清志と小朕の夜
聖夜の夜の奇跡により、登場人物の名前の一文字が誤変換されております。正しくは「朕」→「咲」です。
気づいた時に修正を考えましたが、「遠くから細目で見れば問題ない」と判断し、そのまま投稿しました。ご了承ください。
『犬も歩けば棒に当たる』と言う諺がある。
『出しゃばると思わぬ災難にぶつかる』という戒めの意味なのだが、これと同時に『じっとしていないで、何かをやってみれば思わぬ幸運に出会うこと』という意味も持つらしい。相反する意味を同時に持つ変な言葉だと思う。
俺が子供の頃、この諺を初めて聞いた時、アホな犬が棒にぶち当たって泣きべそをかいている情景が頭に浮かんで、楽しくて堪らなくなった。「バカな犬だなぁ」という子供らしい笑いの感覚だったと思う。
しかし、その諺の二つの意味を先生が教えるにつれ、俺は考えを改めた。
その先生は、こんな感じの事を言っていた。
「犬も無闇に外に出歩かなければ、棒に当たることも無かったでしょうね。けど、それが幸運であれ、不運であれ、何かと出会うのはそのモノに影響を与えます。その変化を楽しむ心の余裕が有れば、『歩くこと』に対する考えも違ってくるでしょう」
先生の言葉を受けて、クラスのお調子者がニヤニヤしながら先生に質問した。
「でも先生、僕は災難にぶち当たるのは真っ平ごめんです」
クスクス笑いが教室に広がった。
俺も確かにそれはそうだな、と思いゲラゲラ笑っていた。
先生は穏やかに微笑みながら、やんわり返した。
「それは私もそうですよ。誰だって嫌な目に合うのは避けたいです。でも、皆とその事を愚痴りあえるのなら、『ま、話のネタにはなったか』と、そう思えますよ」
その後、先生はクラスの皆に『町でイケメンに声を掛けられてドキドキしていたが、話をよく聞くとAV女優の勧誘だった』とか『お婆さんに道を尋ねられたから答えたら、宇宙の特異点とコンビニくじの関係について滔滔と語られた』等の話をして俺達を楽しませた。嫌な出来事を話のタネにしたわけだ。
大人になるにつれ、子供の頃の記憶は茫漠とした靄に変わり、霧散していくものだが、この時の先生の話は俺の頭の片隅にしっかりと仕舞われている。
先生は俺達に様々な経験をすることの大切さを教えたかったのだと思う。
俺はその先生が好きだったので、その教えに従って『面白そうなものにはとりあえず飛び込んでみよう』と考えるようになった。
今も、その考えは変わっていない。
しかし、様々なところを歩いていれば、件の格言の通りに棒に当たる事もある。
これから記するお話は、大学生時代の俺、雪隠清志がそれはもう立派な棒にぶち当たった話だ。
――
永風嵐大学に2刻の講義の終了を示す鐘が鳴り響くと、構内にあるB食堂に腹を空かした生徒の群れが押し寄せた。
券売機の前が人でごった煮になっている状態は見るに耐えない。俺は食堂窓際のテーブルに鎮座しながら、その列を見渡して悦に入っていた。
「見ろよ鈴木……空腹と言う地獄から抜け出そうと、蜘蛛の糸に群がる亡者達を。対する俺達は極楽の蓮池で暇そうにしているブッダのようだ。飯が美味い。茶が進む」
相席していた鈴木は俺の言葉を受けると、片手で持っていた本を置いて俺の方を向いた。
黒縁の眼鏡を指でクイと持ち上げ、いつも通りの平坦な口調で話し始めた。
「どうした、清志。あんなのいつもの光景じゃないか。この優越感に浸る為にわざわざ火曜2刻の講義は外したんだろ」
鈴木の言うとおりだった。
この行為は、火曜日の密かな楽しみであった。
「それはそうなんだが……。実は今朝嫌なことが二つもあってさぁ。愚痴らないとやってらんないんだ」
鈴木はまた視線を本に落として読み始めた。
話したければ勝手に話せ、という意思表示だろう。
俺は気にせず喋り始めた。
「俺、大学出る前に天気予報を見るんだけどさ。その中でお天気お姉さんがこう言っていたんだ。『今年の十二月二十四日は雪が降り積もるホワイトクリスマスになる見込みです。カップルの皆さんには朗報ですね』だってよ! その日、雪が降ろうが、槍が降ろうが、○ータが降ろうが、俺達イケ(てない)メンには何の関係もない。何が朗報だチクショウ……あの頭お天気お姉さんめ。可愛いから良いけど……」
今日は12月20日。
世間はクリスマスに向けて準備の真っ最中だった。
