35:言の葉。
「郁ちゃん、おはよう」
9時半過ぎ。ペンションの客は帰ったか、帰り支度をしているのか、ダイニングには伯父さんと伯母さんしかいなかった。
「おはようございます。あの……豊介君は?」
キッチンで二人並んで食器を洗っている。……昨日とは違うけど、おそろいのウサギ柄エプロンだ。
「豊ちゃんはカブで疾走しに行ったわよ〜」
疾走って。
伯母さんは濡れた手をエプロンで拭きながら、あたしのための朝食を準備し始めた。
コーンスープの甘い香りが漂ってくる。
テーブルに促され座ると、すぐに焼きたての丸い手の平サイズの胚芽パンを差し出される。
続いてハムエッグとサラダ。温まったコーンスープ。
「ね、何かあった?」
いただきます、と手を合わせて、パンを手に取った時だった。
伯母さんが好奇心満々の目をあたしに向けて、向かい側に座ってきた。
「豊ちゃんねえ、何かあるとすぐカブ乗ってどこか行っちゃうのよ。うちに来る時は、たいがい何か合った時なんだけどね。あの子、言わないでしょ? 辛いこととか悲しいこととか」
……そうだ。佐村はいつも笑ってて、負の感情はけして表に出さない。
「言霊って知ってる?」
「ことだま?」
「そう」
伯母さんは奥二重のまぶたを細めて、キッチンの奥に視線をやった。
水道の水が流れる音と、伯父さんののん気な鼻歌が聞こえてくる。音、はずれてるけど……。
「あの人がねえ、豊ちゃんに言ったのよ」
カチャカチャと硬質な音を立てる皿。
皿洗いをしている伯父さんにあたし達の会話が聞こえるはずもなく、のんびりとした表情でなんだか楽しそうだ。
「口から出る言葉は、魂がこもってるから。悪いことばかり言ってると、それが現実になる。楽しいことや嬉しいことを口にしなさい。そうすれば人生なんてすぐ楽しくなる」
伯父さんの口調をまねして、妙に仰々しく伯母さんは言い放った。
「豊ちゃんね、中学生の頃はちょっと荒れててね。あ、でもヤンキーになったとかじゃないのよ。そのくらいの頃って、荒むでしょ。誰だって」
佐村が荒れてたなんて、想像もつかない。いつも穏やかだし、怒ってる姿なんて見たこともない。
すごい、違和感。
「たぶん、気分転換だったんでしょうね。ここによく来て、カブ乗ってはしゃいで。道をはずれてしまうよりはいいと思って、私もあの人も放置してたんだけど」
中2の頃からカブに乗ってたと言ってたけど、そのせいだったんだ。
免許持たずにバイク乗り回すのは、充分道をはずしてる気がしないでもないけど、暴走族になったわけではないんだから、いいのかな……。
「いつも文句ばっかり言っててね。そしたらあの人、ついに怒っちゃってね。『言霊って知ってるか!』って」
よく聞く言葉ではあるけどね、と伯母さんは笑みをこぼす。
「素直な子だから……ちゃんと受け入れてたのよねえ。気付いたら、そういう悪い言葉を言わなくなってた」
見ざる言わざる聞かざる――。
昨日見た、東照宮の有名な彫刻。
佐村と一緒に眺めた。昨日のことなのに、遠い昔のことのよう。
――悪いことっつーか、物事の嫌な面ばっか見てたら、先には進めないよな。
あの言葉は、佐村自身の体験に基づいた言葉だったんだ……。
佐村は後ろ向きなあたしに、自分の過去を見たのだろうか。
佐村がどうしてあんなに優しいのか。なんとなくわかる気がする。
伯父さんと伯母さんが佐村を本当にかわいがってるから、佐村はまっすぐに歩めるんだ。
素直に聞き入れなかった佐村のあの時の言葉を、もう一度反芻して、頭に叩き込む。
悪いことは、見ざる。言わざる。聞かざる。
「ちょっと心配になっちゃってね。暗い顔して『カブ借りるから』って出かけたから。あなた達、喧嘩でもしたのかなって。ごめんね、余計なお世話よね」
「いえ……喧嘩はしてないから」
本当のことなんて言えるわけない。押し黙り、うつむいてしまう。
「ああ、ごめんね! ほんと余計なこと言ったわね。ささ、ゴハン食べて。伯母さん、後片付けしなきゃ」
あたし達の間に何かあったことぐらいはばれてしまっただろう。
でも、顔に出さないですました顔が出来るほど、あたしは器用な人間ではなかった。
伯母さんは慌てた様子で立ち上がり、そそくさとキッチンに戻ってしまった。
伯父さんの鼻歌が止まり、伯母さんと何か話してる声が聞こえる。
何を言ってるかはわからないけど、声色は沈んでいる。
おいしいはずのハムエッグもスープもサラダも、味がしない。
残すのは悪いから、味もわからないのに、どんどん口に運んでいく。
少しだけしょっぱい気がするのは、きっと涙をこらえているせいだ。
今週水曜まで、多忙のため更新が遅れます。
明日(4/15)の更新はおそらくお休みすることになると思います。
出来ればあさって(4/16)には更新したいのですが、これも少し微妙です……。
なるべく16日0〜3時に更新できるように頑張ります。
遅くても17日0〜3時には必ず更新しますので、楽しみにしている方がもしもいらっしゃったら、少しだけお待ち下さいm(__)m