第二話:ある冬の晩の出会い
それは今からおよそ五年前、ちょうど最初の寒波が到来した、ある冬の晩のことだった。
『くっそ、この世から仕事の概念なんて無くなればいいのに。あ~~~、働きたくね~~~。だいたいなんで働かないと金が手に入らねえんだよ。おかしいだろ。世の中絶対間違ってる。変革が必要だよ。俺はやらないけど誰か代わりにやってくれよ』
なんて日々ぼやきながらも、一応はまだ現役の錬金術師をやっていた二十七歳当時の俺は、王都の外れの外れ、いわゆる“スラム街”に向けてこそこそとまるで泥棒のように歩を進めていた。
――いや、まるで泥棒のようにと例えはしたが、傍目から見れば俺の見た目はむしろ“外道魔法師”や“闇の売人”、あるいは“禁忌に踏み込んだ錬金術師”のように見えたかもしれない。
黒いマントとフードで全身をすっぽり包み隠し、片手には不気味なドクロの装飾が施された錬金杖……みたいに見える虚仮威しの杖を握っていたからな。
いやあ、あの杖の加工は大変だった……。丸三日は掛かったのは覚えている。
都の主要な区画からずっと外れた場所に向かっていたがゆえに人工の灯火は次第に数を減らし、天もまた分厚い雲に覆われていて星明かりどころか双の月すらともに姿を隠している。
まだ積もってこそいないものの粒の大きい雪がまばらに降り始め、時折、思わず震え上がるほどの寒風がびゅうと狭い通りを駆け抜ける。
そんな風の音以外に聞こえるものはというと、段々ボロく汚くなってきた家屋がギィと軋む音くらいで、まだ王都のカースト最底辺である“開発一時中止区域”、スラム街にたどり着いていないにも関わらず、そこは早くも鬱々とした雰囲気をかもし出していた。
周囲の景色や雰囲気にまるで魔物でも潜んでいそうな空気を感じ取り、当時の俺はただでさえ寒さで思うように動かせない全身の筋肉をこわばらせた。
”錬金杖”。
本来ならば一工程であらかじめ内に込められたエネルギーを解放できる、錬金術師ご用達の護身具。
作成者の技量と資金力により威力は大きく大小するものの、魔法使いに対しては発動速度の点で、剣士に対してはリーチの点で優位性をもつそれを、一ヶ月分くらいの酒代はガマンして貯めて、ガワだけではないちゃんとしたものを作るべきだっただろうか。
思わず、自他ともに認める怠惰で刹那的なこの俺が、そんな普通のことを考えてしまうほどには、既に異質な場所になっていた。
……二回目になるが、この時はまだスラム街には到達していないにも関わらず、である。
「やっぱり……日を改めたほうが良いかな……。寒いし……不気味だし……。ここは利口に戦略的撤退というのもあり……なんじゃないか? …………いや、ダメだ。俺のことだ。ここで引き返してしまったら、もう二度とこんな所には来ねえぞ。俺はここで、誰にも文句を言われない俺のためだけの金づるを手に入れるんだ……ッ。夢のヒモ生活はもう、すぐそこにあるんだぞッ」
流石に五年も年を重ねた今となっては、名案というよりむしろ迷案と呼べるだろうそれに当時の俺はしがみつき、まるで軍属の錬金術師が創り出した量産型のホムンクルス兵のような気味の悪い動きで俺は必死に闇に向かって進んでいた。
――それに、今晩でなくてはならないのだ。
当時の俺は自分にそう言い聞かせる。
今晩は王都の警邏を司る衛兵が、他の主要な場所に多く配置されている。
齢十になる王女殿下の誕生祭。身体が大変に弱いことで広く市井にも知られていて、俺の錬金術師としての商売相手にもよく絡む寄生虫のようなゴミクズ共の間では、密かに毎年“新年を迎えられるかどうか”という下卑た賭けすら行われているらしい、儚き姫。
そんな姫の誕生日を、王家は毎年、国庫から莫大な資金を放出して盛大に祝っていた。