「大体『クリスマスは恋人と過ごす』って習慣はなんなんだよ!! 恋人が居ない奴の気持ちも考えずに、イルミネーションやツリーをバンバン掲げやがって……! 祭りなら他にも色々あるだろうが!」
その後俺は不平不満をまくし立てたが、鈴木は聞いているのかいないのか、表情一つ変えずに本を読み続けていた。
「――と言うわけで、俺は世間一般の浮かれた雰囲気に怒っているんだ! クリスマスを、『カップルが営みを行う日』と認識しているのはおかしい! 例の神の誕生祝いに例の神の教えに従って、産んで増える行為をするなんて洒落ているけど――っておい、鈴木ィ! さっきから聞いてるのか!?」
相変わらず黙々と読書に耽っている鈴木は、俺の問いかけに冷淡に返してきた。
「いや、聞いてない。そもそも俺には関係ないし」
ばっさりと言葉の刀で切り捨てられてしまった。
「ええ……俺の演説は一体……。ってか関係ないことないだろ……お前はその日どうするんだよ?」
「家で卵を孵化させる予定」
「は!?」
いったい何の話だ。
と思ったが、こいつが某ゲームの話をしていることに気づいて、俺はその意味を理解した。
「バケモンの話かよ。そういうのいいんだよ! 分からないとつまらないだろ!」
「さっきからうるさいな……清志が恋人居ないからって僻んでるようにしか聞こえないよ」
「実際そうなんだよ! キィー妬ましい! だが、恋人が居ないクリスマスを僻むなんて事自体おかしいんだ! だから俺達はその日大声で『ノー』と言うべきなんだ!」
「……何の話?」
ようやく鈴木が視線をこちらに向けたので、俺はここぞとばかりにまくし立てた。
「今年の『性の六時間』に街中で一緒に写経をしよう! 浮かれた奴らに嫌がらせしてやるのだ」
「昔、正拳付きしてた奴らのパクリじゃないか」
「パクリで結構、ネズミ講! 世人の性風俗の乱れを正すには、街中で写経するのが一番効果的だと俺は気づいたんだ! 道行くカポーに『あ、こいつらは煩悩を捨てようとしているんだな』と思わせるのだ!」
鈴木はまるで聞かせるかのように大きくため息を吐いた。
「アホか……」
「わざわざ街中で写経する俺達を見たアベックは、彼らがいかに煩悩に塗れている存在なのか気づくだろう」
「意味が分からん、本当に」
「じゃあ言ってやる、分かるように。その日暇だから一緒に遊んで寂しさを紛らわそう!」
鈴木はメリケン風ヤレヤレを俺に見せ付けた。ぼさぼさの長髪がユラユラ揺れて、イソギンチャクみたいだった。
「ま、それは別に良いよ。でも町で写経するなんてアホな真似俺はしないからな。嫉妬も煩悩の一つらしいし」
遊ぶのは別に良いのか……。内心こいつも一人は嫌だったのかも知れない。そういえばイソギンチャクって他の生き物と共生する動物って聞くしな。
「何ジッと見てんだよ。キモイよ」
「いや、なんでもないんだ。だけど、うーん……写経は嫌なのか……。じゃあ誰か誘って飲みにでも行く? 『酒は憂いの玉箒』って言うし……」
「変な諺知ってるな。飲み会かぁ……面子集まるかね?」
「成宮でも誘おう、アイツいつも暇だろ」
「うーい、じゃあ俺が言っておく。しかしこの分だと野郎だけの飲み会になりそうだな……」
「……」
「……いつもの事か」
「言うな」
「『残念会』って奴だな」
「だから言うなって!」
そうして鈴木と別れ、俺は午後の講義に向かった。
鈴木は俺が今朝体験した、嫌な事の二つ目については全く質問してこなかった。
――
今日も無事に講義を聞き流した俺は帰宅の途に付いていた。何気なくキャンパス内を見渡すと、道行く奴らがいつもより浮き足立っているように思えて、一人悶々とした気分になってしまった。
(くそう……なんだか取り残されたような気持ちだ……考えすぎだろうか)
そんなことを考えながら歩いていると、急に背後から肩を叩かれた
振り返ると3回生の鎌瀬藻撫子が立っていた。
「よ、雪隠じゃん。今帰り?」
赤い毛糸のマフラーを首に巻いて、暖かそうなセーターに身を包んだ彼女がそう挨拶してきた。俺は突然の事に戸惑っていたが、なんとか慌てふためかず、返事を返した。
「は、はい……そうですけど……鎌瀬さんも今終わりですか?」
「うん。そう……ってなんで身構えてるの?」
「え? い、いや、突然だったもんで……」
