39:寂しそうな目をした、嫌なやつ。
こうして佐村の背中に向かって手を伸ばしたのは何度目なんだろう。
無意識の内に勝手に動く手を恨めしく思いながら、遠くなっていく背中を見送る。
別のホームの電車が笛の音と共にゆっくりと動き出した。その音に驚いたのか、たむろしていた鳩がいっせいに飛んでいった。
音の出どころが気になったのか、佐村がふと振り返ってくる。
ばちりと視線が合ってしまった。
情けなく伸ばされたままの手。その手に佐村の視線が下りていくのがわかる。
不思議そうに首をかしげる佐村に向かって、あたしは何か言おうと口を開いた。
でも、やっぱり言葉が出てこない。
挙動不審すぎるあたしの行動。佐村は怪訝そうに眉をしかめて、「なに?」と問いかけてくる。
「あ、あの、さ」
何か言わなければいけない気がする。でも何も言うことがない。
口ごもり、おばあちゃんみたいにもごもご口を動かすだけのあたしは、相当な間抜け面だろう。
一歩。佐村はあたしに元へ戻ってくる。
一歩。一歩。近付く距離。
「なんなんだよ、お前」
「ごめん……」
佐村の口調は、今までの穏やかさが消えていた。刺々しく荒々しい声色に、あたしはびくつき、うつむく。
「なんでそういう目で俺のこと見るんだよ」
そういう目って、どういう目? わからない。……わからない。
「俺はどうすりゃいいわけ? なんでそんな寂しそうな目で俺のこと見んの?」
寂しそうな、目? あたし、そんな目をして佐村を見ていたの?
知らない。そんなの知らない。
「まじで意味わかんねえ……」
佐村の顔が険しく歪んで。あの穏やかな表情も笑顔も消えていた。
怒っているようで、悲しんでいるような。ないまぜになった感情をどう表現したらいいのかわからない、そんな顔をしていた。
初めて見る佐村の表情に、あたしはただ驚いて、同時にこんな顔をさせたのはあたしなんだと気付く。
「そんな顔すんな」
砂浜で立ちすくんでいるかのよう。
ぬぐっていく波は足元の砂まで連れて行って、不安定な足場が出来上がっていく。
ただ立っているだけなのに、沖へ沖へと移動している気がしてぞっとする。平衡感覚がおかしくなる。
だめだ、気持ち悪い。ぐらぐらする。
めまいに似た感覚に酔いそうになったその時。
あたしの体を抱きとめる、誰かの熱い手。
はっとして、焦点が狂っていた目に神経を集中させていく。
「嫌なやつだよ、お前」
耳元で聞こえる心地いい低い声。
ごつごつした佐村の体。鼻をくすぐる、佐村の黒い髪。
「そんなの、知ってるって言ってたじゃん……」
「だからむかつくんだよ」
鼻の奥がじんと痛くなる。
ぎゅっとつかまれて、身動きも取れず、でも、苦しくなかった。
佐村の背中に手を回して、そっと触れてみると、やけに体温を感じて、熱くなる。
「なんかもう、俺、まじで泣きそう」
ささやかれる言葉は、あたしの耳にしか届かない。
強まる力。引き寄せられた体。大きな手の感触が背中でうずく。
佐村の少し震えた声が首筋をくすぐった。
「この旅行のことは、忘れるよ」
どうして、と聞きそうになって、押し黙るしかなかった。
聞かなくてもわかることじゃないか。
「ありがとな、竹永」
ひどいことしかしてないのに。あたしは佐村に冷たい言葉しかかけられない。
なのに、佐村は「ありがとう」なんて言ってくる。
間違ってるよ。
あたしのことなんか切り捨ててしまえばいい。「ふざけんな」と言われて殴られたって、あたしはきっと文句も言えない。
春だというのに、冷たい風が吹く。
うなる風の音が耳をかすっていったその時、佐村はあたしの肩をつかんで身を離した。
消えた温もり。冷たい外気がいっせいに襲いかかって来て、急激に体が冷えていく。
「じゃあ、学校で」
さっと踝を返した佐村はジーンズのポケットに手をつっこんで、足早に去っていく。
冷たくなった指先。
そっと吐息を吹きかけたら、なんだかぎゅっと苦しくなって、あたしはその場に座り込んでしまった。
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