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終焉機ヴィクティム  作者: 梅上
第六章 そして喪い始める
62/91

58 最初で最後

「これは」

「日記だと思います。旧時代の古典ですので若干読みにくいところがありますが、そのままでも意味は取れます」


 そう言われて雫は一人の研究員が見せる内容に目を通す。なるほど確かに。若干見慣れぬ言い回しや単語があるが大筋は特別な知識がなくとも読むことができる。

 だが何よりもこのデータが貴重なのはそんなところではない。

 

「柏木、誠」


 その日記の中には頻繁にその名前が――誠の名が出てくる。小さく呟くと研究員は嬉しそうに頷いた。

 

「はい。柏木様の生体認証で司令室の扉が開いた時からうすうす感じていましたがやはりここはあの人にとって深いかかわりがあった施設の様です」

「ええ、きっと彼も喜ぶと思います。……ですが、何故これを私に?」


 誠が己のルーツを求めているというのは安曇相手に言い放ったこともあって殆どの人員が知っている。これだけの情報ならば雫を介さず直接上げるべき物だ。その疑問を問いかけると照れ臭そうに研究員は頬を掻いた。

 

「いえ、深い理由があったわけではないのですが。多分山上さんから渡された方が柏木様も喜ぶのではないかと思いまして」

「はあ……?」


 いまいち納得がいかず曖昧な返事をしているとその研究員は雫の耳元に口を寄せる。

 

「だって柏木様とこの中で一番親しいのは山上さんでしょう?」

「親しいと言いますか……まあ信用はされていると思いますが」

「でしたらここで一つ、正妻争いに助勢しておいてその座を射止めた時に重用してもらえればと」


 露骨なまでに己の野心を隠さない言葉に雫は頭が痛くなるのを感じた。それはこの研究員が策略を練っている事よりもその前提条件だ。

 

「なんですか、その正妻争いっていうのは」

「え、違うんですか? 専ら噂になってますけど」


 聞き出したところによると。誠の住む屋敷に女性の出入りが頻繁になったことを受け、更に離宮を訪問したという事実もあり正妻を決めてから離宮での活動も開始する……と言う噂が流れているらしい。全く持って出鱈目である。そもそも屋敷の出入りに関しては半年前からリサとルカが同居している時点で今更だし、誠が現状離宮で子作りに励むことも無いだろう。

 雫は小さく息を吐いてとりあえず否定しておく。

 

「そのような事実は存在しません」

「え、そうなんですか?」

「そうなんです。全くいったいどこからそんな噂が……」


 ぼやきながらも雫は礼を言ってそのデータを己の端末に移し始める。更にもう一つ。誠から直接頼まれていた用事も同時にこなしながら。

 

「……AMウイルス関連のデータは、っと」


 離宮の男性の一人。レオナルド・クルーズから頼まれていたことだったらしい。誠の秘書の様に彼の求めるものを探しているが、意外とそういう仕事も悪くないと雫は思い始めていた。

 

(都市に戻ったら本格的にそっちの方に手を伸ばすのも悪くないかもしれませんね)


 恐らくこれをきっかけに誠の権限も仕事も増えていくだろう。その時に実務面でサポートする人員は必要のはずだ。リサもルカも実行部隊としての役割がある。元々雫の仕事もヴィクティムのサブドライバーから管制官に戻ったわけだが仕事の割り振りは完了していない。いないからこそこうして遠征隊に参加できたという事情もあるのだが、この際完全に切り替えるのも手だと雫は感じていた。

 

 二種のデータを端末にコピーしているが、中々容量が膨大らしい。時間がかかりそうだと思いながら椅子に腰を下ろした瞬間、地面が大きく揺れた。タイミング的に雫に視線が集中する。

 

「私じゃありませんよ!」


 それが雫が腰掛けた物によるものではなく、地上での轟音によるものだというのは格納庫側でも直ぐに分かった。その正体まで即座に判明したわけではないが、異常事態である事は一目瞭然だ。

 動揺が走ったのは一瞬だ。緊急事態の指揮を任されている護衛部隊の隊長が号令を下した。

 

「総員現状の作業を放棄して車に。カーゴ1に退避します」


 当然の帰結として、最も安全であろうカーゴ1への避難を決めた後、雫は逡巡する。

 現在端末にコピー中のデータ。誠の事が書かれているであろう日誌のデータとAMウイルス関連。どちらも誠には必要な物だろう。ここで退避した場合、戦闘の余波でここが崩れる可能性がある。そうなれば同じデータを得られるかどうかは運次第。それも分の悪い賭けになる。

