17話
授業を終えて帰宅した俺は、夕食後にメイドのコレットから一日の報告を聞く。
「門衛のハウザーさんは二回、持ち場を離れて買い物に行っていました。留守中の対応は私がしておきましたので問題ありません。料理人のリックさんは明日には復帰できそうです」
「そうか、すまなかったな」
ハウザーは減給でもいいな。
でもたぶんリックの風邪薬でも買いに行ったんだろうし、訓戒で許してやるか。
するとコレットは、にこっと笑った。
「ところで湯を沸かしております。湯浴みされますか?」
「お、気が利くな。……でもなぜ?」
コレットは笑みを浮かべたまま答える。
「旦那様は無類の湯浴み好きと、リックさんから聞いております。今日は炊事の薪が余りましたので、お帰りに合わせて湯を沸かしておりました」
「なるほど、ありがとう」
細かいところにまで気が回る子だ。
メイドにしておくには惜しい。
しかしこれは俺が風呂好きというよりも、ロイツェン貴族が滅多に風呂に入らないのだ。水も燃料もタダではないから仕方ない。
夏はそれなりに行水をするものの、他の季節は濡らした布で体を拭くぐらい。湯を沸かして全身入浴するのは週に一度といったところだ。
俺は隙あらば風呂を用意させているので、どうやら風呂好きだと思われているらしい。
「入浴なさいますか?」
「そうだな、せっかくの気遣いだ。すっきりしてから寝よう」
コレットが恭しく一礼する。
「ではすぐに準備いたしますので、しばしお待ちを」
それから十分と経たないうちに大きなタライが運び込まれ、湯が注がれる。
あいにくとバスタブなんてものはロイツェンにはない。
このタライに張った湯に腰まで浸かり、ちゃぷちゃぷするのがロイツェン式の入浴だ。
正直あんまり風呂って感じはしないが、贅沢は言えない。
ただいつもと違う部分があった。
「コレット」
「はい」
「なぜそこに?」
俺は全裸で風呂に入っているところだが、当然のようにコレットが立っている。
というか、俺が一人で風呂に入っていたら、コレットが唐突に戻ってきた。
しかしコレットは俺の全身をくまなく見つめながら、不思議そうに首を傾げる。
「旦那様の入浴中には、使用人が付き添うものです。ハウザーさんたちは『旦那の裸なんか見たくねえよ』と申しておりますので……」
「俺も落ち着かないから別にいい。君も下がりなさい」
「いえ、お背中を流します」
「いいから」
使用人、それも女の子がいる状況で風呂なんか楽しめる訳がない。
ああもう、誰かでっかい銭湯でも建ててくれないかな。いっそ、姫をそそのかして……いやいや、公権力の私物化だ。
俺が頭を振っていると、コレットが背中をこすり始めた。
「おいおい、君は主の言うことが聞けないのか」
「差し出がましいとは思っていますが、旦那様をお一人で入浴させたとあってはメイドの名折れです」
意外と頑固だな、この子。
俺は困ってしまったが、メイドの名折れと言われては仕方がない。
ロイツェンにはロイツェンの流儀というものがあるだろうし、もう好きにさせることにする。
濡れた布で背中をごしごし洗ってもらいながら、変な成り行きになってきたと思う俺。
しかし沈黙が居心地悪いので、俺は何気なく話を振る。
「コレットは何でも上手だな」
「練習しましたから」
「背中を流すのも?」
「はい。貴人のお世話をするのが、私の役目です」
殊勝な言葉だが、十四歳の女の子が言っていると思うと、なんだか心配になってくる。
やがて彼女は背中を洗い終わり、スッと前に回ってきた。
「失礼いたします」
「ちょ、ちょっと待った」
俺は慌てて前を隠しつつ、首を横に振った。
「背中だけでいい。俺はこんなことは頼んでいない」
「ですが」
もしかすると、貴族の湯浴みには何かそういう暗黙の了解があるんだろうか。俺はロイツェン人じゃないからわからない。