もちろん既に姫殿下は夢の中だろうが、そんなことは庶民には関係ない。
王都の民は盛大に開かれている祭りを、夜を徹して酒を飲み享楽に明け暮れて楽しんでいた。
ゆえに王都の治安を守る衛兵は、よりトラブルが多発するだろう主要区域に集中して警備を行っている。
……もっともそれも、祭りを楽しむ金すらないだろうこの近辺の住人には縁のない話なんだろうがな。
ちなみにまだ少しはマシだろうが、カッコよくいえば『宵越しの金は持たない』主義の俺も割りと危ない感じだから、人のことを言っている場合でもなかったりする……。
あまり現実の風景をみると怖気づいてしまいそうだった俺は、寒さに身を強張らせながらもそんな悲しいことを考えて、ひたすら歩んでいた。
――そして、俺はいよいよスラム街へと足を踏み入れた。
そこは、一言で言うと掃き溜めだった。
さっきまで内心で怯えていた区画がまだ人が住んでいるようには見えただけで随分と上等なものだったんだな、などと感じてしまうほどに。
何かが腐ったような不快な臭いが立ち込めていて、そこかしこの溝には糞尿の成れの果てのような物体が転がっている。
そのくせ、道とも呼べぬ曲がりくねった通りの上には生ゴミなんかは全く落ちておらず、雑草の一本も生えていないため、なんだか一周回って、臭いと溝の中さえ無視すれば、やけに整地されているようにすら見えてしまう。
廃墟のような建物が闇の中でもまばらに見え、廃墟とすら呼べないような柱のみ壁のみの構造物が墓標のように立ち並ぶ。
きっと屋内という概念がここにはないのだろう。
そのせいか遠く風に乗って『あ”ぁ…………』という、なにやら怨嗟のような苦鳴のような声が聞こえてくる。
――小心な俺はこの場にたどり着くことで初めて、自分の考えの浅薄さに思い至り罪悪感を抱くとともに、まるで危険な魔物が生息する魔境に踏み込んだかのように恐怖が身の内に沸き起こる。
平凡で凡庸な錬金術師といえど、俺は腐っても錬金術師である。
それはつまり、俺が世間の基準では下層ではあるが教育を受けた知識層に分類されるということを指す。
そんな俺が知る限り、俺が生まれ育ったこの王国は、周辺の国々と比べればまだ豊かで善政が敷かれている国であるはずだ。
確かに戦争はする。それもよくする。
しかしそれでも我らが王国軍は精強で、めったに紛争に負けることはない。
王国によるプロパガンダも多少は混じっているのだろうが、俺はそう理解していたし、そのために俺はまさか外ではなく内の、それも王国の中心であるこの王都にこれほどの闇があるとは思わなかった。
自身の性格なんかよりも、やはりこういった想像力の欠如こそが自身が凡庸にとどまる理由なのだろう。
別に俺は仕事なんか一切したくないし、そのこと自体には特に何の痛痒も感じない。まあそりゃねと思うだけだ。
だがそれでもなんとなく、自身がやろうとしていたことは俺自身の価値基準に照らし合わせてもやるべきではない行為なんだろうな、と俺は考えた。
スラム街に数歩ほど入り込んで珍しくマジメに頭を使っていた俺だったが、結論らしきものに残念ながら辿り着いてしまったようだ。
俺の悪い癖だな。だいたい自分勝手なくせに、肝心な時に日和ってしまう。
あーあ、度のキツイ酒でも飲んでから来ればよかったぜ。つまんねえ。
「……帰るか」
俺は小さくそう呟くと、踵を返してせせこましい我が工房に帰ることにした。
――その時。俺にとっては幸運なことに、といえるだろうか。
せっかくのナイスアイデアを放棄して帰りかけていた俺の耳に、まさに福音とも呼ぶべき小さな音が届く。
人、それも恐らく子供がくしゃみをする音。