 悩んだ末に決断した。

 

「……私はこれを持って戻ります。他の皆さんは先に退避をお願いします」


 小さく誰かが息を飲む音が聞こえた。護衛部隊の一人が一歩前に出る。

 

「危険すぎます」

「ええ。ですから残るのは私一人です。それなら被害は最小限に抑えられます」

「しかし……どうやってカーゴ1まで」


 その問いかけに雫は後ろの物を指差した。解析用に一機だけ残されたヴィクティムの量産タイプと思われる機体。雫はちらりと視線を向けながら言う。

 

「あれに乗って戻ります。一応私ヴィクティムのサブドライバーでしたので」


 半分ハッタリだ。こうでも言わなければこの女性は納得しないだろうなと雫は思ったのだ。どことなく職務への向き合い方が似ていると感じた。

 実際のところ、ヴィクティムのサブドライバーだから操縦できるというのは大きな間違いだ。ヴィクティムに乗っていたときの雫の仕事と言うのは基本的に戦域オペレーション。戦場の情報を分かりやすく誠に伝えるのを任務としていた。乗れるというのは嘘ではないがあくまで動かせるだけ。間違っても単独での戦闘などは出来ない。

 

 だが今は敢えてそう誤解されるような言い方をした。その方が説得が容易になるという打算。護衛に残るという数名を説き伏せて彼女たちとを車に詰め込む。

 その間にも遅々とした速度でデータの吸出しは進んでいる。そのシークバーの動きをもどかしく感じながら雫はじっと待つ。待つ以外にすることがない彼女はおもむろに適当な資料――紙ベースと言う浮遊都市では考えられない贅沢だ――を掴んで目を通す。地上からの断続的な振動は気にならないようだ。一枚捲って、気が向いたら別の資料を手に取る。

 別段意味のある行動ではない。暇つぶし以上の意味合いは無い行為だった。吸出し完了までの手慰み。どうやらこの部屋は一人の研究員に与えられていた部屋らしく、その人物の研究成果を始め日記などが多く残されていた。

 

「あ、これ……この前見た日記の人ですかね」


 見覚えのある一文から始まっている日記を見つけて雫は一人ごちる。一つにまとめた三つ編みを弄るのは考え事をする時の癖だ。己の毛先の感触を指先で感じながらその日記を読み進めていく。どうやらこの人物はマメなことに紙と電子媒体。両方で日記をつけていたらしい。果たして順序としてはどちらが先だったのか。紙につけていたのを電子化したのかもしれないと雫は思いながら頁を捲る。その時ひらりと一枚の写真が落ちた。

 

「おっと」


 落ちそうになったそれを空中でキャッチして目の前に広げる。雫は見ていないが、司令室にあった写真立の物と全く同じ写真だった。違うのは三人目の部分に汚れがないこと。写真を見て誠と似たような感想を抱く。

 

「この男性は優美香に似ていますね」


 ぼやきながら残り二人を眺める。その男性を挟んで立っている二人。その女性二人も雫の知っている人に似ていた。いや、一人に至っては似ているというどころの話ではなかった。思わず目をむいてその人物を見つめる。

 

「これは……」


 雫の中の考えが言葉になるよりも早く、軽い電子音とそれを掻き消すような轟音。何時の間にかデータの転送が終わるほどの時間が経っていた。それと同時に聞こえた音はかなり近く、また剣呑な響きだった。雫の中の危機感を煽るには十分だ。かなり危険な真似をしたが別に自殺願望があるわけではない。

 

「急がないと……」


 日記帳はともかく、この写真だけは持ち帰るべきだと胸元にそれを仕舞い込んで端末を片手に駆け出す。格納庫に出た瞬間、天井に開いた穴からASIDの指先が覗いているのを見つけて雫はゾッとした。先ほどの大音声はこれだったのだと嫌でも分かる。幸い、まだ手が見えるくらいであそこから全身が出てくるにはまだ時間がかかるという事だろうか。

 急ぎながらも焦らずに、雫は唯一残されたアシッドフレームに乗り込み起動シークエンスを開始する。シートについたところで安心感が身を包む。少なくともここは現状安全な場所だ。安堵しながらも手を緩めず、正常の手順通りに操作を行う。コクピット内のモニターに外部の映像が映りだし、消えた。