だがやはり、ここはハッキリ言っておこう。
「俺は君をメイドとして雇った。だからメイドの仕事をしてくれ。おそらくこれは、メイドの仕事じゃない」
「旦那様……」
何か言おうとするコレットに、俺は重ねて言った。
「こんなことはメイドの名折れだぞ」
そのとたん、コレットはハッとした表情になる。
俺が黙ると、彼女は静かに立ち上がった。
「差し出がましい真似をいたしました。申し訳ございません」
「君はもう休んでくれ。後片付けはハウザーにでもやらせる」
門衛の仕事じゃないけど、あいつ今日無断外出したからな。
退出していくコレットを見送って、俺はそっと溜息をついた。
ぜんぜん風呂に入った気分になれない。
その翌日、俺は近衛隊の兵舎におじゃましていた。
「ここなら水浴びぐらいはできるよな?」
同行している近衛士官のハンナに問うと、彼女は不思議そうな顔をしつつもうなずいた。
「はい、演習で砂まみれのまま宮殿には行けませんから。でもクロツハルト殿、御自宅でも入浴ぐらいできますよね?」
「いや、それが……」
俺は新しいメイドがまだ子供で、おっさんの行水を手伝わせるのは気が引けると説明した。
ハンナはフフッと笑う。
「気になさらなくてもいいのに、クロツハルト殿は妙に遠慮しますね」
「そりゃするだろう」
「庶民で十四歳といえば、もう一人前です。早い者は十歳になる前から働きに出ていますよ?」
それが間違いなんだよ。
「とにかく俺は風呂は一人で入りたい」
「そんなに入浴にこだわる男性は珍しいですね。私は女ですし、仕事柄よく汚れますから毎日体を洗いますが」
「いいことだと思うぞ、ハンナ」
高温多湿の国から来た人間として俺が力説すると、ハンナは笑顔で大きくうなずいた。
「ありがとうございます。真冬でも水の冷たさに慣れておくことは大事な訓練ですから」
「水……」
俺がハッと気づいてつぶやくと、ハンナは再びうなずいた。
「はい、軍人は水です。体を洗う程度のことで、貴重な燃料は浪費できません」
「そうか……そうだよな」
お湯は贅沢品だからね。
こうして俺は、近衛連隊の兵舎の裏で行水をする羽目になった。
そして数日で風邪をひいた。
こんなワイルドな生活、やっぱり俺には無理だ。
自宅のベッドで横になり、俺はぼんやりと窓の外を眺めた。
「今日の……げほっ、出仕は無理だと……大公殿下に連絡を頼む」
門衛のハウザーが敬礼した。
「はい、旦那様。口頭でいいんすかね?」
「あ、じゃあこれ……」
走り書きのメモ程度の紙切れを渡し、後はハウザーに任せることにする。
郵便制度がないこの国では、手紙を運ぶのは使用人の仕事だ。
退出したハウザーを見送った料理人のリックが、やれやれと溜息をつく。
「旦那様、メシは食えそうですか?」
「おかゆを……おかゆをくれ……」
「オカユって何です?」
「うう……」
ロイツェンには雑穀扱いで米も一応あるのだが、説明がめんどくさい。
軍の士官食堂で働いていたリックは、俺の説明をほとんど聞かずににっこり笑った。
「旦那様、こういうときは肉ですよ!」
「肉は無理だ……」
「まあ俺に任せといてください! 仔牛のフィレステーキでも食えば、一発で治りますって」
「いや、だから肉は無理だっつってんだろ……げほっ!」
もうやだ、しんどい。
がさつな使用人たちがそれぞれの持ち場に戻っていった後、メイドのコレットが残る。
「旦那様、こちらに新しい水差しをお持ちしました。それと暖炉に薪を足しておきますね」
「ありがとう……コレットが天使に見えるよ……」
ハンマーでブッ叩いても死ななそうな軍人兄弟と違って、コレットの看病は繊細で丁寧だ。
いいメイドさんに来てもらって俺は幸せ者だな。
パチパチと薪がはぜる音を聞きながら、心地よい温もりに包まれて俺の意識は虚空に漂っていく。