遺産
私は、山奥にある古びた無人駅に降り立っていた。ここから数十分ばかり山道を下ったところにある集落に曾祖父の家があり、これからそこへ遺品の整理のために向かうのだ。
随分と長命だった私の曾祖父が亡くなったという連絡が私の元に届いたのは数週間前のことだった。曾祖父の息子に当たる私の祖父は数年前に足を痛めており、山奥にある集落まで出向くことはできず、その娘に当たる私の母は仕事が繁忙期で時間が取れず結局私一人で来ることになった。元々山奥の集落に不釣り合いな洋館を建て、そこで一人孤独に晩年を過ごしていた曾祖父は親戚から変人扱いされていたようで、皆この役目を嫌がっているという。かく言う私にとってはそもそも幼少の頃に一、二度会った事がある程度で、もはや顔も写真に映ったものしか知らないだが、とはいえ、嫌がっている人達に遺品の整理をされるよりは良いだろうという事情もあってこの役目に私は適任と言えるだろう。
しばらく、山道を下って辿り着いた集落は閑散としていて、とても活気があるとは言えなかった。まばらに家が建っているが、土地のほとんどはかつて田畑だったと思われる荒れ地だった。時間帯が朝の所為か人通りがあまり見られない事も活気が無いと感じた理由の一つだろう。土地勘のない場所で場合によっては誰かに道を訊かねばと思っていたので早々に不安がよぎったが、その不安は程なく解消された。私の祖父が建てたという洋館はこの山奥の集落ではとても目立っていたのだ。洋式の建物などという生易しいものではなく正に洋館と表現するに相応しい外観と規模を持つその二階建ての建物は遠くからでもすぐに分かった。おかげで、その洋館に辿り着くまでに庭先で話し込む年配の女性達や縁側でぼんやりしている老人などこの集落の住人の姿を幾らか見かけたが彼らに話しかけることはなかった。
しかし、いよいよ洋館の立派な門の前に辿り着き、その先にある広大な庭の荒れっぷりや元は純白のであったと思われる洋館の壁がまだらに汚れ蔦が這いあがっている様を目の当たりにして、そのおどろおどろしい見た目に気圧されていると、一人の老人が私に声を掛けるかけてきた。
「その洋館に用があるのかね?」
その老人はどこにでも居そうな普通の老人で、特に大した理由は無く通りがかりに声をかけてきた様だったが、問いかけに対して私が頷いて肯定の意を示すと途端に顔をしかめた。
「悪いことは言わんから、その洋館に入るのはやめておきなさい。どうしても入るというのなら、その洋館にはあまり良くない噂があるということだけは覚えておいて、気を付けなさい」
老人はそれだけ言うと去っていった。老人の忠告が全く気にならなかったと言えば嘘になるが、私は老人の言葉が洋館の不気味な外観から来たものだと決めつけ、あまり気にしない事にした。私も何も知らずにこの洋館を目にすれば何らかの曰くつきの物件ではないかと勘ぐるだろうからだ。しかし、この洋館に少し前まで暮らしていたのは私の曾祖父であり、かなり高齢だった曾祖父が一人でこの規模の建物を十分に管理できていたとは思えない。そのような事情を知っていれば洋館の荒れはてた外観から感じる不気味さも和らぐというものだ。
錆びついて動きが鈍くなった門を押し開け、延び放題になった庭の雑草を踏み倒して、玄関まで辿り着いた私はいよいよ曾祖父が遺した洋館に足を踏み入れた。
中に入るとそこは広い玄関ホールで左右に廊下が伸びており、正面には両開きの立派な扉が見えた。
扉の先にあった食堂はアンティーク調の家具で統一された品のある印象だったが、最低でも十人は掛けられそうな長テーブルは老人の一人暮らしに本当に必要だったのだろうかと疑問に思える。また、天井に電気の照明があるにも関わらず、テーブルの上や壁に配置された燭台が古風な雰囲気をさらに引き立てていた。
その食堂の奥にあった台所も、料理店の厨房と言った方が良いような銀色の壁とそれなりの広さを持っていた。こちらはいくらか埃が溜まってはいたが銀色の壁は綺麗に輝いており、よく手入れされていることが感じられた。しかし、今まで見てきた洋館のイメージと全く異なる現代的な厨房はどことなく澱んだ嫌な空気を感じさせた。
厨房は綺麗に整理されていたため、下に地下室があり床の跳上げ戸からはしごを降りていく構造になっていることにはすぐに気付くことができた。厨房の地下という位置から考えても食べ物の保存用の部屋だということは明らかだったが、何か残っていたらついでに片付けようと思い梯子を降りて地下室へと入った。しかし、予想と違いその地下室は食べ物の保存用という雰囲気ではなかった。その部屋には、鎖のついた枷や切れ味の悪そうな鋸、大きな金槌などが置かれており、他にも私には用途の分からない道具が所狭しと並んでいた。さらに、その道具や地下室の床、壁には血の跡のような黒い染みがはっきりと残されていた。曾祖父はここで食用動物の屠殺でもやっていたのだろうか。