 

「え?」


 あらゆる電子系統が応答しなくなった。一体何故と雫は困惑を露わにする。この土壇場でのメカトラブルを疑うが、エーテルリアクターの駆動音が響き始める。雫は何の操作もしていないにも関わらず、だ。

 

「まさか!」


 天啓の様に閃いた考えは有り得ないと否定したくなるような絶望的観測。だが、それを否定できる材料は雫の心情しかなく、機体が動き出したのを感じてそれさえも残らない。

 

 覗いていた指先。そこから射出されたASIDのコアが新たな筐体としてこの機体を選んだのだと雫は悟らざるを得なかった。

 

 最早ここは安全な場所などではない。怪物のハラワタ。最も危険な死地へと変わった。

 秒単位でこの機体はASIDへと作り変えられていく。電子系統での操作は完全に不可能。残された手は物理的手段による脱出。それさえも後何秒有効かわからない。雫は躊躇うことなくそれを実行した。そうした場合、生身でASIDと対峙することになるが、臓腑の中にいるよりはマシである。

 

 脱出装置は半分正常に、だがもう半分は十全には作動しなかった。機体から飛び出すところまでは完璧。だがその後、コクピットブロック周辺に展開するはずのクッションは既に浸食を受けていた。展開されずに、高さ十七メートル付近からの自由落下。その衝撃を受けて雫はコクピットの中を跳ね回る。とっさに頭だけは庇ったが、右肘はおかしな方向に曲がった。パイロットスーツを着ていればそんな怪我は無用、どころかそもそも固定されているのでシートから吹き飛ばされることも無かった。探しておけばよかったと後悔しながらコクピットブロックから這い出る。両足は動く。

 

 胸部に穴をあけた量産型ヴィクティム――否、ASIDは雫を無視して、天井に開いた穴に向けて歩く。そこにあるのは嘗て自身の本体だった今や残骸となったウサギ耳の様なアンテナを持つASID……マーチヘアの物。それに触れることでその筐体も吸収した。ASIDの驚異的な物質同化能力を見て雫は恐ろしさを感じるが、それを眺めているわけにもいかない。今が最大のチャンスと激痛を堪えながら走り出す。素直にカーゴ1の方向に向かっても速度が違いすぎて勝負にならない。生き残るためにはここから施設内部――人間用のハッチを潜って奥に逃げ込むしかない。

 

 残骸の吸収が完了した。ヴィクティムに瓜二つだった頭部は最早その面影はなく、特徴的なウサギ耳を模したアンテナ。両腕には新たに形成されたパイルバンカーと、かつてヴィクティムを苦しめた不可視の力場を発生させる鋏。装備はそのままに、基礎性能を大幅に向上させたマーチヘアが再誕した。

 

 その変化には目もくれずに雫は走り続ける。振り返るなどと言う贅沢をした瞬間に自身の命運が尽きるというのはわかりきっている事だった。

 走って走って。ハッチを目前にして雫の瞳に希望が宿る。助かるかもしれないという一筋の光。

 

 雫がそれを感じるのを分かっていたようなタイミングで。

 

 ASIDの力場が雫の足を絡め捕った。

 

「ああああああ!」


 逆さ吊りにされた事と、希望が手元から擦り抜けて行ったという絶望で雫は叫び声をあげる。その様子を楽しむようにマーチヘアは宙吊りにした後、意外なほどやわらかい動きで床に横たえた。無論、不可視の拘束は続いたままだったが。逃げようともがく雫の眼に信じられない物が飛び込んでくる。

 

 半透明の――より正確にいうのならばエーテルなのだろう――うっすらと存在を感じられる何かが見えた。雫的には触手としか形容のできない物がASIDの腕から幾本も雫に向けて伸びてきた。ASIDがそんな物を出してくるなど聞いたことがない。それがこの個体の特性なのか、或いは量産型ヴィクティムの特性なのか。得体の知れない恐怖に襲われて雫は更に拘束を外そうと暴れるが、その結果は触手による更なる拘束。

 両手両足を固定されて、一体何が始まるのかと怯えていると徐に触手が雫の体に触れた。触れてそのまま肌を擦り抜け、体内に触れてくる。

 

