第六話 後日談
事情聴取は三時間ほどで終わった。
「うわぁぁぁん、涼ぉ」
僕を見つけた蜜姫は、走り出して僕に抱きついた。顔を涙や鼻水まみれにして、僕の胸板に顔をこすり付ける。口から漏れるおえつを押し殺していた。
「私、私ッ、涼が死んじゃったと思って怖かったんだからぁ」
「こらこら。かわいい顔が台無しじゃないか」
僕は普段なら絶対にいわないようなことをいった。いったとしても軽口だ。こんなふうに本気でいったことはない。でも、つい口に出してしまう。
そんな顔するなよ、と思う。
ふるえる子犬を安心させるように、蜜姫をあやした。とっとと泣きやめと思う。背中に手を回して、蜜姫を抱きすくめた。「はいはい、大丈夫だよ。僕はここにいるよ」
「うっうっ」と蜜姫は僕の服をつかんで泣いた。百六十センチと女子にしては長身の体が僕の両腕にすっぽりと納まる。悩ましい肢体だった。体つきはガラス細工のように華奢なのに、ししおきは豊かだ。柔らかい感触と甘い体臭。柑橘系の清楚なシャンプーのにおいもした。丁寧に整えられた黒髪。目尻に涙をためる姿は可憐で美しかった。
なんていうか。
むらむらくる。
かわいいぞ、ちくしょう。
いつもは高飛車で横柄な蜜姫でも、ふと見せる弱さが僕の庇護欲を誘うのだった。
日は暮れなずんでいる。
僕は家の前の道路で、女の子と抱き合っているという羞恥プレイを味わっているのだった。
蜜姫はすすり出る鼻水を僕の服でぬぐった。ポケットからハンカチを取り出して渡すと、「ちーん」と蜜姫は遠慮無しに鼻をかんだ。「んぐ」としゃっくりをあげる。そんなしぐさすらかわいくて、僕はぎゅっと抱きしめる力を強めた。
そういえばと、蜜姫の泣き顔を見て思いだす。結局、誕生日プレゼントは買えなかったような……。
バスジャックは不可思議な収束を迎えた。犯人は拳銃を持っているのに丸腰の女の子に追い詰められ、あっけなく気絶。通報を受けた警察によって僕たちは保護され、バスジャック犯は逮捕された。犯人に射殺された若い男の死体も警察に回収された。
犠牲は出たものの助かってよかった、とは思う。思うが、なにかが変だった。しっくりこない。あの解決の仕方は不自然すぎた。だが、少女の迫力は本物だった。華奢な体が二倍も三倍も大きく見えた。敵意とも害意とも違う強大ななにかが少女の周りに充溢し、バスジャック犯の青年を打ちのめした……そんなことがありえるのか? 疑問は尽きない。
事情聴取が終わった後、僕は少女から一枚の紙切れを手渡された。開けてみると少女のメールアドレスらしきものが走り書きされていた。メールアドレスの上には、「てまり」とも記されている。少女の名はてまり、と言うらしい。
「君とはまた会いそうな気がするよ」
少女は最後に握手を求めた。ほっそりとした滑らかな指だった。
「僕もそんな気がする」げんなりといった。これは予想ではなく予感だった。
「君は変なだ」
お前に言われなくない、と思ったが、「いいよ、変なで」と開き直った。「それで、一つ、聞いていいか?」
「なんでも聞きたまえ」
「なんで僕に話しかけようとしたんだ?」
「君、実は気づいていただろう?」
「……何が、さ」
「彼がバスジャックをやらかそうとしていたことさ。少なくともそんな兆しを感じていたのではないか?」少女は小悪魔のような笑みを浮かべた。
「……なんとなくではあったけど」僕は答えた。「僕の席はバスジャック犯のちょうど右後ろだったからね。男の不可解な挙動がよく見えた。それで漠然とした胸騒ぎがして、男がなにか大変なことをするつもりだって気づいたんだ」
「その委細を是非拝聴したいね」
「あの男はビニール袋から拳銃を取り出しただろう? 拳銃はアイスの箱に入っていた。それは君も目にしたと思う。けど、バスジャックだと名乗りを上げる前のあの男は、始終大事そうにビニール袋を抱えていたんだ。春とは言え、まだ肌寒いのに、アイスだなんて。そこでまず、違和感を覚えた。何よりバスジャック犯は目をきょろきょろさせて、宝物みたいにビニール袋を腹に押し当てて抱えていた。そんなことしたら、体温でアイスが溶けるだろ。ただのビニール袋を過剰なくらい大切そうにするのも変だし、ましてや挙動不審に辺りを見渡すから、これはなにかあるなって思ったんだ」