「ふうん?」
鎌瀬さんは、いぶかしげに俺の顔を覗き込んできた。
俺の目と鼻の先に整った顔立ちの鎌瀬さんが迫り、俺は慌てて身を引いた。
「な、なんですか?」
「いや、別に。それよりお昼時に食堂でしていた会話が聞こえたんだけど……雪隠って結構変な事考える奴なんだな。街中で写経して誰が得するんだ」
「え!? あ、鎌瀬さんも食堂にいらしたんですか!」
「うん、偶々席が取れたから。でもあんなこと聞いたら小朕が悲しむぞ」
「え……どうして小朕さんが?」
「だって……雪隠と小朕って同棲してるんだろ? 付き合っているんじゃないの?」
「付き合ってなんかいませんよ! 小朕さんはただのルームメイトです! 家賃を折半する為に一緒に住んでいるだけですよ」
「男と女が一つ同じ屋根の下で住んでて、何も起こらない訳ないと思うんだけど……」
これだ。
鎌瀬さんは事あるごとにこの話題を吹っかけてくるから苦手なのだ……。
「あのですね……小朕さんは男でしょうが!!」
御手洗小朕さんとは、女装が趣味の男性だ。一目で彼を男と見る者は居ないほどに女性らしい佇まいと雰囲気を醸し出している。
だが、男性である。
鎌瀬さんが言ったように、確かに俺は小朕さんとルームシェアしているが、そこには桃色の生活など広がっていなかった。
何故なら、小朕さんは男だから。
小朕さんは俺達の先輩に当たる三回生で、鎌瀬さんは小朕さんと講義が一緒だったらしい。同性愛者を自称する鎌瀬さんは、(見た目は)美人の小朕さんに何度かアプローチをかけたのだが、小朕さんは苦笑いしながら自らが男性であることを告げて鎌瀬さんとの交際を断ったようだった。
傍目には何の問題もない組み合わせだと思うのだが、鎌瀬さんはそれでは仕方ないと諦め、その後何故か二人は友人となったようだ。
「でも小朕って見かけは完全に女じゃん。雪隠も男なんだから、時にはムラムラっと来るんじゃないの?」
「女にしか見えなくても、あのフリルのスカートの下には怪物が潜んでいるんです! そんな変な気になんかなりませんよ! 鎌瀬さん見たことないんですか?」
「いや、あたし小朕は好きだけど、男には興味が……って、もしかして雪隠はその怪物を見た事あるの?」
「言ってませんでした? 今朝も見ましたよ。あの人は裸族なんです」
「詳しく」
俺は今朝起こった二つ目の嫌な出来事を話すことにした。
……
早くから目を覚ました俺が洗面所で歯を磨いていると、寝ぼけ眼の小朕さんがヌッと現れた。無論の如く全裸である。彼は天井の蛍光灯を、とある体の部位で指しながらフラフラと俺に近づいて来た。
俺はまたかと思って憤慨しながらツッコミを入れた。
「小朕さん。もう冬ですよ? 無理して裸スタイルを取るメリットはないでしょう」
「うぃー……でも一族の誇りを私が汚すわけにはいかないでしょ……清志、暖めてー」
「何が一族ですか! 裸族なんて部族が本当にあるわけないでしょう!」
俺のツッコミを無視して、小朕さんはじりじりと近づいて来た……いけない、これ以上の領域侵犯は戦争になる。
「ちょっと! それ以上近づいたら、そのタフボーイに歯磨き粉ぶっ掛けますからね!」
「んー……それは、その……あんまり良いものでもなかったよ……」
「な……!!?」
あまりの発言にドン引きした俺は、そそくさとその場を離れ、身支度を整えた。
支度の際、居間のTVは付けっぱなしにしているのだが、その中でお天気お姉さんは「ホワイトクリスマス」について話していた。
俺はムシャクシャしながら逃げるように大学へ向かった。
……
「――ってなことが今朝ありまして……俺もう、既に何者かが住んでる事故物件でも良いから、別のとこ見つけて出て行きたいですよ。ルームシェアがこんなに大変なものだとは思わなかったです」
「あはは、小朕って家ではフランクなんだな。アイツあんな綺麗な顔とナリしてて、正真正銘の男で、さらに変態なんだから……君らの話聞いてて飽きないよ」
「楽しんでる鎌瀬さんには悪いですが、俺はもう限界です。今回の事は絶対に許せない。妙に減りが早いと思ったら……!」
「まぁ、待ちなよ。『艱難汝を玉にする』って諺を聞いたことない? 男ならそれくらい笑って受け流せる度量を持つもんだ。その苦難が君を成長させるんだよ?」
鎌瀬さんが俺に向かってビシッと指差しながら、謎の説教をたれてきた。
