31:闇夜に響く、声。
「佐村は……すごいよ」
違う言葉があったはずだった。佐村への気持ちを伝える、別の言葉が。
でもうまく表現できなくて、至極簡単な言葉しか出てこない。
じんわりと沁み込んでゆく佐村の一言一言に、あたしがどれだけ救われたか。
伝えなければいけない気がするのに、何も言葉が浮かんでこない。
下ろされた夜の帳はあたしと佐村を包み込んで、安らぎを与えてくれる。
何も言わなくても、この柔らかな空気があたしの気持ちを伝えてくれるんじゃないかと、ただ呼吸を繰り返す。
目をつぶると、杉の木がそよいだ。
大きく伸びた枝を空いっぱいに広げた雄大な姿。しめ縄がかけられたその姿は、神秘的で優しさに溢れていた。
徳川家康の墓のそばにいた、叶う杉。
さんざめく葉の下で願った。
光と影で揺らめいていた佐村の横顔。
――竹永を、ここに連れてきたかったんだ。
佐村の言葉が、まるで今、耳元で囁かれたみたいに響いてる。
佐村の優しさはあたしを包み込んで、ぎすぎすした棘だらけの心から、痛くてたまらなかった棘だけを気付かない内に引き抜いていってくれた。
降り注ぐ優しい雨。
光を受けて、虹色に染まる。
空が青く輝く。
まばゆい光は目の前を白く染めて。
――舞い落ちる。
「佐村は……」
目を開ければ、飛び込んでくる星空。
幾千幾万の光をきらめかせる。
窓の端に少しだけ見えた、欠けた月。
「佐村は、叶う杉に、なんてお願いしたの?」
答えてもらえなかった質問を繰り返す。
涙目になっていたから、佐村を見ることが出来ない。布団に半分顔をうずめて、佐村の返答を待つ。
「秘密って言うのは、無しだよ」
佐村は絶対「秘密」って言うから、先手を打ってやる。
目だけで佐村をちらりと見ると、口を尖らせて「チェッ」とわざとらしい舌打ちをしてきた。
「普通の願掛けだよ。大学合格」
「それだけ?」
「大学合格のあとにカッコして別のお願いをもれなくつけてる」
「なにそれ」
ふっと吹き出した拍子に、つい佐村に顔を向けてしまった。
……大丈夫だ。この暗がりの中で、泣きそうになってることなんてわかるわけない。
そう言い聞かせて、佐村の首筋に、唇に、鼻筋に、視線を這わせていく。
闇夜に浮かぶ佐村の目は、あたしをじっと見据えていた。
ぱさり、と布団が揺れる。
浴衣のすそから伸びる手が、月明かりの下で青白い輪郭を浮き出し、あたしの顔の真横へと落とされた。
「領海侵犯」
トーマスを指差して、訴える。
「領空侵犯は許される」
「床は領海だよ」
「さっき竹永も床に手をついてた」
おあいこだから許される、と佐村はつぶやく。
月の光はさえぎられ、佐村の影があたしの顔を覆いつくして、闇が訪れた。
佐村の表情は影になり、見えない。
はだけた浴衣から、佐村の胸元がちらつく。
心臓が跳ね上がって、あたしは目をそらす。
細い体。けれど、引き締まった体。佐村は、やっぱり男なんだ、と鼓動が押し寄せてくる。
佐村の背中ごしの天窓から、星が見える。
いくつもの白い星は、佐村の肩にたくさんの蛍が止まったみたいに瞬いた。
佐村の吐息が、ひゅうと小さな風を起こす。
「竹永」
ささやくような声は、水面に落ちる水滴のよう。
ポツリ、と落ちて、波紋を広げていく。
すこしだけ佐村が動いたから。
その瞳が。
月明かりで、光を灯した。
まっすぐで強い、佐村の黒い瞳は、あたしを捉えて惹きつける。
あたりは静寂に飲まれ、ドクドクと心臓の音だけが木霊した。
「好きだ」
まるで金縛りのように。
――動けない。
「好きだよ」
繰り返される言葉が、静かに闇夜に響いた。
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