7:走り出す。
それは、あたしにとっての逃げ道だった。
行き詰って何も見えなくなったあたしは、照らし出される道をいきなり発見してしまった。
不思議の国に落ちたアリスが、兎を追いかけるように――
あたしは、走り出した。
***
手に持っていたカフェオレの紙パックにストローを差し、吸い込む。
甘くてほろ苦い液体が口中に広がるのを充分に確認して、一気に喉に流し込む。
壁にもたれかかり、下に見える階段を眺めながら、もう一度ストローをくわえた。
昼休みの時間、あたしは階段を上がり、屋上のドアの前にある踊り場にやって来た。
教室を出る時、佐村に視線を送ったけれど、あいつは気付いただろうか。
これは賭け。
あたしが送った視線の意味に気付いて、佐村がここに来たら、あたしは佐村と一緒にどこかへ行く。
来なかったら、どこにも行かない。
ふと、昔のことを思い出す。
初めて彼氏が出来たのは、中三の夏だった。
恋というものを全くわかっていなかったあたしは、彼氏という存在にただ憧れを抱いていた。
「付き合って」と言われて、相手が好きかどうかさえ考えもせず、浮かれた勢いで付き合い始めた。
初めての恋愛ってのは、このカフェオレのように甘くてほろ苦いものだと思っていたけど、実際はたいして甘くもなく、ほろ苦くもなかった。
あったのは、奇妙な嫌悪感。
触れる手や、触れる唇が、なんだか嫌で。
「好き」じゃないから、触れられるのが嫌なんだと気付くのは、案外早かった。
おかげで、夏に付き合いだした彼とも、たった一ヶ月で別れる結果になってしまった。
それ以来、あたしはどこか怖くなっていた。
付き合いだしてから、恋に落ちることだってある。そうわかっていても、やっぱり嫌悪感を抱いてしまうんじゃないかと。
肌と肌が触れ合うことが、こんなにも気持ちを揺さぶるものなら、あたしは、誰とも触れ合えない。
恋愛することに、戸惑いがつきまとう。
けれど、そんな自分が嫌で、きっとこういう思いは、あの時だけだったのだと言い聞かせて、高二の時に告白してくれた人と付き合った。
だけど、やっぱり怖くて、キスさえ出来なかった。
人を好きになれないのかもしれない。
恋に落ちることが出来ないのかもしれない。
不安が雨雲みたいに広がって、じとじとと湿った物思いが、あたしを苦しめる。
男の子と二人で出かけるのは、約一年ぶり。
しかも佐村と。
――やっぱり、無理だ。
でも。
あたしは、変化を求めてる。
前後左右じりじりと迫ってくる壁から、逃げる道を探してる。
一筋の光が。
教室で見た天使の梯子みたいな、光が……見えた気がしたんだ。
佐村からの、あの手紙。
佐村から、手を差し伸べられた気がした。
はじめて、誰かの手を取りたいと、思った。
それが、こんな風に追いつめられてるあたしに差し出された救いの手だからなのか、佐村の手だからなのか、わからないけれど。
ぬけ出せる気がした。
眼下にある階段から、くしゃくしゃの黒髪がぬっと現れる。
ヤツはすっと視線を上げて、見下ろすあたしに笑いかけてきた。
「竹永、呼んだ?」
「よく気付いたね」
「エスパーだから」
階段を上がってくる佐村を目で追いながら、残り少なくなってきたカフェオレをずずっと勢いよくすする。
これは、賭けだから。
「ねえ、連れてってよ」
「どこに?」
二重まぶたの大きな瞳が、まっすぐあたしを絡めとっていく。
降って湧いてきたかのように、教室の窓際のあの席が突然脳裏をよぎった。
四角く切り取られた青空。
あたしは窓辺に座り、透明度を増してゆく大きな空を見上げる。
机に飛び乗り、窓のさんに手をかける。
誰かが、背中越しに呼びかけてくる。
「――飛べ」
「どこでもいいから、連れてって」
あたしを連れ出して。
まやかしでもいい。飛べると信じさせて。
「いいよ。連れてってやる」
蹴り出した。
限りない青が、目の前を覆いつくす。
飛べる――そう思った。
拙作を読んでくださった方に、大感謝!
ありがとうございます。
明日も張り切って0〜3時に更新予定です。