「人事だと思って好き勝手言いますね……俺が今思い出す諺は『棒ほど願って針ほど叶う』です。『こんな美人とルームシェア出来るなんて、俺はなんてツイているんだ!』って浮かれていた半年前の自分を、ぶん殴ってやりたい。そんな上手い話ある訳なかったんだ……!」
「ははは。小朕は美人だけど、タマがあるのが『玉に瑕』ってか?」
(棒もあるんだよなぁ……)
「ハハハ……はぁ……」
俺は乾いた笑いを漏らしながら、鎌瀬さんと共に駅まで一緒に向かっていった。
その道すがら、いい加減小朕さんの話ばかりするのもうんざりしてきたので、思い切って話題を変えてみた。
「あ、そうだ。鎌瀬さんはイブに予定あるんですか?」
もし、予定があったらどうしよう。
「ん? なんで?」
意味深な目を向けられたが、俺は内心の動揺を顔に出さないように、必死に取り繕って話した。
「暇だったら飲み会に来ませんか? ホラ、食堂で話していた例の――」
「ああ、『残念会』か。ううーん、まぁあたしも予定ないし……小朕が行くなら考えても良いよ」
「へぇ、じゃあ帰ったら聞いておきます」
「よろしく」
そうして俺達は分かれて、それぞれの家に帰って行った。
(良かった……鎌瀬さん、その日予定ないんだな)
――
家に付くと、小朕さんが何故か居間で正座をして、全裸待機しているのが見えた。小朕さんの奇行は今に始まったことではないが、どうも様子がおかしかったので、小朕さんに何かあったのかを尋ねた。
小朕さんは緊張した面持ちで話し始めたが、その内容は驚くべきものだった。
「――えっ!? な、なんですって!?」
「だから……その……『取ろうかな』って……あんまり言わせないでよ、恥ずかしい」
頬を染めてそっぽを向く小朕さんは可愛いと思えなくもなかったが、俺は「その前に全裸であることを恥じろよ」と心の中でツッコンでいた。
「い、いや……その、すいません。突然の事に驚いてしまって……」
(ああ、ビックリした。こんな時にピッタリの諺があったような気がするんだけど……えっと、たしか藪から――)
動揺しすぎて関係のないことを考え始めた俺だったが、小朕さんの追撃は止まなかった。
「清志はどう思う?」
「え!? は、はぁ……俺ですか……しかし、『そうだ、京都へいこう』みたいな軽い感じで、『そうだ、ぞうさんを取ろう』って言われても……小朕さんの一物は着脱可能だったんですか?」
「そんなわけないでしょ! ほんとはずっと前から考えていたの……清志とルームシェアして、お金を節約しようとしたのも、この為だったのよ」
「そ、そうだったんですか」
「もう病院の予約も終えてあるの。予定によると、手術が終わって普段通り生活できるようになるのは、イブの日からになるみたい」
「へぇ……その日に小朕さんは生まれ変わる……ってことですね」
「うん。そ、それでね……その日、9時頃にはココに帰って来れるんだけど……」
「うん? なんですか?」
(金取ったから祝え、みたいな話かな?)
「家で待っていてくれる……? それとも清志は予定ある?」
「……え」
何だって。
「え、ええと……こ、今年はですね……街中で写経を――じゃなくて『残念会』を――」
「私はその日、清志と一緒にいたいの」
「あ……」
開いた口が塞がらなかった。
まさか……小朕さんは本気で言っているのか?
「一緒に居てくれるだけで良いの……その日は」
「え、ええと……それは……」
「駄目なら……私、この家から出て行くから。その方が良いでしょ」
「え!?」
「その日返事を聞かせてね。『何処かに出かける』ってのも返事の一つだし、私はそれも優しさだと思うから」
「こ、小朕さん、それは……」
「それじゃ、私もう行くから」
と言って小朕さんはそそくさと服を着始めた。
「じゃ、行って来る」
小朕さんは一度もこちらを振り返らなかった。
俺にはそれが彼の決意の固さを表しているように思えてならなかった。
「家賃……どうするんだ」
居間に一人残された俺は、小朕さんの言った意味をじっくりと考えなおしていた。
家賃をシェア出来なくなるのは痛い。しかし朝から怪物様と対峙するという悲劇からはこれでオサラバできるのだ。
夜、壁を背に寝るという気遣いをしなくなるのもありがたい。
でも……それで良いのか?
