中の仕事に就ければ、私たち神官は神に感謝の祈りを捧げます」
つらい。
聞いていてつらい。
これ以上ほっとくと、どんな鬱ストーリーが語られるかわからない。しかもたぶん全部実話だ。
俺の心が折れないうちに、俺は急いで言葉を挟む。
「この救児院の……いえ、この国の孤児たちの事情はよくわかりました」
考えてみれば納得だ。
孤児たちにとって、メイドはかなりいい仕事だろう。
庶民の家とは比較にならない立派なお屋敷に住み込みで、衣食住は保証されている。
拘束時間は長いものの、事故や犯罪に遭う危険はかなり少なく、給金も悪くない。
運が良ければ貴族とコネができ、退職後も何かと有利だ。
ただし、貴族の気まぐれひとつで解雇される仕事でもある。
解雇とまではいかなくても、虐待を受けることは大して珍しいことではないという。
貴族の地位や立場は法律で厳重に保護されているから、少々のことでは犯罪にもならない。
俺たち貴族は恐れられているのだ。
俺は今、自分がロイツェン国内でどれだけ恵まれた立場にいるのかを改めて思い知らされた。
現代日本と比べればネットも冷蔵庫もない不便な生活だが、この国の中ではトップクラスのいい暮らしだ。
なんせ貴族様なんだからな。
だとすれば、俺がすべきことはひとつだ。
貴族様の力を見せてやろう。
俺はカルツ神官にもう少し詰め寄ると、なるべくフレンドリーかつ穏やかな口調で言った。
「なあ、カルツ殿」
「何です?」
「この救児院に十分な資金があれば、あなただって綺麗事のひとつも言えるようになるかな?」