50:キスをして。
午後五時半過ぎ。
オレンジ色の教室で。
***
五月一日午後五時半過ぎ。
作中の時間と、今、現実の時間は同じです。
2話連続更新。
首だけ動かして振り返る。
教室のドアにもたれかかって、佐村が立っていた。
あの日と全く変わらない光景に、あたしは目を細めながら、佐村に気付かれないように小さく深呼吸した。
また、賭けに勝った。
いや、負けたとも言える。
いつだってそう。
あの旅行に行くと決めた時。
佐村が屋上への階段に姿を現したら行くと決めて、佐村は来た。
バイクで二人乗りした時。
曇り空から青空が見えたら佐村につかまると決めて、青空を見つけてしまった。
賭けだ、と思ってるけど、負けたのか勝ったのかわからない。
でも、なんとなく敗北感がある。くやしい。
「この手紙はなんだよ?」
「なんでしょう?」
「どこかに行こうかって、なに?」
「パクリだよ、佐村の」
窓に向けていた体を椅子ごと佐村の方へと向ける。
椅子がギギギ、と嫌な音をたてて、あたしは顔をしかめた。
「ねえ」
椅子に座ったまま、佐村の方へと身を乗り出して、呼びかける。
だけど、すぐ口をつぐんでしまった。
とんでもないことを言おうとしてるってわかってるから。
でも、知りたいんだ。
――好きな人になら、触れられるのが嫌じゃなくなるよ。触れたいと思うんだよ。
それって、どんな気持ち?
あの旅行で、あたしは気付くと佐村の背中を目で追って、距離を埋めたくてその手を伸ばした。
そう、遠くなる距離を縮めたかった。
この腕の長さの分だけ、佐村に近付ける気がした。
意気地のないあたしは、シャツをつかむのが精一杯だったけど。
本当は。
そのすべてを、つかまえたかったのかもしれない。
あいまいな心。
戸惑う気持ち。
見えない本心。
知りたい。
あたしはあたしの心を知りたいんだ。
核心を見つけて、揺るがない本心を、刻み付けたい。
「佐村」
真っ赤に染まる太陽の光は、教室のすべてを一色に変える。
オレンジの向こうで陽炎みたいに佇む佐村に問いかける。
「――キスして」
佐村の目が見開かれて、そのまま固まる。
数秒の間の後、佐村は金魚みたいに口をパクパクして、クシャクシャ頭を掻いた。
「おま、だ、大胆だな」
唖然とした顔のまま、まだ固まってる。
あたしだって驚きだ。驚きの大胆さ。いきなりアッパーかますみたいなもんだ。
でも、これも賭けだから。
「聞き間違い、だよな」
「そう思うなら、それでいいけど」
「つうか……まじ?」
さあ? と小首をかしげて、ゆっくりと椅子にもたれた。
窓のさんに首を置いて、顔をぐっと上に向けると、だんだん赤くなっていく空が眼前に広がった。そよ吹く風が前髪を揺らす。
不思議。
落ちていくみたい。
落ちていくようで、飛んでいるような。
まるで――
空の中にいるみたいだ。
「佐村が言ってたね」
あたしの背中に羽根は無いけど。
飛べるはずもないけど。
「空に落ちてくような気がしたって。地面と空が反転して、落ちてんのに飛んでるみたいな、そんなかんじだって」
世界は、何も変わらないように見えて。
大きく変わるものなのかもしれない。
考え方ひとつで、ものの見方ひとつで。
違う世界が輝きを放つ。
「旅行のこと……忘れないでよ」
なんだか、泣けてくる。
けっこう、ショックだったんだ。
あたしと佐村だけの思い出が、忘れられてしまうのが。
「竹永」
「一生の思い出にして」
あたしにとっては、あのピルケースにしまうみたいに、永遠にこの心にしまっておきたい、思い出なのに。
「ずっと忘れないで」
あたしはやっぱり自己中でわがままで嫌なやつ。
エゴだけぶつけて、佐村の気持ちなんて二の次。
でも、こんなの、エゴのぶつけ合いみたいなもんでしょ?
答えがほしい。見つからないまま、ずっと過ごすなんて苦しすぎる。息が出来なくなりそう。
溺れそうになる前にすくいあげて。
佐村だけしか出来ないから。
「竹永」
変わらない優しい声を独り占めしたい。
ずっとずっとそばにいてほしい。
この気持ちが何なのか、誰か、教えて。
手に触れる温もりに、外に向けていた顔を上げる。
佐村のシャツが目に入った。
オレンジに染まるシャツと、その隙間から見える鎖骨。あの旅行の夜、浴衣の隙間から見えた佐村の体を思い出して、顔が一気に熱くなる。
あたし、ちょっとヘンタイくさい。
「俺、めちゃくちゃ振り回されてない?」
「それはあたしのセリフ」
あたしの手を取った佐村の手に、きゅっと力が入る。
「どういう意味だと思えばいいんだよ?」
「ひとつしかないと思うけど」
手の平を親指でなぞってくるから、くすぐったくて笑ってしまう。
「照れる」
笑った佐村は、ちょっとかわいい。
女子生徒の佐村評を少しだけ認めることにした。
手をぐいと引き上げられて、あたしは立ち上がった。
胸の前にある繋がれた手を佐村はゆっくりと持ち上げて、にっと笑う。
「竹永、なにげに小悪魔だな」
繋がれた手は、あたしと佐村の顔の前。
王子様がお姫様にそうするように――指先にキスを落とされた。
その瞬間。体の先端に与えられた熱は、一気に体を走り抜けて、顔からぼっと火が吹いた。
あんたも小悪魔だよ、と心で訴えて、真っ赤になる顔を背ける。
だめだ。もう、止められない。
洪水をおこしたみたいに溢れ出る、この気持ちは。
紛れもなく。
「好き」
――恋だ。