「小朕さんがココから出て行く……」
半年間ばかり、小朕さんと送った共同生活を回想する。
シェア開始翌日、荷物を解き終えた俺が居間に戻ると、小朕さんが全裸でTVを見ていた事。
不覚にも興奮したが、股間を見て戦慄した事。
問い詰めると「言ってなかったっけ? 私男だよ」と堂々と宣言された事。
そんな激動の春が過ぎると、夏には生活に慣れてきた。もう色々気にしなくなったのだ。
小朕さんは手が空いた日は俺の分まで家事をこなしてくれた。飯、洗濯、掃除などである。
俺は小朕さんにせめて食材費だけでも渡そうとしたが、彼は「好きでやっていることだから」と、受け取ろうとしなかった。
俺はこんな生活も悪くないかも、と思い始めていた。
だが、秋頃になってから彼は本性を表し始めた。というより今まで我慢していたのだろうか。
やけにくっついてくる。
しかも寒いから、という理由で。
じゃあ服を着ろよと言っても、一族の仕来り云々と返してくる。
俺はひょっとすると狙われているんじゃないだろうか。という危機感を持ち始めた矢先に、今回の出来事が起きた。
もはや決定的である。
俺は小朕さんに迫られているのだ。
だから、彼は男の象徴を無くそうとしているのではないか……。
「まさか、そこまで思われていたなんて……」
(小朕さんが竿竹を取ろうとするのを、引き止めるべきなのだろうか? いや、彼はもう決意を固めたようだった。俺が何かを言って止まるとは思えない。第一、小朕さんは常々「私の心は女」だと言っていた……だとすると、俺との事はただの切っ掛けに過ぎないのかもしれない)
様々な考えが頭をよぎったが、俺はどうすれば良いのか答えは出なかった。
(俺は……)
――
それから数日が過ぎ、イブ前日の23日になっても俺の答えは決まらなかった。
家にこもって考えに耽っていると、突然ソファに置かれたスマフォが震えだした。
慌てて表示された画面を見ると、「鎌瀬先輩」の文字が映し出されていた。
「は、はい、どうしたんですか?」
「『どうしたんですか』じゃないわよ。アンタどうすんの?」
「え!?」
「あのねぇ……あたしが小朕から話を聞いてないワケないでしょう」
「……」
「あたし、残念会行くから。小朕は家に帰るみたいだけど、アンタは来るの? 来ないの?」
(!! 鎌瀬さんが来るのか?)
「俺……その……」
「迷ってるんだね。でも、もしその日アンタが来たら軽蔑するから」
「……その日は、鎌瀬さんが来るんでしょう? 俺は行きますよ」
とうとう言ってしまった。
俺はスマフォを持つ手が震えていることを自覚した。
長い沈黙が訪れた。
「あたしはアンタの事を友達としてしか見てないよ」
「……」
「ゴメンね」
「……」
「アンタが女だったら考えたんだけどね」
「……小朕さんは心は女なんじゃないですか」
「うん、あたしやっぱり小朕が好き。体は男だけどね。それを今日アイツに言ったの。でもあの子アンタが好きなんだって……体をいじる位に……妬けちゃうじゃない」
「……」
「そんなわけで残念会の席は埋まったから。河合君と哲子も呼んだから計5人ね、成宮の家もう入らないからね」
「……そうですか」
「うん。その日は会ってあげて……あ、そうだ。アンタのみっともない告白は私の胸に締まっといてあげる。だから、もし小朕とそういう関係になっても、誰も文句言わないと思うよ」
「そ、それはどうなんでしょう……?」
「小朕のこと嫌いじゃないんでしょ? あたしに小朕との事を話すとき、アンタ文句言いながらも楽しそうだったじゃん」
「……」
「ま、よく考えておくんだね」
との言葉を最後に、電話は切れた。
後には機械的な電子音だけが断続的に聞こえてくるだけだった。
その日の夜はまんじりともしなかった。
何度も寝返りを打ち、その度に罪悪感とも、焦燥感ともつかない感情が俺の身を支配した。
だからであろうか。
俺は奇妙な夢を見た。
……
…………
………………
俺は霧の中を一人歩いていた。
しかしいつもと勝手が違う。右手と左手も使って地面を歩いていた。
その事に気づいた時、俺は自分が犬になっていることを知った。
お尻の辺りに意識を向ければ、尻尾の感覚があり、自分の意思でパタパタと振ることも出来た。
突然の事だったが、特に驚きは無かった。
ああ、そういうものか。と何の抵抗も無く受けいれていた。
俺はしばらくそのようにして歩いていたが、次第に飽きてきたので、「何か変わったことはないか」と辺りをキョロキョロしながら進み始めた。
すると、不意に顔に何かがぶち当たった。
感触からして、人肌くらいの温かさのフランクフルトだと俺は思った。
確認しようと思って目を向けると、肉のバナナが宙にぷかぷかと浮かんでいた。
俺はあまりのことにたじろぎ、悲鳴を上げた。
「う、うわぁっ!! 何だ!?」