「っ!」


 その感触の悍ましさに雫は全身を総毛立たせた。嬲られることを望んでいたわけではない。だが直に体内を弄られるというのは吐き気を催すような体験だった。感覚など無いはずなのに内臓を触られているというのが分かる。じっくりと時間をかけて、胸部から徐々に下に降りていき、下腹部に触手が伸びたあたりで雫の中にこれまでとは別種の恐怖が沸いてくる。

 女性として嬲られる。それはいくら覚悟をしていても拭える類の物ではない。自身の生殖器を丹念に撫でまわされているのを感じた。そこで雫ははたと気付く。この触手の意思は凌辱と言う感じではない。そう、まるで寸法を測っているかのようだった。

 何のために? その答えは数秒後に明らかになる。

 

 引き抜かれた。触手と、つい先ほどまでサイズを測っていた臓器だけが正確に体内から。

 

「――――――!」


 喪失感と、激痛。ショック死しないのが不思議な位の痛みは雫に声にならない悲鳴を上げさせる。腹部に空いた裂傷からおびただしい量の血液が溢れ出る。最早用事は済んだ。そう言わんばかりのマーチヘアはそのまま雫を踏みつぶそうとし。

 

『おおおおおおお!』


 扉を突き破り、純白の機体が飛び込んで来る。

 

 最短時間でこの場に到達したヴィクティム。だが全て手遅れだった。

 

◆ ◆ ◆


 司令室からカーゴ1に戻りヴィクティムに登場した時点で格納庫内部へのASIDの侵入は無かった。より正確に言うのならば地上に展開したASIDは全てドッペルに向いており、こちらに向かう個体はいなかったというのが正しい。

 その事実は誠としては拍子抜けだったが良いニュースでもあった。ASID同士潰しあってくれるのならば損はない。

 

 誠が到着してから十分ほど遅れて格納庫側の人員も車に乗って戻ってきた。その時になって初めて誠は雫は格納庫に残っていると知った。

 その時点ではむしろ格納庫側の方が安全だという見込みさえあった。何しろASIDの意識は全てドッペルに向いている。その状態で地面を攻撃して来るASIDがいるとは思えない。事実、ヴィクティムの探ったエーテルリアクター反応は全てドッペル周辺だった。基地付近に来ている個体はいない。

 そこに落とし穴があった。エーテルリアクターを停止させながらも地下にある格納庫に侵入できる個体は存在しない。ヴィクティムはそう計算したからこそその可能性を提示しなかった。事実、それは正しい。精々が拳を通過させられる程度だ。

 ASIDのコアが残っている一機に取りつく可能性も計算した。だがコアを移すには直接触れなければいけない。かつてリサのアシッドフレームを浸食したASIDも四足型のASIDが直接触れることで成している。

 

 だから、仮にエーテルリアクターを破壊され察知できない個体がいたとしても新たな筐体を得て新生することはない。直前で力尽きるはずだった。

 

 その不可能を可能にしたのはマーチヘアの持つ不可視の力場。あの個体はそれを使って、自身のコアを運んだのだ。

 

 ヴィクティムがその反応に気付いたのは三十秒前。全てを投げ打って、急行した誠の視界に入ってきたのは夥しい出血と共に床に横たわる雫の姿だった。

 

「ヴィクティム!」

《了解。エーテル供給の優先率を機体フレームに。近接格闘モード》


 声だけで全てを察したヴィクティムが自身のエーテル配分を機体強度に傾ける。扉を突き破った勢いのまま、横合いからマーチヘアを肩からの体当たりで突き飛ばす。ヴィクティムのセンサが捉えていた雫を縛めるエーテルの束縛も引きちぎった。その段になってその個体の特徴が先日取り逃がしたジェネラルタイプに酷似していると気が付いた。

 

「こいつ、まさか」

《推論。先日逃亡したジェネラルタイプ、都市呼称マーチヘアと思われます》


 その事実は誠に深い後悔をさせるには十分だった。あの時、確実に仕留めていれば今この状況は有り得なかった。

 

 相手も警戒しているのだろう。慎重に距離を取っている。と、小さく、鋏が閉じられた。その瞬間にヴィクティムの機体が何かに押し付けられたように動きを止める。

 

「これ、は!」


 不可視の力場。かつてヴィクティムが受けたものだがその強度が段違いだ。相手の出力が信じられないほどに向上している。

 

