第七話 幼馴染のいる朝
朝だ。白む明け方の空が徐々に色づいていっている。天に浮上する太陽。我が家は海に近いので、朝方になるとよく海鳥の鳴き声を聞くことができる。次いで、汽笛も耳を済ませば聞くことができないでもない。おそらく瀬戸内海に浮かぶ島々への定期便なのだろう。湾岸では本土と四国、あるいは海上に浮かぶ群島とを結ぶフェリーが日々運航している。
すえたような草木の香が這うように窓から入ってきた。
「起きた?」
覚醒未満の脳が誰かの声を拾う。耳覚えのある声だ。どこか険のこもったような、どこか呆れたような音調。
「起きたよ」僕は言った。
ベットで上体を起こしている。全開の窓。僕の自室は二階だ。ベットは窓際に沿って設置されている。
どうやら窓が全開なのは幼馴染の蜜姫が侵入してきたからだと推察する。昼歌ひるうた家と速水はやみ家は一枚の塀に隔てられているだけで、ほぼ隣り合わせだ。屋根伝いに渡っていけば侵入できるくらい接近している。現に蜜姫も屋根を使い、窓を出入り口にして侵入したのだろう。主の許可も得ずに。
家が隣り合っているのだから当然として、窓から景勝を望むことはできない。せっかくうるわしの絶勝地、瀬戸内海に面しているというのに、速水家の外壁が邪魔で見えない。灰色のくすんだ壁が一面に広がるのみだ。
蜜姫はイスで漫画を読んでいた。机に備え付けてあったイスだ。背もたれに体重を預けて、暇そうに読んでいる。くしで丁寧に整えたらしい黒髪が放射線状に広がって、背もたれを覆っていた。
「僕が起きるのを待ってたのか?」
「そーだよ」と蜜姫。
「起こしてくれてもいいじゃんか」
「だって気持ちよさそーに寝てたから、あんた」
「今何時」
蜜姫は斜めの方向を指差した。釣られるように首を巡らせると、壁にかけられた柱時計の指針が七時半を告げていた。まだ入学したばかりだから、朝のゼミはない。「ふーん」
「これ、面白いね」蜜姫はくすくすと笑いながら、ページをめくっている。こいつ、僕に漫画を買わせるようにけしかけるだけけしかけて、僕の漫画を読んでいるのだ。お金を払ってるのは僕なのに、「私がいいよって勧めたんだから、これは共同でしょ」なんていって漫画の並んだ棚をごそごそと漁ったりするんだ。勝手気ままなやつだと思う。性悪なんだ。
「朝練は?」
「まだ。入部してからだよ、そんなの」
「入部したんじゃないのか? バスケ」
「今は体験入部だってば。確か入学式があったの三日前でしょ? そんな早くから朝練なんてあるわけないじゃん」蜜姫は小バカにするように言った。
「言い方にとげがあるぜ」
「きれいな花にはとげがあるのよ」
「……おまえのどこに花の要素があんだよ」
何かが飛んできたので、慌ててよけた。
それは漫画だった。先ほどまで蜜姫が通読していたやつだ。
そして蜜姫は僕に覆いかぶさってきた。二人分の体重を受けて沈降する羽毛のベット。眼前には蜜姫の顔がある。甘い息遣いが僕の頬にかかった。。
「お仕置きッ」と蜜姫は、僕の手をふさいでぽかぽかと僕の頭を殴った。
「いだっ、痛いなおい」
「私のどこに花がないって?」
「わ、分かったから殴るなよ。んなむきになるなってんだ。っていうかさ、飛びかかった反動でスカートがめくれ上がってるぜ。とっとと直せよ」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が切れたらしい蜜姫は、スカートに手を伸ばしつつ、肩で呼吸を整えた。少し顔を赤くしてスカートを元に戻す。蜜姫は睨むように僕を見た。
蜜姫の長い髪が頬や首、服なんかに垂れている。鼻がくっつきそうなくらい近い。上気した頬。
そして蜜姫は、ぐったりと僕に体を預けた。「疲れたぁ……」
「はいはい」まったくデタラメなやつだ。行動原理が読めない。
僕から離れた蜜姫は、前みたくイスに座って漫画を読もうとした。しかし漫画が手元ではなく、床に転がっていることに蜜姫は気付いたらしい。