俺の姿は犬だったが、どうやら声は普通に出せるようだった。
「見て分からんのか?」
「え……?」
どこからか野太い声が聞こえた。
その音の出所は――。
「『え』ちゃうねん。見て分からんのか! 聞いとんねん!」
もう聞き間違いでも、見間違いでもなかった。
その肉の筒が喋っていた。
「う、うわ!? アレが喋った!!」
「おう、そうや。ワイはアレや。よう分かっとるやんか」
「え、ええ……? どうなってるんだ?」
「夢なんやから理屈はええねん!」
「あ、ああ。やっぱり夢なのか」
俺はやっと理解した。
「ほっ……良かったタダの夢なのか……。いや、なんて悪夢だよ。ユングでも俺に性的な不満があるだの、なんだの言いそうだな……フロイトは言わずもがなだけど……」
「そんなんどうでもええねん! 覚えたての先生の名前挙げんなや! ド素人が!」
「口の悪い肉棒だなぁ。俺は早く目覚めたいんだが」
夢だと分かったので、俺は強気に出たが、その赤く滾った凶器は俺より更に強気に言い放ってきた。
「しばらくは無理や。ワイがお前の夢枕に立ってる限りはな」
「どういうこと?」
「ワイはある人物の生霊とも言える存在なんや。だからこうやってお前の夢に干渉出来たりするんや」
「生霊……?」
その言葉はオカルト番組か何かで聞いたことはあるが、男の尊厳の形をした生霊なんて聞いたことがない。
「ワイのご主人様の……まぁ、ワイのおとんやな。その人の思いが強すぎてワイをココまで来させたんや」
「ふぅん。まぁ、疑っても話進まないから信じるけど……一体誰が? 俺への思いが強すぎてアレを寄越す奴なんて――」
「おるわい! 察しろハゲ! ワイの姿に見覚えあるやろ!」
「あんま見たくなかったんだよ――って、この形状は……!」
確かに、よく見るとその形状には見覚えがあった。
まるで天を向くマンモスのようなソレは……。
(小朕さんの……!?)
「遅いんじゃ、このスカポンタン!」
「こ、小朕さんが……」
「時間がないから手短に言う! お前はどうするんや?」
「え?」
「おとんからワイが無くなるけど、どうするんや?」
「……それを聞きに来たのか? お前」
いずれ無くなる肉体の器官が、主人を思って想い人に――。
なんかここだけ切り取るとイイ話しみたいだな。
「そうや。お前これまでの忍耐を棒に振るんか? あんなエエ物件他にないぞ」
「あん? 賃貸の事言ってんのか?」
「ま、それもあるし、おとんもエエ物件やと思うで? 美人やし、料理美味いし、お前に尽くすし……」
こいつ『棒に振る』って言いたかっただけなのでは?
ま、いいや。どうせ夢なんだ。
俺の思いのたけをぶちまけよう。
「棒が無くなっても、小朕さんは男だろ」
これは動かしようのない事実だと思う。
「男の象徴が無くなる訳やで?」
「だからって女になる訳じゃない」
だから、小朕さんとは――。
「おとんの心はその辺の女より女らしい。それはお前も知っとるやろ」
「……」
そんな事はわかっている。
「付き合う、付き合わんはお前の自由やけどな……ちゃんとしたお前の言葉で伝えたって欲しいんや。お前がぬるい返事を返してなぁなぁで付き合っていくつもりやったら、ワシ毎晩お前の夢枕に立ってココでは言えん様な事したるからな」
「……夜毎、俺の枕元にペニーさんが立つなんて、それこそ悪夢だな」
「だから、よう考えたってな……。ワイはもう消えるけど、おとんの心のマツタケはずっとお前の方を向いてるんやで。角度的にも」
「物騒なこと言うな!」
「あ、時間切れや。ほなサイナラ」
「あ、待てよ! わ! 空に向かって飛んで行ってる!? ロケットが飛んでいるかのようだ!」
「達者でな、1足――いや、1マラお先に冥府で待っとるわ」
「物騒なこと言うな……」
……
…………
………………
翌日、俺の目覚めは最悪だった。
「とんでもない夢を見てしまった……」
寝巻きのシャツが体に張り付くほど汗をかいていたので、俺は気分を切り替えようとシャワーを浴びることにした。
洗面所で服を脱ぐと、俺の視線はなんとはなしに自らの局部に向かった。
(小朕さんはこれを取るのか……いや、もう取ったのか? ともかく生半可な気持ちで行える事じゃないよな)
もやもやとした感情がまた胸中に渦巻いてきたため、俺はサッサと身を清めることにした。
シャワーを浴び終えた俺はサッパリとした気分で居間に戻ると、床に置かれたスマフォの通知ランプが点灯しているのが見えた。
確認してみると、鈴木からメッセージが来ていた。
――鎌瀬さんから聞いたぞ。あんな綺麗な人がアレを取ったら、正に『鬼に金棒』だと思う――
なんのこっちゃ。何が『正に』やねん。
そういえば、鈴木は前々から俺が小朕さんの話をするのを嫌がる傾向があったが……。
(ん……? 『棒』?)