それが近くのおよそ七十セメル(センチ)ほどの狭い路地の奥から聞こえてきた。
その音を聞いて割とすぐ気が変わる俺は、先程の結論をあっさり忘れて変心した。
「まじか……。これは天が俺にナイスアイデアを実行せよと言ってるんじゃないか!? まー倫理とか小難しいことはどうでもいいよね、うん。そんなの国政に携わるお偉い貴族様が考えときゃいいことだしな。ククッ、夢のヒモ生活はすぐそこだぜ」
テンションが上った俺はニヤニヤと笑いながら、そそくさと路地に入ろう……として冷静になる。
待てよ……? スラムのガキってすげえガツガツしてるイメージがあるな……。
ボコボコに殴られて身ぐるみ剥がされたりしないだろうか……。
それは困る。お上品な錬金術師である俺は荒事には向かないのだ。
というかそのために虚仮威しのドクロ付き錬金杖とか黒のマントを用意したんだった。
俺は路地に入る前にかじかんだ手で顔を揉んで、こう、恐ろしげな表情を浮かべられるように練習し、昨晩うんうんと唸りながら魔導書の呪文を見て考えた、威圧感を与えるためのセリフを頭の中で繰り返す。
そしてしばらくして、これで準備は万全だろうと思った俺は、内心かなりビビりながらも、音の出所に向けて進み始めた。
さて、大鬼が出るか大蛇が出るか。
大げさにもそんな気持ちになりつつ、俺は先を進む。
――かくして十数メル(メートル)ほどグネグネと進んだ俺は、そこに手ぬぐいほどの汚い布を布団代わりに体に巻き付けて震えている、囚人服でもまだましなんじゃねえかと思えるほどボロい服を着た一人の幼いガキを発見した。
丁度その瞬間、厚い雲が晴れて白と青の双の月が狭い路地の真上に姿を表した。
冷たい月の光に、まるで芝居小屋の舞台であるかのように明るく照らし出された路地。
そこにいたガキは俺の足音に気付いたか、埃にまみれた黒い顔を上げ、そこだけは寒々と輝く緑の瞳を俺に向ける。
――正直なところ俺は可哀想とかそんなことを思う前に、ゾッとした。
底知れぬ奈落を湛えた瞳。
俺の見せかけだけの表情や姿格好なんかはるかに超越した、本当の悍ましさがそこにはあった。
このガキの前では悪魔や悪霊ですら怯えて退散することだろう。
そんなバカげた考えがまるで絶対不変の真理であるかのように思えてしまう。
あまりにもビビったせいで、一周回って恐怖が何処かに行ってしまった俺は、半ば無我夢中で先程、頭のなかで練習したセリフを口にする。
「――この世全てに見捨てられし哀れな幼子よ。この先、幾夜過ごせるかも分からぬ迷い子よ。私の手を取れ。そしてその身を捧げて、私の役に立て。――されば私は、お前にささやかな救いを与えよう」
それは図らずも、悪魔との古き契約の文言をもじったセリフだった。
月明かりが照らす中、俺が差し出した手にその子供はわずかに緑の瞳を大きく見開いた。
そしてそれ以外は特に感情表現をすることもなく無表情のまま。
眼前の子供はゆっくりと俺の手を取り立ち上がった。
その外の気温にやられた冷たい手。
だがそれでも外気よりは温かいその手に、当時の俺はようやく目の前の子供は悪魔でも何でもないただの子供だと認識し、ホッとしたのだった。
*
これが、俺こと『グランニート・レインジー』と当時はまだ名も無き少女『シャルティア・レインジー』の出会いの瞬間である。
――そしていつも大体迂闊な俺は、この瞬間も安堵のあまり、あることを忘れてしまっていた。
そう、俺がどんな表情を浮かべて彼女と相対していたのかを。
さらには、俺がなんと言って彼女を口説いたのかを。
そして今、俺がどんな風に見える格好をしていたのかを。
――そのせいで、当時のシャルは見た目にこそ一切表していなかったが、俺は彼女に壮絶な覚悟をさせてしまっていたのだった。