無知の罪
とある大手会社の本部に一ヶ月の短期派遣にいくことがあった。
就業初日、昼食後の一服をするために喫煙室に行った。
愛煙家のため普段ライターチェックはしているのだが、珍しくライターに火がつかなかった。
するとその場にいた五十過ぎと思われる男性が「どうぞ」と火をつけてくれた。
私は男性に火をつけてもらうのが嫌いなのだが、その男性のライターが高級品であることから言葉に甘え火をもらった。
「見ない顔ですね」
その男性が穏やかに話しかけてきた。
今日から派遣でお世話になってます、と告げると
「この会社の印象や部署はどんな感じですか?」
とやはり穏やかに聞いてきた。
色々な職場に勤めていると、初日でだいたいの雰囲気が分かる。
しかし相手はそれなりのポジションについていると見え、派遣社員ごときが良い部分ならまだしも悪い部分を言っていいものか私も黙ってしまった。
「僕は事務かたの役員だからね。素直な意見が聞きたいんだ」
私は素直に話すことにした。
その男性、K氏は穏やかな姿勢を崩さず「そうか、そうか」と聞いていた。
それから、食後の一服に行くと何度かK氏と遭遇した。
K氏は他の人にもライターの火をつけるのが癖のようであった。
そして私だけでなく、喫煙室にいる色々な部署の人たちの話をよく聞いていた。
時々
「○さん、この間の折衝の話はどうなりましたか?」
等、恐ろしい記憶力で他の社員の方の話を聞いていた。
えらい人はすごいなあ、私は単純にそんなことを感じた。
私に話題をふることも当然あり、そんな時、私はできるだけ素直にこたえた。
K氏とたまたま二人きりの時であった。
相変わらず私のタバコに火をつけながら、珍しくK氏が自分の意見をのべた。
「色々聞いてきて鬱陶しいおじさんだと思われているかもしれないが、僕は喫煙室はコミュニケーションの場だと思っているんだよ」
私は同意見だった。
喫煙室がない状態でコミュニケーションをとれるのが理想だが、実質そううまくはいかない。
どうしても喫煙室のコミュニケーションで他の部署のことを知ったり、知ったおかげで何か言いやすくなったり頼みやすくなる部分はあった。
同意見ではあったが私はまだ二十代のひよっこ、ですよね!などと言うのははばかれて、そうですね、と控えめな賛同をくちにした。
それからもK氏を含め、他の方々とも喫煙室で会話を交わした。
三週間ほど経ったときである。
いつも通り穏やかに談笑していると、見ない顔の方が喫煙室に入ってきた。
そして急いだ様子で
「副社長!会議の時間が早まりました!」
と口にした。
私はポカーンとしていた。
副...社長?
K氏がいつも通りの穏やかさで
「うん、わざわざすまないね」
と返事をした。
その時の私の心情を絵文字で表すなら
゜ ゜ ( Д )
である。
なんだってえええええええ!!!だ。
あまりにも有名な会社の副社長にいつもタバコの火をつけてもらい、問われるがままにその会社の良い面、悪い面を喋っていただと...。
呆けている私に他の社員の方が、
「副社長は自分のことを名前で呼ぶよう言ってあるからね。派遣は会議もないし知らなくて当然だよ」
とフォローのような、そうでもないような言葉をかけてくれた。
翌日喫煙室にK氏がいた。
私が言葉を発する前に
「たかだか役員という理由で接し方を変えてもらいたくなくてね」
と申し訳なさそうに言った。
時は遅くなったが、私は器の違いを感じた。
「君はあと一週間だろう。今まで通り感じたことを話してくれ」
K氏、副社長の言葉に素直に頷くしかなかった。
そのまま一ヶ月を迎え、私はまた別の会社で働くようになった。
その数年後。
ニュースを見ていると、K氏が社長になることを報じていた。
私は、テレビを前に一人頷いた。
そして無知の罪を恥じた。