第八話 つまるところ架空
瀬戸内海へと流れる支流の川沿いをみちなりに行けば、学校の正門につく。自宅からは徒歩十五分といったところか。公立九重院高等学校は地元でも比較的偏差値は高く、明治時代から連綿と続く、歴史のある学校だ。
堤防のあたりを歩いている。河岸は板チョコのように区画されていて、鉛色をしたコンクリートで舗装されている。
路傍には群生している野の花がたくましく咲いていた。葉やくきは朝露に濡れ、日の光に輝いているのだった。
「それじゃ」
「ん」
教室の違う蜜姫と別れ、一年二組の教室に入る。
そこにはやはりというべきか、彼女がいる。
迎火手毬。
朝特有の騒がしい教室の中で、手毬の存在は一際浮き上がっているように思えた。手毬の包む雰囲気は冷え冷えとしていて、なにやら妖しげですらある。立ち上る妖気は女の色香。漂う魅力は浮世離れした得体の知れなさ……。
手毬は自分の席で読書をしている。人を撲殺できそうなくらい分厚い本だ。目を細め、真剣なふうに紙面に目を落としている。
「何読んでるのさ」僕は声をかけた。一抹の興味があったからだ。
「ああ、これかい?」と手毬は本の表側を僕に見せた。ブックカバーがかけてあるので表題は分からない。「この世に生きていくうえで必要のない知識を提供してくれる本だよ」
「それって読むだけ無駄なんじゃないのか?」
「無駄かどうかは今後の心がけ次第だろう、涼君?」手毬は僕のことを下の名前で呼ぶ。多分そのことに特別な意味はない。またあっちのほうも、「私のことは名前で呼んでくれたまえ」とのことだった。
たぶん垣根と言う概念が薄い子なんだろう。僕のことをとっくに同類と考えているから、出会ってから間もないのにこうした親しげな通好を試みるし、僕もそれを受け入れる。僕も手毬に近しいものを感じていた。
「ほら、ひょっとしたら私が、火星に降り立つ日が来るかもしれないじゃないか」
「……もしかしてその本は、近未来をモチーフにしたSF小説なんじゃないのか?」
「……君の洞察力には甚だ感服するよ。これがH・G・ヴェルズが記した名著、宇宙戦争だとよく看破したものだ」とは言うが、そこまで看破していない。
「僕はてっきり、難解な哲学書なんかを読んでると思ったんだけどね」
「君の言う哲学と言うのは罪とか罰とか、神とか理性とかを論じるあれのことかい? どうも私にとってはね、そういうのが好きなやつってのは、決まって中二病だったり気取ったりするのが多いって印象だね。生半可な知識だけで得意げに語りだすから困り者だよ。カントとかウィトゲンシュタインなんかの著も読まずに哲学がなんたらかんたら言うのは、傲慢だと思うんだ」
「て、手厳しいことを言うんだな」
「かく言う私も、一知半解の知で物事を偉そうに論ずるのが好きな手合いなんだ。我ながら、困ったものだよ」
「なんだ、おまえもかよ」僕はへへと笑った。「でも、猟奇趣味はかなり洗練されているようにみえるぜ」
「それはほら、猟奇は人の本質であるような気がしてね。興味があるんだ。並外れて。二十世紀のイギリスの小説家――アルダス・ハクスリーはこういったのさ。『知的な人間とはセックスよりも興味のある何かを発見した人である』とね」
「僕にはどうも、おまえが知的な人間っては分かるけど、猟奇趣味が高じて知的になるってのはうなづけないな。なんていうか、違和感がある」
「勘違いしないでくれよ。あくまで架空。本気で人を殺したいだとか、変わった方法で人間を解体したいだとかは思っていないさ。つまるところ架空だよ、架空」
「架空、ね」
「ふふふ、私は架空のもので遊ぶのが好きなんだ」
手毬は皮肉げに笑ってみせた。かわいらしいえくぼができて、とても魅力的に映る。
そういえばと思い出すことがあった。手毬とバスジャックに遭遇したことで結局、僕は蜜姫の誕生日プレゼントを買い忘れていたのだ。どうも事件が衝撃的過ぎて、すっかり頭から抜け落ちていた。
蜜姫の誕生日は残り二日。四月十六日。急いで準備せねば。
かといって、女の子の趣味はあまり分からない。蜜姫との付き合いは長いが、いざプレゼントとなると、判断に困る。蜜姫の好みはだいたい知っているものの……難しい話だ。
お菓子とか形の残らないものにしようか? でもそんなんだったら、「想いが軽い」とかなんだか言われて突っぱねられそうだ。
なら、プレゼントらしく貴金属でいくか? でもそんなんだったら、重いよなぁ。色々と。わざわざ貴金属なんか買うか、普通?
「なぁ、手毬」
「ん? なんだい」
「ちょっと、おまえに相談事があるんだ」
「相談事? 私でよければ、力になるが」
僕は近々友達に誕生日プレゼントをあげねばならないことを伝えた。そいつはひどく頑固なやつで、毎年贈り物を上げないとプンスカ怒るってことも。
最初は真面目な面をしていた手毬も、段々と表情が崩れ、やがては唇の端を吊り上げるまでになった。
「なるほど、な。つまりは、彼女のための贈り物を見繕って欲しいと」
改めてそう確認されると、けっこー恥ずかしいものがある。「そういうことかなぁ」
「にしても、この猟奇趣味の私にそんなかわいらしいことを頼むなんてね。君は人選を間違えたのではないか?」
「怖いこと言うなよ」僕は少しひるんだ。でも、人選を間違えたとは思っていない。「言っとくけど、見繕った誕生日プレゼントが拷問器具とかだったら許さないぜ」
「安心するといい。さすがの私も、平常と異常の境界線くらい把握している。少なくとも私は、あちら側に渡るつもりは毫ごうもないよ」
「あちら側、ね」
僕にはどうも、手毬の言葉が意味深に思えて仕方がない。
「予定はどうするのかな」
「今週の土曜日ってつまり明日ってことか。で……日曜日がそいつの誕生日なんだ」
手毬は少し考え込むそぶりを見せた。少し不安になる。でも、「いいよ」と最後には快く諾してくれた。「もしかしたらあれかな。私たちが愉快なバスジャックに遭遇した日、君はその子にプレゼントを贈るために乗っていたのかな」
僕は彼女の洞察力の高さに驚いた。
「鋭いな」
「となれば、またバスに乗って行くのか? ん?」
「……それはイヤだな。バスに乗るたびにジャックされるなんて、勘弁してもらいたいよ」
と。
ガラガラと扉がスライドする音。同時に話し声がぴたりとやんだ。
どうやら先生がきたらしい。
一年二組担任の麻生あそう先生のお出ましだ。
「話は後でするから」と断りをいれて、とりあえず自分の席に戻った。みんなも慌てて自分の席に着く。
麻生先生は三十代前半のスーツのびしっと決まった先生だった。黒縁のメガネをかけている。いかにもインテリって感じだ。担当は数学。
教卓に立った麻生先生は開口一番、二者面談を予定している胸を伝えた。放課後に十分程度、先生と二人で話し合うらしい。
僕は頬杖をついて、それを聞いている。
「二者面談ねぇ」
麻生先生っていかにも堅そうだよな。
進路のこととか話すのだろうか。
面倒くせぇ。