不意に、頭の中で昔教わった授業の光景がフラッシュバックした。
それは『犬も歩けば棒に当たる』という諺の意味を教わった日だった。
「あ……そういえば……」
俺はあの授業を聞いて、強い感銘を受けた。
だから俺は入学の日、急にとんでもない美人に飯を奢ってもらい「ルームシェアしない?」と持ちかけられて、即決で「ハイ」と頷くことが出来たんだ。
「そうだ、俺は……」
今の今まで俺は小朕さんとの生活を「棒」と言う「災難」だと思っていたけど……。本当にそうだったのだろうか?
小朕さんを通じて、俺は様々な人と関わりあう事が出来た。鈴木や、鎌瀬さんと話し始めた切っ掛けは、どちらも小朕さんの話題だった。
先生はこう言っていた。
「変化を楽しむ心の余裕が有れば、『歩くこと』に対する考えも違ってくるでしょう」
そうだ。
俺の気持ちは小朕さんが男と分かり衝撃を受けた当時と比べ、確実に変わっていた。
「こんな人もいるのか」と受け入れ始めていた。
俺は――
「小朕さんを好きになってしまうことを恐れていた……」
それを認めたくなくて俺は、鎌瀬さんに不細工な告白をしてしまった。
鈴木や鎌瀬さんに愚痴を聞かせることで、「俺は男なんか好きにならない」と自分に言い聞かせていたんだ。
彼女はそんな俺の思いを知っていたのだろうか。
夢の中で関西弁のジョニーさんが呟いた「お前の言葉で伝えろ」とは、そんな俺の弱さを見抜いていたのだろうか。
窓の方を見ると、空から粉雪が降ってくるのが見えた。
――
お天気お姉さんの言葉通り、イブの日はホワイトクリスマスになった。
黒く沈んだ空から細やかな雪がふらふらと舞い落ちて、赤、黄、緑の電光に柔らかな影を落としている。
俺はそんな光景を見て、カップルがこの綺麗な景色を共有したくなる気持ちも分かるような気がした。
とりあえず目当ての商品は無事に買い終えたので、家に帰った。
時刻は約束の午後9時になろうとしていた。
俺は気持ちを落ち着かせようとTVのチャンネルを探したが、俺が電源をつけるその瞬間にドアに鍵が刺さる音がしたので、俺はそちらの方を振り返った。
ギィと唸り声のような音を立てながら、玄関のドアは開いた。
そこにはいつもと変わらない小朕さんが立っていた。
茶色のコート、チェック模様のモコモコしたマフラー、切っ先にポンポンの毛玉が付いたニット帽、ねずみ色の手袋、と実に温かそうな格好をしていた。
「あ、清志!? ……い、いたんだ……た、ただいま」
小朕さんは俺の姿を見て、安堵とも、驚愕ともつかぬ表情で、そう言った。
「おかえり……寒かっただろ、早く上がりなよ」
「う、うん」
小朕さんは居間まで来ると、来ていたコートやマフラーを脱ぎ始めた。
俺は「まさか……」と思ったが、小朕さんは全裸にはならず、キッチンにたってコーヒーを煎れ始めた。
「ああ寒かった。清志も飲むよね?」
「うん……ありがと」
ホッと胸を撫で下ろしながら、返事を返した。
小朕さんから業物が無くなったことで、考え方も変わったのだろうか……。
煎れてくれたコーヒーを飲みながら、俺達はテーブル越しに相対した。
「その……手術……どうだったの?」
我ながら直球過ぎたか、と思ったが、小朕さんは特に気にした様子は無かった。
「うん……ちょっと前までズキズキしてたけど……今はもう平気」
「そ、そうなんだ……」
「無事に取れたよ」
「……」
「……」
重い沈黙が訪れた。お互いに相手の出方を伺っているような、気まずい時間が無為に流れていった。
「……あ、そうだ。もう何か食べた? ご飯作ろうか?」
その静寂を破ったのは小朕さんの方だった。
「え、じ、じゃあ頼もうかな……」
「うん。何か食材は……あ、これって……」
