01話
俺は半年ほど前まで、山手線に揺られる平凡な「サラリーマンの黒津さん」だった。
今はどういう訳か、聞いたこともない国で「亡命貴族のクロツ卿」として王宮暮らしをしている。
この国の名はロイツェン大公国という。
ここはたぶん、俺の知らない世界だ。
俺は書類の束を小脇に抱え、大公の執務室に向かう。
この世界にスーツ姿で迷い込んだ俺は、その服装のおかげで亡命貴族と勘違いされた。
ロイツェン……いや、この世界において、貴族たちは自国の民衆よりも異国の貴族に親近感を抱く。価値観が近いからだ。
だから俺は勘違いされたまま、丁重に扱われた。
その後俺はロイツェン貴族の仲間入りを果たし、今は紋章官という仕事をしている。
一代限りの下っ端貴族で領地はないが、王宮の近くにそれなりの邸宅を与えられた。紋章官の給料もあるので生活は快適だ。ロイツェン語も覚えた。
生活水準は十九世紀レベルだが、意外と悪くない。
だからそのぶん、仕事はきっちりしないとな。
そのとき、廊下の向こうから激しく言い争う声が聞こえてきた。もちろんロイツェン語だ。
「先生、どこに行かれるおつもりです!?」
「これ以上、あのお方の教授などできません! 学問に対する侮辱も甚だしい!」
「いえ、そこを何とか……お待ちを! 誰か! 先生をお止めしろ!」
またか。
関わり合いになりたくない俺は知らん顔をして、執務室のドアをノックした。
すぐに返答がある。
「誰か?」
「クロツです、御前」
「うむ」
入っていいらしい。
俺がドアを開けて入室すると、ロイツェン大公ベルン殿下が頭を抱えているところだった。
見た目は厳めしいが、気さくで温厚な人物だ。学問と平和を重んじる名君でもある。
彼は白髪混じりの髪を撫でつけながら、小さく溜息をつく。
「何かね?」
「カールマイネン市製紙組合から、組合章登録の届け出です。申請された図案を検討したところ、過去に類似の紋章が見つかりました」
大公は眉をひそめ、俺が差し出した書類を受け取る。
「いかんな。両端の杉の葉は認められん。これは外すよう伝えなさい」
「承知しました」
どういう訳か、紋章の図案にやたらと厳しい制限があるのがこの国だ。
紋章の授与や認定の全権は大公が持っており、必ずチェックが入る。
図案の指示が終わった後、大公はまた溜息をつく。
「どうやらまた、マリシェの新しい家庭教師を捜さねばならんようだ」
「そのようで……」
マリシェというのは大公の一人娘。いずれはこの国を背負って立つ人物のはずだ。確か今年で十五歳。来年には成人の義が行われる。
式典などで顔を見た程度だが、家庭教師をやたらと辞めさせる娘だというのは知っている。
大公は腕組みして椅子にもたれた。
「もう国内には引き受けてくれそうな学者がおらんぞ? どうする?」
「どうすると仰られても困るんですが。私は異邦人ですし」
「わかっておる。だからこそ、ロイツェン語に堪能でなくとも務まる紋章官を任じておるのだ。……いや待て、君のロイツェン語はもうずいぶんと上達しておるではないか。早いな?」
ちらりと俺を見る大公。
それから彼はとんでもないことを言い出した。
「君、ニホンとかいう国の貴族だったな?」
「貴族ではありません」
すると大公はおかしそうに笑う。
「あのような立派な身なりをした青年が、貴族でないはずがあるまい」
立派じゃないです。二着目半額セールの安いスーツです。
でも「私の国では平民があれを着て働いているんです」と言っても、全く信じてもらえなかった。
そりゃそうだよな。
スーツは元々、ヨーロッパ貴族の普段着だ。
ロイツェンの平民が着ているのは、つぎあてだらけの汚れたシャツだ。
シミもつぎあてもなく、丁寧にクリーニングされたスーツなど持っているはずがない。
大公は微笑みを浮かべたまま、こう続ける。
「君のこの半年の働きぶりは、つぶさに見てきた。勤勉で堅実、そして博識。君が極めて高度な教育を受けてきたのは間違いない。おおかた、名のある学者なのであろう?」
ロイツェンでは学者は例外なく貴族だ。平民はまともな教育を受けられないし、学者になっても食っていけない。
「違いますから」
「ふ……。まあよい、そういうことにしておこうか。人には皆、事情があるからな」
うんうんとうなずく大公。
だからそうじゃないって。
それから大公は言った。
「ちょうどいい。君がマリシェの家庭教師をやりなさい」
「私がですか!?」
「なに、次の者を見つけるまでのつなぎで良いのだ。君は異邦人だが、それゆえに国内の利害関係とは無縁。ニホンという国も近隣にはないから、間者の類でもなかろう」
それはまあ、そうなんですが。
大公は温厚だが、一度決めると割と頑固だ。
それに国家公務員として給料をもらっている身として、大公には恩がある。
大事な一人娘の教育を任せようというのも、信頼の現れだ。
「御前」
「何かね」
大公の視線を正面から受け止めながら、俺は小さく溜息をついた。
「何を御教授すればよろしいので?」
にんまりと笑う大公だった。




