14話
その日、ロイツェン大公ベルンは不在だった。
「急ぎの書類なんでしょう? 私が見ます」
「いえ、それは……」
マリシェ姫は若い役人が困り切った顔をしているのを、不思議な思いで見つめていた。
「どうしたの? 父上は領内の視察で明後日までお戻りになりません。それだと間に合わないのよね?」
「え、ええ……」
「ほら、早く」
「ええっと……」
書類の束を手にしたまま途方に暮れている役人に、マリシェ姫はそっと近づく。
「徴税の報告書ね。城下町の……あれ?」
「ど、どうかなさいましたか?」
するとマリシェは指先で書類の数字を示す。
「この計算、おかしくない? ほら、塩取引の課税額にもう一度課税しているわ」
役人は慌てて書類を見る。
「ほんとだ……」
「でしょう? てことは、ほら。酒の税にも」
「うわ、こりゃいかん!? 主計官たちは何をやってるんだ!」
慌てた役人はふと沈黙し、それから姫の顔をじっと見つめる。
「よくお気づきになられましたね?」
マリシェ姫は書類の別の数字、前年度の税収を指さす。
「去年と比べて税収が倍ぐらいになってるけど、塩の税収がそんなに急に増えるはずはないでしょう? おかしいと思って検算してみたの」
「確かに……計算間違いに気づけず、お恥ずかしい限りです。どうも数字は苦手でして……」
額の汗を拭きながら、役人が頭を下げる。
「こんなものを大公殿下にお見せしていたら、私がお叱りを受けていたところでした。ありがとうございます、姫様」
マリシェ姫はにっこり笑う。
「いいのよ。他の書類も見てあげるわ」
「えーと……それは……」
「大丈夫大丈夫、不備があれば教えてあげるから」
「いえ、書類はいったん主計官と徴税官に戻しますので……」
困り果てる役人だった。
* * *
ロイツェン首都の某所。
「いささか、妙なことになりましたな」
金糸の刺繍で飾りたてた赤い軍服を着た男が、顔をしかめて腕組みをした。
別の男、こちらは懐古趣味の青いケープを着た男が、その言葉にうなずく。
「あのバカ公女が、まさか殿下の公務を手伝えるほどになっていたとは……」
するとまた別の男、緑のジャケットを着た若い男がワインの銀杯を手に取った。
「姫は来年には成人し、婚姻が可能になる。だが今までの姫には、政務を取り仕切る力がなかった」
「そこで大公家の遠縁であるあなたが婿入りし、この国の実権を握っていただく……そういう予定でしたが」
青いケープの男が溜息をつくと、赤い軍服の男も緑のジャケットの男も溜息をついた。
「今のままだと、普通に政務できてしまう」
「ええ、姫のことは完全にバカだと思っていましたが……」
「思ったほどバカじゃなかった……」
どんよりとした重い空気が漂う。
緑のジャケットの男が、ふと思い出したように口を開く。
「姫はこの数ヶ月で、驚くほどに変わったな」
「家庭教師が替わってからですよ。あの……なんだっけ、ほら流れ者の紋章官の」
「ああ、クロツハルトか」
一同がうなずく。
「彼が姫を教えるようになってからは、姫は見違えるほどに熱心になったらしい。宮中でも噂ですよ」
「どういうことだ? あんな田舎者に、そんな学識があるとも思えんが……」
彼らはクロツハルトの知識を知らないし、また学問を教える側に技術が必要なことも理解していない。
学問を修得できるかどうかは「生徒の努力と頭の良さ次第」だと考えている。それがこの世界の「常識」だった。
すると緑のジャケットの若者が言った。
「姫も十五歳、年頃か……」
「ん? ああ、そういうことですか」
一同はニヤリと笑う。
「あのクロツハルトとかいう流れ者、なかなかの優男。姫はああいう男がお好みですかな?」
クロツハルトの日本人的な顔立ちは、ロイツェンでは「男性的な力強さに欠けるが、整っている」と受け止められている。
一同はニヤニヤと下品な笑みを交わした。
「勉学に熱心な理由はそれですかね」
「他に考えられんよ。そうだろう?」
彼らはフッと笑い、肩をすくめる。
「やはりバカ娘か」
完全に偏見と誤解だったが、そう解釈すれば「マリシェ公女は愚かな小娘である」という認識を改める必要はなくなる。
人は往々にして、認識を改めるよりも都合のいい仮説を信じたがる。
「ですが、そうなりますと対処は簡単ですな」
「どうするつもりだ?」
「簡単なことですよ。クロツハルトが公女殿下にさえ色目を使うような男なら、他の女に手を出すこともありましょう」
青いケープの男は笑っていたが、目は冷たかった。
「ちょうど私の寺院に、手頃な孤児がおります。メイドとしての訓練も積ませておりますので、適当な場所に潜り込ませましょう」
「なるほど。後は勝手に……ということか」
赤い軍服の男が溜息をつく。
