第七話:夢うつつ
自由を象徴するような、どこまでも広がる草原の真っ只中に“彼”はいた。
暑すぎもせず、寒すぎもせず。
心地の良い陽の光が大地を穏やかに照らしている。
そのポカポカとした陽気に、彼は一つの思念をこぼす。
‘なんだか眠くなってきたな……’
するとその思念とほとんど同時に――柔らかで寝心地の良さそうなベッドが忽然と彼の目の前に現れた。
どうみても明らかな異常現象だ。
しかし彼は全く不思議に思う素振りすら見せず、そのベッドに仰向けで横たわり、気持ちよさそうにぐっと伸びをした。
彼はあくびをしながら空を見上げる。
ぽつりぽつりと白い雲が浮かぶ青空。
きっといくらか前の時間を切り取って見比べても、さして違いが見いだせないであろうその景色は、すこしばかりのつまらなさと大きな安堵をもたらした。
彼はしばらくそうやってぼんやりとしていたが、ふと揺蕩う雲の一つに変化があるのに気付き目を細める。
淡く様々に発光する、無数の靄のような塊。
それが天からその雲の下に溢れ出し、お互いを追いかけるように青空を舞う。
やがて、空に円状の、虹にも似た光の環を作り出した。
そして、その光の環を注意深く観察すると、例えば月面の模様や星の並びのように、解釈の仕方によっては“文字”や“絵”のような紋様が列をなして蠢いているようにもみえることだろう。
“デュナミスの光環”。
神話では創造神の一柱であるデュナミス神が世界を見下ろす“瞳”であると語られることから、大陸の人々の間では俗にそう呼ばれている、一種の自然術式である。
現存するあらゆる魔法術式は、この光の環に顕れる紋様を劣化解釈して生み出されたものとされており、魔法史においても大変重要な意味を持っている。
とはいえ、そんなことは今こうして寛いでいる彼には関係なく。
その幻想的ともいえる光景はただただ彼の睡魔を呼び寄せるだけだった。
‘あー自由ってサイコー。やっぱ人間、こうして何にも囚われず、思いのままに生きるべきだよなー’
再び大きく欠伸をした彼は、満足気に頷くとそのまま目を閉じ、本格的に夢の世界へと旅立とうとするが――。
――しかしその時。
‘――――’
彼以外、誰も居ないはずのこの世界に、何者かの声が小さく響き渡った。
‘なんだ?’
寝入るのを邪魔された彼は、不機嫌そうな思念を零しつつ目を開く。
‘!!??’
――しかし彼は、視界に飛び込んできた光景に思わず絶句する。
真っ黒に渦巻く、空を覆い尽くす勢いの黒雲。
極彩色に光り輝きながら高速で回転する“デュナミスの光環”。
ベッドの周りには赤茶けた大地とまるで墓標のように立ち並ぶ石柱群。
まるで終末の日が訪れたかのような悍ましい光景だ。
彼は一体何が起こっているのか分からず、カクカクと起き上がって呆然と空を見上げる。
‘――――’
すると再び、世界に謎の声が響き渡った。
その声に我に返った彼は、怯えと怒りを等量含ませた声を上げる。
‘誰だお前は!? 何を言っている!?’
その刹那――それまで激変に次ぐ激変を繰り返していた世界がまるで時が止まったかのように静止し、すべてがセピア色へと変貌した。
いや、違う。ただひとつだけ色彩を残しているものはあった。
“デュナミスの光環”。ただそれだけは鮮烈なまでの光彩を保っていた。
‘……!?’
もはや何も言えず口をパクパクとさせる彼を置き去りにして、光の環に更なる変化が生じる。環の中央に巨大な緑の真円が生じたのだ。
彼は言い知れない恐怖に身を苛まれながらも、どこかソレに既視感を覚えた。
果たしてどこでソレを見たのだったか。そんな現実逃避のような思考を彼は働かせていたのだが――。
――彼はついに先程から聞こえてきていた声を……言葉として認識してしまう。
‘……ぱぱ……’
‘……ぱぱ……’
‘……ぱぱ……’
――ああそうか……と乾いた笑みを浮かべた彼はようやく気付く。
この空は、この瞳は――シャルティアという名を与えた、あの少女の瞳なのだな……とッ!
「ぎゃああああ! いやだああああ! 俺は! 認知なんて! 絶対にしないからなあああ!! あああああああ!」
§
「あああああああ!」
俺はみっともない悲鳴を上げながら、寝ていたソファの上から飛び起きるッ!
な、なんだ今の恐怖体験は!?
攻撃か!? 俺は何か冒涜的で名状しがたい何かに攻撃されているのか!?
くっ、誰だか分からないが上等だ!
この、自由を愛する錬金術師グランニート・レインジーが相手になってやる!
認知? 責任? そんなのクソ食らえだ! 俺にはそんな精神攻撃は効かないぞ!!!
恐怖の残滓に震えつつもなけなしの勇気(!)を振り絞って、俺は鼻息荒く周囲を見渡した。
「…………」
空きが多い素材棚。
わずかに余熱が感じられる錬金釜。
弱々しく明滅を繰り返す魔石灯。
俺がいるのは普段の俺の工房で、そこには俺以外の何者かが潜んでいるようには見えない。
「……ふぅ……。なんだ、全部ただの夢……か。全く驚かせやがって……。そうだよな。俺を、ぱ……違う。俺をあの、人生を雁字搦めに縛る呪わしい単語で呼ぶ子供なんていなかったんだ。全部、ぜーんぶ、気の所為だったんだ――」
――ガタン!