《敵エーテルリアクター出力、当機の約50%》

「遠隔共鳴……こんな奴が!」


 聞いた説明を今更に思い出す。あのASIDが取り込んだ機体のエーテルリアクターは遠隔型RERとでもいう物。ヴィクティムのドライバーと遠隔型RERを搭載した機体に乗っているドライバーで共鳴を起こすという代物だ。つまり、あの機体の出力は誠とマーチヘアの共鳴によって成されているという事である。吐き気しかしない。

 

 その出力は驚異的だ。大半をこの力場に注いでいるのか。近接格闘に備えて機体強度を上げていなかったら押しつぶされていたかもしれない圧力。今攻撃されたら不味いと思ったが、相手の行動は逃げ。

 もう片方の腕にそびえるはパイルバンカー。それを天井に向けて、撃つ。そちらも強化されているのだろう。辛うじて拳が届くくらいに開けられていた穴を拡張して現在のマーチヘアが潜り抜けられる程になった。

 

 一度だけ振り向いて、あの三日月の様な笑みを見せるとそいつはそのまま穴から抜け出していく。それとほぼ同時にヴィクティムの拘束も解けた。

 

「逃がすか!」

 

 怒りのまま、追いかけようとする誠をミリアの悲鳴のような声が静止する。

 

「ダメ! 雫お姉ちゃん死んじゃう!」


 その叫びが誠を正気に戻した。ヴィクティムを跪かせて矢継ぎ早に問いを投げかける。

 

「医療機器はあるのかっ?」

《医療キットを展開。こちらを》


 コクピットの一角から突き出た取っ手を掴むと大型の救急箱の様な物が取り外された。アシッドフレームに常備されている応急キットと比較してもかなり大きい。何故戦闘用の機体にこれだけの装備があるのか疑問はあるが今は有難い。それを片手に誠はコクピットから飛び降りる。

 

「雫!」


 すぐ側に立って、彼女の惨状を見た瞬間誠は一瞬どうすればいいのか分からなくなった。花の様だと思ってしまった。裂けている腹部が花弁を連想させる。その傷の深さは素人である誠でさえ一目でわかる。浅く上下している胸元は雫がまだ呼吸していることを告げていたが、そちらの方がむしろ不自然に感じるほど。だからこそ、動きが止まった。これは、今から何かして、間に合う物なのか……? と。

 

「ご主人様、貸してください!」


 続けて降りてきたミリアが誠の手から医療キットを奪い取って広げる。彼女の耳についているヘッドセットでヴィクティムが指示を出しているのだろう。

 

《メインドライバーは山上雫に呼びかけを。手段は問わず、意識を覚醒させてください》

「ご主人様は雫お姉ちゃんに声をかけてください!」


 情けない話だがミリアの方がよほどしっかりとしている。中から取り出したよくわからない機材を広げて何らかの処置を施そうとしている。

 

「雫……?」


 震えるような声は自分の物とは思えないほど頼りなかった。そんな情けない呼びかけに、雫は答えた。

 

「誠、さんですか」


 うっすらと開いた瞼は震えている。視線は誠の方を向いてはいるが焦点が合っていないのだろう。小さく息を吐いた。

 

「すみません。よく見えないです……もっと近くに来てもらってもいいですか?」

「ああ。ああ。すぐに行く!」


 阿呆みたいに頷きながら誠は雫の頭の横に膝をついて覗き込むようにして彼女の前に顔を差し出す。

 

「どう、したんですか。そんなに泣いて。らしくないですよ」


 そういわれて初めて誠は自分が涙を流していると気が付いた。何故泣くのかと誠は己を叱る。これではまるで――。

 

 ミリアが雫の首元に何かを張り付けた。そうすると見る見るうちに雫の表情が和らいだ。

 

「ああ、ミリア。ありがとうございます。だいぶ楽になりました」

「ううん。ごめんなさい……」


 どうしてミリアは涙を瞳にためているのか。どうして何かを堪えるように小さな拳を握りしめているのか。誠には分からない。

 

「私、雫お姉ちゃんとたくさんお話ししたから。今はご主人様の番」


 その言葉を聞いて雫はうっすらと口元に笑みを浮かべた。

 

「ごめんね。でも最後に一つだけ。大きな声を出せないからこっちに来て頂戴」


 何故最後などと言うのか。まだ幾らでも話すときはある。あるはずだと誠は己に言い聞かせる。

 力の入っていない腕で雫はミリアの頭を撫でながら何かを二言三言伝えた。その言葉を刻みこむように、ミリアは何度も深く頷いた。

 