話しながら冷蔵庫の方に歩いていった小朕さんは、その中にある物を見て驚きの声をあげた。
「あ、ケーキだけど……その……快気祝いと言うか……小朕さん甘いもの好きだったろ?」
「……うん。ありがとう。すごく嬉しい……もう今日は乳酸値とか、血糖値とか気にせず食べるから!」
「カロリーって言ってよ……なんかオッサン臭いですよ」
ここまで喜んでくれるとは、寒い中買いに行った甲斐があるというものだ。
「『玉磨かざれば、光無し』ってね、この体型を維持するのは大変なんだから。あ、私にはもうタマはないけど……」
「……」
「……」
(わ、笑うところなのだろうか……)
「は、ハイ、分けられたよ」
「あ、ありがとう……いただきます」
黙々とケーキを食べる俺達。
窓の外はしんしんと雪が降り、爛々と光るイルミネーションに音もなく溶けていく雪が見れた。
「綺麗だね」
小朕さんが呟いた。
「はい」
俺も率直な感想を言った。
「……今日まで私に付き合ってくれてありがとうね。清志」
「……え?」
「結ばれない人と一緒にいても辛いだけだから……清志は藻撫子の事好きなんでしょ? あの子も清志の事、悪く思ってはいないと思うよ」
「い、いえ! それは違うんです!」
「え?」
俺は息を吸い込み、覚悟を決めた。
(言うんだ……俺の気持ちを!)
「小朕さん……その……俺、決めました。小朕さんが、男を捨てる覚悟をしたんだから、俺もその気持ちに答えるべきだって……」
「え……」
「す……好きです! 俺が本当に好きだったのは小朕さんです! 俺と付き合ってください!」
「……ほ、本気? 私を女みたいに抱けるの……?」
「そ、それは今後の課題ですが……おいおいと……その……馴染んでいければと思います。だって小朕さんは……アレのない小朕さんは、もう僕にとって女の人ですから!」
論理もへったくれもないけど、俺はそう思った。
(小朕さんは男の器官を捨てたんだ……もはや、男じゃないんだ!)
「……信じていいの?」
「……はい! 信じてください! 俺、小朕さんと離れるのは嫌なんです!」
「清志……!!」
小朕さんはテーブルから立ち上がって、俺の方に回り込んで来た。
俺もそれを受け止めようと椅子から立ち、ぎゅっと小朕さんの体を抱きしめ返した。
「……嬉しい!!」
強い抱擁が小朕さんの思いを表しているかのようだった。
俺は息が詰まりながらも、その幸せに浸っていた。
(俺が見たあの夢は、聖夜の奇跡だったんだろうか? それともただの悪夢だったのか……いや、そんなことはどうでも良い。答えは藪の中。それで良いじゃ――)
「ん?」
俺の局部に硬いものが……いや、そんな訳……。
「あ……ご、ごめん……」
小朕さんは顔を伏せ、そっと身を離した。俺はその様子を見て戦慄した。ま、前かがみになっているこの体勢は……。
「へ……へえっ!? あの、小朕さん……ま、まさか!?」
「ひぁっ! え、ちょ、ちょっと……!?」
たじろぐ小朕さんを無視して、俺はガバッと彼を押し倒し、スカートと下着を脱がした。
硬いものがペチっと俺の頬に当たった。
そこには――。
「こ……小朕さん!? 『取った』って言ったでしょう!!?」
「え……取ったのは、玉だけだよ……? 費用が段違いだし」
そ――
「それで藪の中から棒が現れたのか……」
後日談
ある年の末、俺達は二人で初詣に行った。
小朕さんは「来年も二人で来れますように」と呟いて、手を合わせていた。
俺もぶつぶつ呟いてから、手を合わせた。
「清志は何をお願いしたの?」
「小朕には教えない」
「ふうん、ま、大体分かるけどね」
小朕さんが俺の手を優しく握ってきたので、俺も彼女の手をギュッと握り返した。