青いケープの男は嘲笑を浮かべたまま、小さくうなずいた。
「クロツハルトがメイドに手を出したとわかれば、姫は激怒。姫の気性なら、泣き寝入りはありえんでしょう」
「あまりやりすぎてくれるなよ? 姫には利用価値がある」
緑のジャケットの青年が眉をひそめるが、赤い軍服の男が笑う。
「なに、大公が姫に愛想をつかして寺院にでも入れてくれれば、あなた養子に迎えることになりましょうぞ。あなたは遠縁とはいえれっきとした男系、正当な血筋をお持ちです」
逆に言えば血筋以外は何もない男だったが、緑のジャケットの男は薄く笑う。
「そうだな。俺が大公になった暁には、聖灯教パルネア派には惜しみない援助をさせていただこう」
「かたじけないお言葉。パルネアの門徒たちも喜びましょう」
青いケープ、聖灯教の大神官が恭しく頭を下げる。
緑のジャケットの青年は、赤い軍服の男にも声をかけた。
「もちろんパルネアとの軍事同盟も強化しましょう。北のグライフ帝国に対抗するには、どのみちパルネアと手を組まねばな」
赤い軍服、パルネア王立騎士団の将校が目を細める。
「左様でございますぞ。東のロイツェンと西のパルネア、我らは聖灯教の同胞として協力しなければなりません」
* * *
「軍事面では、パルネアと手を組んでも意味がないんですけどね」
俺は地図に書き込まれた「聖パルネア王国」の文字をペン先でつつきながら、マリシェ姫に説明した。
「あそこの軍隊、未だに長槍隊が主力らしいんですよ。信じられますか?」
「槍……」
マリシェ姫が「うげぇ」という顔をする。
「的じゃん!?」
「ええまあ、ロイツェン軍やグライフ軍相手だと的にしかなりませんね。パルネア軍は大損害覚悟で突撃して、数で押し潰すしかないでしょう」
数で負けていた場合はもちろん、銃と銃剣でボコボコにされて終わりだ。
「とはいえ、パルネアはロイツェンと同じ聖灯教の国です。北のグライフ帝国や東のシュバール部族連合は異教徒ですから、考え方がまるっきり違っててやりづらいそうで……」
俺も仏壇に手を合わせたり初詣に行ったりする人なので本当は異教徒なんだが、そこは知らん顔をしておく。
俺はどんな神様でも拝むよ。
マリシェ姫は少し考え込み、それからこう言った。
「聖灯教の国でグライフ帝国に対抗できそうなのは、ロイツェンとパルネアだけよ。パルネアとは同盟関係だけど、大丈夫かな?」
「どうでしょうね。姫が大公になったら、また考えて下さい」
「そうするわ……」
聞けば聞くほど旧態依然としているし、大丈夫じゃないと思う。
地理の授業を終えた俺は宮殿を出て、自分の屋敷へと戻る。
「ただいま、ハウザー」
「お帰りなさいませ、旦那様。兄貴が今夜は羊肉を焼くって言ってましたよ。いい肉が買えたらしくて。ほら、旦那様の好物でしょ?」
帯剣した門衛が敬礼し、それからにっこり笑った。
うちの門衛のハウザーと料理人のリックは平民出身の退役軍人兄弟で、どちらも屈強な青年だ。
ただ、ちょっと問題があった。
「羊か、旨そうだな。ところで新しいメイドは、まだ見つかってないか?」
門衛と料理人とメイドが一人ずつの我が家だが、こないだメイドのおばさんが急に退職してしまった。
俺は使用人たちの主だが、王と貴族のような主従関係ではなく、ただの雇用関係だ。辞めると言われたら引き留められない。
しかも「貯金が十分できたから郷里で暮らす」と言われたら、なおさらだ。
門衛のハウザーは槍代わりの長い棒で肩をトントン叩きながら、溜息をつく。
「旦那様は貴族だけど余所者の新参ですし、そんな屋敷で働こうって物好きはそうそういないっすね」
「はっきり言うよな、お前」
大公が直々に手配してくれた連中だから信用しているが、とにかく遠慮がないのが困りものだ。
「参ったな、男ばっかりじゃシーツの取り替えも一苦労だぞ……」
「旦那様が一番家事上手ってのが笑えますよね、ははは」
「笑いごとじゃないだろ!?」
洗濯機も掃除機もないこの国で、それなりに広い屋敷の維持をしようと思ったら大変だ。
軍隊上がりのガサツな男たちじゃ、どうしても無理がある。
「こうなったら大公にお願いして、侍女を派遣してもらうしかないか……」
俺が溜息をついたとき、背後から声をかけてきた者がいた。
「あの、クロツハルト様のお屋敷はこちらでしょうか?」
「ん?」
俺が振り返ると、十代半ばぐらいの少女が立っていた。
結構可愛いな。俺と同じ黒髪で、短めに切りそろえている。全体的に機敏そうで、清楚さと清潔感があった。
「クロツハルトは俺だが、君は?」
少女は背筋を伸ばし、はきはきと答える。
「コレット・リンネンと申します。メイドの求人を見て参りました」
優美な仕草で、少女は俺に頭を下げた。