「ありがとうございました」

「……頑張ってね。これが私からの最後の授業」


 そう言って雫は誠に視線を向けた。

 

「私の胸ポケットに、端末が入ってます。誠さんが欲しがっていた情報と、AMウイルスについての情報」

「そんな、物の為に……!」


 誠の胸を満たすのはただただ後悔だけだ。雫の今の状態は、誠の望みを叶えるために陥ったも同然だった。

 

「ずっと前から言おうと思ってましたが……もっと誠さんは我儘になっていいと思います」


 こんな時だというのに、否、こんな時だからこそだろうか。雫の言葉はどこか忠告めいた物だった。

 

「人の眼なんて、気にしなくていいです。自分が本当にやりたいことを公言していいんですよ」

「なん、で」


 そんなこと言うのか。何故そんな言葉が出てくるのか。その疑問が口を出た。

 

「だって、やりたいこと我慢しているのが分かりますから。私も、そうですし。似た者、同士なんですよ私たち」


 薄くそう笑った。そんな些細な共通点が嬉しいとでも言うかのように。そんな細やかなことに幸せを感じるというように。

 その時になって誠の中に悔いが生まれた。もっと話をすれば良かった。機会はいくらでもあった。言葉は幾度となく交わした。だがそれは本当に、相手を理解しようとしていただろうか。ただ漠然と、その場を流すためだけに口を動かしていなかっただろうか。

 山上雫という女性が見た目に反して優しい性格だという事は知っていた。だがそれ以上の事を果たして誠は知っていただろうか。知ろうと、していただろうか。

 我慢をする性質だと、今言われて初めて気づいたというのに。

 

「一つ、お願い聞いてもらえますか?」

「一つなんて言わなくていい。いくつだって叶える」

「じゃあ、お言葉に甘えて。二つだけ。手、握ってください」


 頷きを返す間も惜しんで誠は雫の手を両手で握りしめる。その冷たさにゾッとする。気が付けば、広がり続けていた赤色はその侵食を止めていた。誠は自身の熱を分け与えるかのように固く、強く握りしめる。過剰な程にこめられた力を雫は気にしていない。気にするだけの機能がもう無い。

 

「二つ目……ちょっとこっちに顔を寄せてください」


 言葉のままに、誠は雫の方に更に顔を寄せて。

 

 不意打ちの様に跳ね起きた雫に唇を奪われた。口元に、僅かだが彼女の血が流れ込む。その血潮はやけどするかの様に熱く、だが触れ合った唇は熱を全て奪われたかのように冷たく、そして悲しくなるほどに柔らかな感触を一瞬遺して行った。

 頭痛がした。まるでこんなことを以前にもしたかの様な既視感。

 

「二人には悪いですけど。これくらいは役得、という事でいいですよね……?」

「雫……?」


 今のはまさしく死力を尽くしたのだろう。大きく消耗した様子で息も絶え絶えに雫はそんな言葉をつぶやいた。

 行為自体に疑問はない。お願いと言われた時誠は今雫がした行為を求められると思っていたのだ。それに応じるつもりはもちろんあった。なのに何故、わざわざ自分からと言う疑問。

 

「未練、残したくないんでしょう……? 私も、未練残したくないんです。貴方は良い人だから。きっと願えば叶えてくれたでしょうし、それをずっと大事にしてくれたと思うけど」


 そんな風に縛りたくないと。こんな時なのに最後の最後まで山上雫と言う女性は他者を思いやる人間だった。震える腕が誠の頬に伸びる。愛おしげに触れる指先。そこに付着した血液が誠の頬に模様を描く。

 

「……リサとよく話して。きっとリサも自分の中で答えを見つけたいと思うから」


 己の思いは口にせず、他者の思いを後押しして。

 雫の腕が力を失った。血だまりの中に落ちて、血飛沫が飛ぶ。それが誠の顔に当たって筋を作った。

 

「雫?」


 頭では理解している。だがそれを受け入れることが出来ない。何より、ミリアの前だ。彼女だって悲しいに決まっている。だから自分が醜態を晒すわけにはいかない。乱れきった思考はそんな帰結を経て平静を保つことを選択する。

 だから気のせいに決まっている。決意に反して震える喉も。ぼやけてにじむ視界も。耳を介して聞こえてくる獣の様な呻きも。

 

 その瞬間、誠の中で何かが壊れ。そして何かが繋がった。

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