蜜姫がくいくいと手でジェスチャーをしてきた。漫画を返せ、ということなんだろうなと思いながら、放ってやった。ピッチャーの手から放たれたボールがキャッチャーミットにすっぽり収まるように、漫画は放物線を描いて蜜姫の元に渡った。満足そうに受け取る蜜姫。「って、どこまで読んだか忘れちゃったじゃない! 涼ぉ!」
「僕に八つ当たりすんなよ」僕は手で両の耳をふさいだ。「っていうか、今のは僕が悪いのか?」
すると、「朝よー」と階下から母さんの声がしてきた。
僕はベットから降りた。フローリングの床に足を付ける。ひんやりとした朝の気が足元に忍び寄ってきているのが分かった。
蜜姫はぶつくさ言いながら漫画を読み直している。
いい気味だ。
「着替えるから、あっちいってろ」
僕がハエを払うような動作をすると、「ちぇ」と蜜姫は渋々と言ったふうに出て行った。ちゃっかり漫画を携帯しているから、一階のリビングで読むつもりなんだろう。そういうところは抜け目ない。
クローゼットを開けてもそもそと着脱した。寝巻きを脱いで制服の裾に腕を通す。新調したばかりのカッターシャツとノータックの黒ズボン。あまり着慣れていないから、服に着せられてる感がすごい。なんだかかくかくする。
ふと机のほうに目を向けてみる。ぽつねんと置かれているのは携帯電話だった。
何か、強烈な気が形態から発せられているような気がしてきている。
バスジャックの事件から、手毬からよく電話やメールが来て、受信ボックスは手毬からのそれでいっぱいになっていた。埋め尽くされている。
ひょっとしたら向こうは、僕を同類か何かかと思っているのかもしれない。
しばし悩んで、制服のポケットに入れる。蜜姫を待たせると、また何か言われそうだ。
居間に下りると朝食の準備をしている母がいた。蜜姫もいる。予想通り、けたけたと笑いながら漫画に目を通していた。
蜜姫は自宅で朝ご飯を済ませていたらしく、膳は二人分ある。僕と母の分だ。父さんは朝早くから出勤したらしいのが分かる。
母さんがテーブルに座るよう促した。
テーブルには母さんと蜜姫が向かい合うように座っている。
僕は蜜姫の隣の席に座って、膳に盛られた料理を見た。白米に味噌汁、焼き魚といかにもな和食が並んでいる。
「いただきます」
隣で蜜姫と母さんが話し込んでいるのを聞きながら、僕は箸を手にとった。
「本当、みっちゃんがいてくれて助かるわぁ。今日も涼を起こしに来てくれたんでしょ?」
どうやら話題はテレビのバラエティーから僕に移ったらしい。
そんなの全然どうでもいいのに、感度のいい耳がなぜか拾ってきてしまうから不思議だ。
魚の肉をほぐす手を休めて、ちらと二人をうかがった。さて、蜜姫がどう出るか……。
蜜姫はあろうことか、「ええ、そうなんですよ。本当、なかなか起きなくて困ってるんです」と笑顔でそんなことをのたまった。もちろんウソだ。
「涼もねぇ、せっかく幼馴染の女の子が起こしに来てくれるんだから、ちゃんと起きなさいよねぇ」母さんは叱るように言った。
「母さん」
僕は蜜姫の虚偽申告を訴えでようとしたが、「そうよぉ。きちんとそういうとこ、心がけなさいよね。そういうとこがあんたのダメなとこなんだわ」と蜜姫はまた笑顔で恐ろしいことを言う。「小学校からあんたを起こしに行ってる私の身にもなってよね」
「……おまえもさ、少しは自分の部屋を占拠されてる僕の身にもなれよ」
「ん? 何か言った?」
僕は蜜姫の視線が怖くて、「何も」とついそんなことを言ってしまった。やり口が脅迫じみてると思った。蜜姫は僕の母親にいい顔をするために、けなげな幼馴染を演じているに過ぎない。実際は漫画を読み漁るだけの暇人なのに、だ。蜜姫はウソを言っている。
母さんはニコニコと僕たちのやり取りを眺めている。蜜姫もニコニコしていた。
こいつ、見た目はかわいいのに、中身は腹黒いんだよな。しゃべらず、動かなければ、すっげぇかわいいのに。
僕は一気に味噌汁をかきこんだ。勢いよく食器を机上に置く。「よし」
「行くの、学校?」蜜姫が問いかけてくる。
「バック取ってくる」僕は二階に駆け上がった。