気味が悪かったので早々に地下室を出て玄関ホールに戻った私はそこから左右に延びる廊下を探索してみたが、この洋館にはそのサイズに見合った立派な食堂と厨房、それに厨房から続く地下室がある他には奇妙な作りの生活感の無い部屋が数十も並んでいることが分かった。そのどれもが入り口のドアは外側からしか鍵を開閉できず、窓は高い位置にある嵌め殺しの窓のみ、家具は貧相なベッドと一人用の小さな家具が幾つかという極端に質素な部屋だった。二階もほとんど同様の、客室というにはあまりに質素すぎる部屋がある中で一部屋だけ他の部屋とは明らかに内装の異なる部屋を見つけた。その部屋は他の部屋と広さこそ変わらない物の大きな本棚や立派な机、上質なベッドなど明らかに他の部屋より質の良い家具が揃えられており、この家の主の部屋だったことが容易に推察できた。
その部屋の本棚で私が何気なく手に取った一冊の本はとても手触りの良い皮表紙でタイトルは見たこともない文字で書かれていて読めなかった。何となく興味を引かれた私はその本を開いてみたのだが、その瞬間、気が付くと先程見た食堂の長テーブルの端の席に腰かけていた。目の前には汚れ一つない食器が綺麗に並べられている。そして、私の対面、長テーブルのずっと向こう側には一人の老人が腰かけていた。その顔を見た瞬間、自分でも顔が青ざめていくことが分かる程、強い恐怖を感じた。写真でしか見たことが無かったがその老人は死んだはずの曾祖父にそっくりだったのだ。
彼は私と目が合うとゆっくりと口を開きしわがれた声を出した。
「新鮮なうちにお食べなさい」
その声に誘われるようにゆっくり視線を落として目の前に置かれた皿(それはスープを食べるときに使うような少し深さのあるものだった)を見ると、先程まで確かに何もなかった皿の中に何かが入っている。それは血のように赤い汁に何かの具材が入っているスープのようだったが、よく見るとそれらの具材一つ一つが蠢いていた。さらに、よく観察していると、スープに浮かんでいる具材は人間で中には集落を歩いているときに見た顔もあった。皿の淵をよじ登ろうと足掻いては滑り落ちる人々の様子はそこに地獄の一角が再現されているようで、とても見るに堪えない物だった。まして、とてもではないが曾祖父の言葉に従ってこれを食う気にはなれない。そう思って顔を上げると、対面で曾祖父がじっとこちらを見つめていた。頼りない老人である筈のその姿からは巨人を目の当たりにしているかのような不可思議な威圧を感じた。
そうして、老人に睨まれながら地獄のスープを前にしてどれだけ時間が経っただろうか、数十分だろうか数時間だろうか、はたまた数日だろうか。とにかく、いくら足掻いても金縛りにあったように椅子から立ち上がることはできず、目の前には相変わらず地獄が繰り広げられていた。時間感覚が無くなり現実がどうであれ長い時間が経過したように感じると急に空腹に襲われ、一度意識してしまった空腹感は急激に限界に近づいていった。そうなると不思議なもので目の前の地獄のスープが美味しそうに見えてくる。少しだけ、赤いスープの部分だけなら問題ないだろう、という思いが頭の中に浮かぶたびに必死に振り払う。
だが、やがて極度の空腹状態に陥るとそんな小さな抵抗も全く意味を成さなくなった。そしてついに、抵抗する意思が消し飛び、朦朧とする意識の中で口にしたスープはそれまでの人生で一度も口にしたことが無い程美味しかった。赤い色のスープはしっかりとした味だがくどくなく飲みやすい。具の肉は柔らかい肉の食感とパリパリとした骨の食感を同時に味わうことが出来、後から来る若干の苦みが良いアクセントになっている。我を忘れて夢中でスープを掻き込むとお代わりまで要求したが、その要求に反応がなかったことで我に帰った。顔を上げるとつい先ほどまで対面に座っていたはずの老人の姿はなく、慌てて視線を落とすと数秒前までそこにあった筈の食器も跡形も無くなっていた。
先程まで起きていたことは何だったのだろうか? 正気に戻ったことで生じた疑問と同時に自分があのおぞましいスープを食してしまった事を思い出し吐き気が込み上げてくる。しかし、慌てて駆け込んだ洗面所で私が吐き出したのは胃液だけだった。
とにかく、もうこんな気味の悪い屋敷に長居はしたくない、ろくに会ってもいなかった曾祖父の遺品整理など引き受けたのが間違いだった。こんなことはもっと曾祖父の事をよく知る人物がやるべきだったのだ。そう考えた私はすぐに屋敷を飛び出して駅に向かって走り出した。しかし、すぐに足を止めてしまう。集落を行き交う人々がどうしても気になるのだ。
目に付くのはゆっくりと散歩を楽しむ老人、道端で話し込む主婦、畦道を駆けていく子供たち、そして思い出されるのは屋敷にあった不気味な部屋とおぞましい筈の体験。
彼らはどんな味がするのだろうか……
キーワードのカニバリズムがほぼネタバレになってる気がします。