第一話:おそようございます
深海をのんびりと泳いでいた魚が突然、巨大な海棲生物と遭遇した時の心境とはどういったものだろうか。
地面に降りて甘い木の実を夢中で頬張っていたリスが突然、暗い茂みの奥に光る捕食者の眼光に気付いた時の心境とはどういったものだろうか。
俺こと『グランニート・レインジー』は、そういった愛らしくもか弱き生き物の心境をカンペキに想像できるとここに断言しよう。
俺とシャルの事件簿、第云千号“妄言から出たエリキシール”事件からしばしの後、俺とシャルの暮らすアトリエを兼ねた一軒家は更なる拡張を遂げて、大屋敷へと変貌した……変貌してしまった。
これは、ついに改装が済んでしまったそんな屋敷でのとある昼のことである。
木板にボロボロの布団を引っかぶせただけのかつての寝台とは全く違う、まさに天上の寝心地をもたらす極楽鳥の尾羽根で作られた高級寝台。
その上で昼過ぎまですやすやと寝ていた俺は、いつものアレを感じてぶるりと身震いをした。
意識が急速に浮上した俺は、目をつむったまま部屋の中の様子を素人感覚で探ってみる。
…………。
絶対にいる。俺でも分かるくらいに、アツい視線を感じる。
目を開ければ間違いなくそこにいると確信できるその存在は、しかし完全なる無音で視線以外のあらゆる気配を消していた。
俺はふっと内心でニヒルに笑う。
こやつ、また腕を上げおったな……。ふっ、さすがは我が……。
……じゃなくって!!
寝ている間はそっとしてくれみたいなことは確かに言ったが、そういう意味じゃねーんだよ!
普通に怖いよ! 全くこんちくちょう!
一日の始めから問題の人物の幅広い優秀性を改めて思い知ってゲンナリとしつつも、俺はゆっくりと目蓋をあけた。
そして案の定、俺の枕元に佇んでいたシャルのくりくりとした緑の瞳と目を合わせる。
「……………」
「! …………」
俺が目を開けたことに対して、ぱあっと顔をほころばせて満面の笑みを浮かべたその少女は、しかし口をモゴモゴさせながらも、俺の第一声をまるでヒナ鳥のように待っていた。
……うん。知ってるよ。分かってる。
シャルは別に俺を驚かそうとかそういうことを考えていたわけじゃないんだよな。
単に、“偉大で大好きなお師匠さま”におはようの挨拶をしたくて待っていただけなんだろう?
もちろんわかってるけどさあ。
だからって、枕元でそういう立ち方するのやめないか! 普通にビビるわ!
とは思うものの、我が至高の愛読書たる『ゴブリンでも出来る威厳の保ち方(初版)』には、
『例え膝に矢が刺さっても、びっくりした気持ちを表には出しちゃダメですよ! 常に余裕を持ちフガーッとした顔でいましょう! それが明日のゴブリン生に繋がります!』
と書いてあったはずだ。
ゆえに俺は今日もいつも通りあいさつをする。
「……おはよう。シャルは今日も……シャルだな」
「おはようございますっ! おししょうさまっ!」
その小さな体から溢れんばかりに俺への親愛を示しながら、元気いっぱいに挨拶をしてくるシャル。
薄暗い部屋の中でも彼女がいる場所だけは、遥か天空の別次元にあると謳われる天界の光がこぼれおちているかのようだ。
幼くも将来の美人っぷりを予感させる明るいオレンジの髪の少女は、今日も“偉大なるお師匠さま”と朝一番から言葉を交わせた喜びを示していた。
そんな彼女の、百人に聞いたら百人とも微笑ましいと答えるような姿を眺めながら、俺はさっそく感じた疲労感を抑えつつ表情筋を制御する。そして、もはや作り慣れた“いかめしいお師匠さま”の表情を顔面に浮かべるのだった。
§
簡単に身支度を整えて階下のやたらと広い食堂に降り、既に用意されていた昼ごはんをシャルとともに食べて一息をつく。
そのまま特に何をする気にもならず椅子に座ったままでいたところ、シャルは隅の方に控えていた使用人二人(なぜかウチには男の使用人しかいない)に下がるように言って、何がそんなに楽しいのか、鼻歌を歌いながら、自ら菓子や茶を用意し始めた。
ふたたび俺の隣に座ったシャルをなんともなしに眺めていると、彼女はちょっと首を傾けて俺のことを覗き込む。
「お師匠さま、昨晩の思索ははかどりましたか? 今日はどうしますか? ……あっそうだ! ちょっと気が早いですけど、お夕飯は何がいいでしょう。実は今日、ちょっと大きな商隊が来てるらしいんです。いろいろ特産品を積んできたらしくて、朝に登城した時にはもう、王城前の広間もすごい大賑わいしてました。私、是非ともお師匠さまには日々のお疲れが吹き飛ぶような美味しいものを食べてほしくて!」
(…………??)
しかし外面はともかく、腹が一杯になって中身は割りとぼーっとしていた俺は、いきなり大量に与えられた情報と質問に残念ながら頭がついていかなかった。
えっと?
思索する商隊が、特産品で大賑わいで、王城が吹き飛んだ……?