少女は目をキラキラさせて僕を見た。「やはり……私の目に狂いはなかった」感極まったように頬を高潮させる。「君は知的で冷静で、しかも探求者だ」
「探求者?」
「そうだ」
まっすぐな目だった。光り輝く双眸が僕を見据えている。僕は先刻のバスジャック犯みたいに動けなくなった。
体感時間が曖昧になった。一瞬が永遠になる。時間が飴のように引き伸ばされていった。時は今みたいに伸縮自在に伸び縮みするものなのか? と脳の片隅で考える。
視界の端に父さんの姿を捉えた。どうやら僕を迎えにしてくれたらしい。
それを感得したらしく、ぱっと手を離した。「幕切れのようだ。暇があったら連絡してくれると嬉しい」少女は颯爽と父さんの横を抜け、典雅に歩き去っていった。
最後の最後まで謎を残す。
結局のところ、少女の裏側は謎のままだった。
父さんはなにか聞きたそうな顔つきだったが、ふっと笑って、何もいわずに元来た道を戻った。黙ってそれに続く。
警察署の通路を突き進むと、淡い橙色の空が広がっている。
道端には赤い蕾つぼみを垂れ下げた花海棠がつつましく咲いていた。
◆◆◆
この話には後日談がある。
四月八日。
高校の入学式。
高校受験を突破した僕と蜜姫は、真新しい制服に身を包み、公立九重院くじゅういん高校の門をくぐった。
入学式が終わると、各々のクラスが発表される。僕は一年二組。幼馴染の蜜姫は一年三組だった。いよいよ小中に次いで、後三年間蜜姫と一緒だと思うと、妙な感慨にとらわれる。
磨かれた木目の廊下の先を行くと、目当ての一年二組の教室があった。蜜姫と別れ、くだんの教室に足を踏み入れた。教室内にいた人々がふっとこちらに目を向け、視線をそらす。黒板には座席表が張られていたので、それに従い、窓際の一番後ろの席に向かった。向かおうとした。
「まるでこの世の因果を司るなにかが特別にあつらえたかのような邂逅かいこうであるが、君はこの出会いに運命を感じるかな?」
鈴を振るようなよく通る声。それでいて、胸をかき抱くような不穏の気配を感じさせる。
僕は音源のほうに視線をやった。
少女。
理解が進むにつれ、脳が事の成り行きを把握し始める。まるで一本の線だ。この間の出来事と、今回の巡り合い。これはどうも、おかしな具合になってる。
僕の近くにまで歩み寄った少女は、チェシャ猫のように笑った。「迎火手毬」
「 昼歌涼」
互いが互いに名乗りあう。
肌があわ立つような、なんともいえないなにかが体の底から湧き上がってきて、鼻を抜け、霧のように拡散していく。ポンっと体の中で小気味良い爆発音がした。
「かわいい子だね。さっきまで一緒にいたのが、ひょっとすると君の彼女かな?」
「ただの幼馴染だよ。腐れ縁のね」
「私も君に奇妙な縁を感じているのだが」
「バスジャックで居合わせたやつと同級生だなんて、世の中もバカげてるよな」
「いや、猟奇的趣味、と言う意味でだよ」
「そういうのも含めて、バカげてると思うよ」
つかの間、得体の知れない沈黙が漂った。冷気のようなものが立ち上っている。
示し合わせたように、チャイムが鳴った。
少女――迎火手毬は名状しがたい表情をした。しかし、すぐに笑みを浮かべた。見るものを不安にさせる、楚々として艶麗な微笑だ。
僕たちは刹那、見詰め合った。
扉の開く音がする。
教室の扉から先生らしいのが入室してきた。
僕と少女は誰ともなく互いに背を向け、何も言わずに踵を返した。指定された自分の席に座る。
窓の外には白木蓮が上向きに花弁を向け、清楚に咲き誇っていた。
細い桜の枝に雀がとまっている。
僕は鳥のさえずりを聞いて、あえかなまどろみに沈んだ。