「だいじょうぶですかっ!?」
「!? あああああああ!!」
でたああああ!!
俺は、扉を勢い良く開けて飛び込んできた少女“シャルティア”を見て、再び絶叫した。
§
なんとか悍ましい悪夢の影を振り払った俺は、いつの間にか近くで心配そうに俺を見上げていたシャルティアに超大事な要求をすることにした。
俺はもう決して、あの呪わしい単語で俺のことを呼ばせはしない!
「いいか、俺のことは師匠と呼ぶように」
「え!? えっと、そ、そんなことよりっ――」
「そんなことよりじゃない。これは何よりも大事なことだ。ほら復唱!」
「は、はい! ししょ……、おししょうさまっ!」
「うむ、そうだ。それでいい。いいか、くれぐれも気をつけろよ。俺とお前の関係は師匠と弟子。人と人との間の関係というものはだな、まず相手のことをどう呼び、そしてどんな話し方をするかで決まるんだ。この俺の弟子となったからには厳しくいくからな」
「わ、わかりましたっ」
俺はそれらしいことを言い募ってシャルティアを丸め込んでいく。
心なし早口になっているかもしれないが、きっとそれは気のせいに違いない。多分きっと。
禍根を断ってようやく一息つく。
中途半端にまだ身体に掛かっていた毛布を払い除け、足を床に下ろして腰掛ける。
そしてそれでもまだ下にある小さな頭を見下ろした。シャルティアは両手を胸のあたりでぎゅっと握り合わせたまま、俺の動きをじっと目で追っていた。
……はあ。それにしてもなんだっんだろう、あの悪夢。
俺の想像力とか大したもんじゃないと思っていたが、無意識の中ではかくも壮大な空想世界を構築できるのか……。こんなリアルすぎる夢、生まれて初めて見たわ。
というか気分的な問題だけじゃなくて、体の方もすこし重い気がするし。
もしかして本当に体調の方も少し崩れているんだろうか。
それと精神的なショックが重なって、無意識の扉が開かれたとか?
まあなんでもいいか……。一応、後で適当に滋養強壮薬でも飲んどけば……。
思わずため息をつくと、それにシャルティアが反応した。心配気な声である。
「あ、あの……。おし……おししょうさま。ほんとうに、だいじょうぶですか? さっきのは……?」
「さっき?」
さっきって何があったっけ。頭が働かねえ………………あっ。
「その、大声で『ああああ』って……」
おずおずと続けられた言葉に、俺は内心で頭を抱えた。
そうだよ……。
呼び名をなんとかすることで頭が一杯だった。
そっちも誤魔化さないといけないのか。
もういっそ、正直に言うか?
『悪夢にビビって思わず悲鳴をあげてしまったんだ。ははっ』
って。
……いやダメか。たった今、立場がどうこうと口にしたばかりだったな。威厳の欠片もないセリフだし……。
俺は、”ぱ”から始まる例の単語を心の平穏のために可能な限り遠ざけなければならないのだ!
シャルティアには俺のことをアレな関係ではなくキチンと師弟関係として認識してもらわないといろいろ困る!
「……淀んだ魔力……そう、淀んだ魔力が体の中に少しばかり溜まっていてな。その淀んだ魔力をー、あー、大声をあげることで外に出していたんだ。心配することはないぞ」
「そ、そうなんですか?」
キョトンとしているシャルティアに俺はもっともらしく頷いてみせる。
そうなんだよ。
俺もそんなこと出来るの今初めて知ったけど。
びっくりだよなー。
……無理がある気がしないでもないけど、『悲鳴あげちゃったぜッ』よりはマシだよね。うん。
悪夢、もとい淀んだ魔力が全て悪いんだ!
――ちなみに巷では、サボりたい時に突然起きる腹痛とか親族の不幸並みに便利扱いされる言い訳のひとつである。”淀んだ魔力”は放っておけば様々な不調を引き起こすがゆえに、あらゆる問題を(表面的に)解決する!
しかも即座に復調するような魔術や神術、薬品があるわけではなく、”十分な休養を取る”くらいしか実は確かな対処法がないことあたりが素晴らしい。
というのも、人には『ヒュレーの魂脈』、いわゆる個人の霊的性質を規定しているとされる複雑怪奇な生体術式群が存在しているのだが、別にコレ、自分の意志で動かせるわけではなく、心臓のように勝手に動いていて手出しができないのである。
魔法を使ったり概念効果として抽出した魔力の塊を取り込んだ時に、特に元気に動いているらしー程度のことしか分かっておらず、”淀んだ魔力”みたいなふわっとした異常は却って手が出しにくいという。
まー要約すると。
――未知ってすばらしいぜ!
とそういうことだなッ。
うんうん、我ながら実に錬金術師らしい感慨じゃないか。
俺があれこれ割りとどうでもいいことを考えている間も、『断じて俺の娘なんかではなく、お互いの差し迫った必要性という超ドライな理由で俺の弟子となった』シャルティアはじっと俺のことを見ていたが、
「ほっ……。ほんとうに、よかった、です」
と、安堵の吐息をついてようやく安心した顔を見せる。
どうやらやっと『俺という契約相手』に問題が起きていないことを理解したようだ。
いやあ、寝起きから大変だったな。