22:反転する世界。
「自己中で自分に甘くて、ひねくれた馬鹿だよ、あたしは……」
「なにを今更」
「佐村が優しくする価値なんてないよ。ひどいやつじゃん」
「わかってる」
「わかってるのに、優しくするなんておかしいよ」
「そんなことねえだろ」
雨は止まる気配はない。石段のでこぼこに水が溜まって、跳ね上がる。
顔に当たる雨のせいでまたたきの回数が増えていく。
そのたびに零れ落ちるのは、熱い雨。
「ほっといてよ……あたしのことなんか」
たゆむ雨の中で、佐村の顔は歪んで見えた。どんな表情をしているのかさえ、今のあたしにはわからない。
怒っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。……あたしのことなんか嫌いになっただろうか。
雨の音だけがさらさらと支配する。
佐村は何も言わない。重苦しくなる空気。
濡れた服が体を冷やしているのがわかる。同時にそれは体内に少しずつ侵食していって、芯まで冷たくなっていく。
怪我した手が、目の中で溜まっていく水が、異常なほど熱い。そこに心臓が移動したみたいに、どくんどくんと、太鼓を叩いたみたいに鳴り響く。
「教室で……」
石と靴が擦れる音。佐村は一歩だけ踏み出して、あたしを見据えていた。
「一人でいる竹永が、気になった」
空の向こうで風がうなる。雲が速度を上げて流れていく。
「俺、言ったよな? 教室の窓から竹永が飛び降りるような気がして、怖くなったって」
「うん……」
「でも、飛び降り自殺をしそうに見えたとか、そういうのじゃないんだ」
少し低い佐村の声は、春の空気のよう。ふわふわの綿毛を飛ばし、春の心地いい風を送る。
教室の窓辺。少しだけ開けた窓の隙間から漂ってくる春の香り。
甘くて爽やかで、ほのかに酸っぱい。花の香り。
あの空気を思い出して、それを佐村に重ねるあたしの脳みそは、熱暴走を起こしているのかもしれない。
「空に落ちてくような気がした」
「え?」
「地面と空が反転して、落ちてんのに飛んでるみたいな、そんなかんじ」
「なに、それ」
「いや……俺にもよくわかんねんだけど」
佐村は変なことを言ってしまった照れ隠しなのか、雨に濡れた黒髪をカシカシと掻いて、苦笑いしながら目を伏せた。
「佐村、詩人だね」
自然と、笑ってしまった。
「男は誰でもロマンチストなんだよ」
佐村も目を細めて笑った。
「伯父さんのところに一旦戻ろう。こんなんじゃ家には帰れないだろ」
濡れそぼったシャツをつまみながら、「びしょびしょだな」と嘆く。
責めるように降り続けた雨が、雲の隙間から漏れた光に当たり、きらきらと虹色に輝いた。
目の前にある海は、静かに引いていく。熱を連れ去り、うずく傷の痛みをさらっていった。
「行こう」
差し出された佐村の手。
あたしより低い位置にいる佐村の手は、まるで、ダンスに誘う王子様の手みたい。
佐村が王子様って。自分の空想にぷっと吹き出しながら、王子様の誘いを受けるお姫様みたいに恭しく、右手を伸ばした。
拒む理由が、見つからなかった。
骨ばったこの手を、取りたくなった。
少しくらい佐村に甘えても、許されるんじゃないかと、また自分に甘いことを考える。
右手の先から零れ落ちる雨。その一滴が地面に溶けたその瞬間。
――触れる指先。
冷たくなった体が指先から温かくなっていく。
力強くあたしの手を取る佐村は、髪から垂れてくる雨を煩わしそうにしながらも、やっぱり笑顔。
思った以上に固い佐村の手は。
思った以上に熱い。
それは、あたしの芯を捉えて、あっという間に春を呼び起こす。
佐村は、春の風。
冬の冷たい空気をいつの間にかどこかへ吹き飛ばして、柔らかい温もりをくれる。
花開く。春の匂い。
教室の香りが、鼻先をくすぐっていった。
それはまるで、冷たい雨からあたしを守ってくれるようだった。
冒頭のセリフ、最後の「あたしは…・・・」を「あたしゃ……」に変えるとあっという間にちびまるこちゃん化します。
明日も0〜3時更新予定です。