……なにそれこわい。絶対違うよな。
ここで正直に、
『ごめん、なに言ってるのかわからなかった……。ただでさえさほど上等なものじゃない俺の頭脳は、食後でさらに機能が低下しててね……』
なんて言ってしまったら、流石に師の威厳もへったくれもあったもんじゃない。
そう考えてようやく頭が回ってきた俺は、適当に概念的なことを言って言いくるめることにした。
「シャルティアよ、まあ落ち着くのだ。世界というものはな、等しく平等に時を刻んでいるようで実はそうではないのだ。虫には虫の、竜には竜の、人には人の時間というものがある。それは個々の人に当てはめても同じこと。我らは皆、自分だけの時間を持っている。だからシャルティアよ……。…………つまりだな……師には……そう、お前の問いに答えるには少しばかりの時間と更なる情報が必要だ(特別意訳:ゆっくりともう一回言ってください)」
うーん、やっぱり頭回ってなかったな……。
なにがつまりなんだろう。言ってる俺にも正直よくわからない。
…………ああそうか、『だからシャルティアよ』の後に『焦るでない』とか挟めば意味は通じたのか?
ツッコまれたらどうしようかなと、顔には全く出さずにドキドキしていた俺だが、シャルはどこか感心したような表情でなんだか訳のわからない話を始めた。
「……自分だけの時間……。なるほど。錬金術のテクニックの一つ、『恣意観測法』と似ていますね! 錬金釜に投入した素材の不安定変化を術者が恣意的に観測することで、様々にバラつく錬成品の最終品質をより高く調整する、とっても重要な技法……。個々の生物ごとに『体感している時間が違うこと』……、私たち錬金術師が『千差万別の錬成過程』を意図的に観測すること……、うん、確かに似ている気がします!」
……やばい、何言ってるんだろう。
一応俺の弟子らしいんだけどな、シャルって。
きっとシンプルな調合しかしてこなかった俺には縁のなかった技法なんだろう……。
そんなことを考えながらも、俺はいかめしい顔を保ちつつも唇の端をわずかに歪めて笑うと、
「あ、ああ。そういうことだよ。私はそれが言いたかったのだ。シャルも中々かしこくなってきたな。師は誇らしいぞ」
シャルをとりあえず褒め称えておいた。
……んん? しかし今の笑い方なんかすごくそれっぽかったぞ。後で鏡見て再現できるよう練習しとこうか。
「えへへ、ありがとうございます! ……そ、それでですね。あの、どうですか……? お夕飯、何を食べたいか決まりましたか?」
頬を染めつつもいじらしく上目遣いで問いかけてくるシャル。
ああ、夕飯の話だったのね。それで商隊がどうのこうのと。よかった、城が爆発してなくて。
思い返してみればたしかにそんな話してた気もするわ。ちゃんとわかってたよ、うん。
安心したせいか珍しく素直にシャルを可愛らしく思った俺は、彼女の頭の上に手をおきつつ、返事をする。
「そうだな……。偶にはあれを食してみたい。『モアピジョン』の煮込みスープ。とりわけ高価な食材でも珍しい食材でもないゆえ、せっかく来ているという商隊にはさほど関係はないだろうが、あの味にはほっとするものがある」
そう、あのパサパサしたチープな鳥肉。たまにはああいう安っぽいものも食べたい。
根は小市民でしかない俺は、高級食材ばっか食ってるとなんだかこう、落ち着かないのだ。
昔は適当な錬金用のガラス容器でよく作って食ったものである。
俺がそんなことを思って感慨にふけっていると、手の下にあるシャルの頭がびくりと震えたのを感じた。何かあったのかと思ってシャルの顔を見ると、何と彼女は目の端に涙を浮かべている。
え? なんだ? 最近良く泣くな。あ、やっぱり商隊と関係ない料理はまずかったか?
そう思って動揺するも、どうやらそれは見当ハズレだったようだ。
「なつかしい……ですね、えへへ……。お師匠さまが私を拾ってくれたあの日を思い出します……。お師匠さまが私に最初にくれたもの……。今でも覚えています。あれは、本当に、本当に……。美味しかった、なあ……。えへへ」
…………。
お、おう。さよか。
五年前の俺は、シャルを拾った時にモアピジョンの煮込みスープを食わせたのか。
俺自身は微塵もそんなことは思い出していなかったせいで、涙をこぼすほど感激してるっぽいシャルを見てると、うん、なんだかこう、罪悪感が湧いてくるな……。
まずいな。こんな気持ちはさっさと処理してしまわないと、それこそ鳩なみに小心な俺は引きずってしまいそうだ。
そう思った俺は、シャルにこう提案した。
「そうだな。ちょうどいい機会だ。モアピジョンの肉など急いで買いに行かずともいつでも市場にあるだろう。シャルよ、今日は師と思い出話でもしようではないか。なに、時には過去を振り返ることも大事なことよ。決して無駄な時間とはなるまい」
そして、頼むから俺にあの頃のことをしっかり思い出させて心安らかにさせてくれ。
「お師匠さま……。ぐすっ。そう……ですね。わかりました。私もお師匠さまとゆっくり昔のことを話せる時間が持てるなんてうれしいです……っ」
自分の頭の上にのっている俺の手に甘えるように頭をこすりつけながら、シャルはふわりと笑みを浮かべて返事をした。
次からしばらく出会い編。