第五話 奇妙な結末
「いやね、席が前後だと話しづらいだろう? こうなってしまえば話すのがかなり楽になる。いい加減、あの姿勢では腰に悪いからね。それにしても、ひねったままの状態を維持していたせいか、腰が猛烈な痛みを訴えているよ」
少女は豪放磊落ごうほうらいらくに笑った。隣に座ってるから分かるけど、少女は思いのほか長身だった。肌は新雪のように白く、艶やかな髪は腰にかからんばかりだった。その肉体は優雅な猫を思わせる。
「君さ」僕は額に手を置いた。「頭大丈夫?」
「失敬な。私の脳はちゃんと機能している」と少女は見当はずれな返答をした。整った蛾眉がびをしかめる。「にしても、私と会話した者は必ずその言葉を口にする。どうも作為的なものを感じるね。続く言葉はこうだ。『いい精神科医を知ってるんだけど、今度紹介しようか?』。まったく、私のどこにそんな異常性が見られるのだろうか……?」
少なくとも、あれほど猟奇殺人鬼に通暁しているあたり、一般人の領域からはほど遠いように思えた。
「あのね。僕が言いたいのはそういうことじゃなくて……」
僕はへどもどしている。
「パンはパンでも食べられないパンはなにかわかりますか?」
バスジャック犯は二十代くらいの女性に問いかけた。女性は困惑しているようだった。
「ほら、早く答えてください。僕はもう暇で暇で仕方がないんですから。あなたも退屈を持て余してるんじゃないですか?」
「いや、私は……」
「早く答えてください」
「えっ、その……」
「答えてください」
彼は女性の腹に銃口を押し付けた。ひっ、と女性の悲鳴。女性は泣き笑いのような表情を浮かべ、おずおずと。
「……ふ、フライパン、かな?」
「敬語! 初対面の人には敬語を使うって国語の時間で習わなかったんですか!」
彼はさらに強く拳銃を押し付けた。女性は今にも卒倒しそうだった。
「ふっ、フライパン、で、す」
物音一つないバス内に蚊の鳴くような声が辺りに立ち消えた。
「違いまーす。答えは製造過程で異物が混入したパンでしたぁ」
三人目の犠牲者が出た。
彼は鼻歌を歌いながらバスの中を渡り歩いた。すっかり上機嫌になっている。彼の顔には歪んだ優越感と誤った自尊心がありありと見て取れた。
「これが力に酔った、と言うやつか」と少女は面白くもなさそうにいった。
それを目ざとき聞きつけたのか、彼は日本人形のように振り向いた。
バスジャック犯の彼はづかづかと少女のところまで歩み寄った。これはやばいんじゃないか、といまさらながら恐怖を覚える僕。
「あなた、さっきなんて言いました?」
少女は悠然と薄ら笑いを浮かべるのみだった。
「……王様じゃないんだから、僕の質問に答えてください」
「その銃、確か八発まで装てんできるタイプのものだろう? 違うか」
彼は少女の眼力にたじろいだようだった。「そっ、それがどうしたんですか」
「やはり、そうか……で、青年」少女はバスジャックの彼を一瞥した。つまらなさそうに窓外の景色を眺め見る。「いつになったら私たちを解放してくれるのだ? もう私の目的地の場所は過ぎてしまったぞ。このままでは今一度、Uターンを敢行しなければならないのだが……」
バス内が嫌な静寂に包まれるのを感じた。爾後、小さなざわめきが拡散する。
バスジャック犯の彼は目を見開いて少女を見た。それもつかの間で、いつもの頼りなげな表情になった。
顔を俯ける。彼は拳銃を握ってないほうの手で顔を覆った。
やがて。
「誰に言ってるんですか?」やけに声調の低い、木枯らしを思わせる声だった。呻くように体を痙攣させる。
「いい加減バスに揺られるのにも飽きたものでね、ちょっと疲れてしまったよ。外の新鮮な空気を吸いたいものだ」
さりげない、静かな口調だった。ゆったりとした姿勢で座席に座っている。少女は従容しょうようとしていた。
しかし、彼から見れば少女の言葉も姿勢も、自分をなめているようにしか思えない。
彼はゆっくりと顔を上げた。先ほどの控えめな笑顔は鳴りを潜めている。目の奥の光は失せ、唇は紫色になるまで噛み締められている。拳銃を持つ手はカタカタと振動していた。
「……あなたも……僕を劣った存在をして見るんですね……誰かが僕のことを笑っている……乗客の皆さんも僕のことを陰で笑ってるんでしょう? 友達もいない、恋人もいない……ましてや、家族にも見放された、存在価値のないこの僕を……。ねえ、そうなんでしょうそうに決まっている……だからあなたも、そんなことが言えるんだ……僕のようなクズが拳銃なんか持ってても、宝の持ち腐れとでも思ってるんでしょうね……ほっといてください……僕を貶めないでください……誰か助けてください……僕はもうダメです……憎い……全てが憎い……視界に入る全ての人間が憎くて憎くて仕方がない……」
訥々とした独白。
明らかに隙だらけだった。彼は一部の乗客に背を向けているし、おそらく拳銃のことなど、もはや、頭から放念していることだろう。だが、彼の壮絶な悪意、恨みが乗客を戦慄させ、本当の意味での恐怖を覚えさせた。一人として立ち上がるもの、立ち向かうものもいなかった。ひたすらに、憎悪と怨恨に満ちた独白が終わることを切々と祈っていた。
ただ。
少女だけは退屈そうに窓の外を見ていた。感情のこもっていない視線だった。
彼は少女に拳銃を突きつけた。声にならない悲鳴。慄然としたものが流れる。それでも少女は飄々と、向けられた拳銃を瞥見した。「醜いな」
「……は?」
「醜いといったんだ私は」すっくと少女は立ち上がった。
バスが停車した。
少女は一歩、バスジャックの彼に近づいた。後退する彼。足が震えている。焦点は定まっていない。両手で拳銃を握っているのに、なぜか銃身が異様にガタガタと揺れていた。彼は歯茎をむき出しにして歯の根を鳴らしていた。目には怯えの色が混じっていた。
さらにもう一歩、少女は前進した。示し合わせたように、彼は一歩後退した。二人は通路のほうに出た。
異様な空気がバスの中を包み込む。
少女は無言で彼に迫った。冷然とした瞳が一直線に彼を見据えている。目をそらすことはできない。魅入られるように少女の目を見ていた。しかし、拳銃の引き金に添えられた指が動くことはなかった。ぎこちない動作で後ろに下がる。でも、十歩ほど退いたたところで、もう後進できないことに彼は気づいた。背後には運転席を仕切る壁があった。
彼の顔にはねっとりと脂汗が浮いていた。少女との距離は指呼しこの間だった。
「後一発、残っているはずだろう? 撃ちなよ。その引き金、引いてみるといい」
「あっ……あぁ……」
魂が抜け落ちたような呻き声を発して、彼はへなへなとその場にくず折れた。嫌な臭気がバス内に漂った。股間の辺りが濡れている。彼はどうやら失禁したようだった。
少女は屈んで青年の手から拳銃を引き抜いた。興味深そうに拳銃の隅々を眺める。ついでに倒れこんだ青年も見た。それで一気に興が殺がれたのか、無造作に拳銃を後ろに放った。すたすたと運転席のほうに向かう。少女は事態を呑み込めずに呆然としている運転手を尻目に、清算箱に小銭を入れた。
「通り過ぎてしまったが、確か酒井駅前までの運賃は三百十円で合っていたかな?」
運転手が恐る恐る首肯すると、少女はポケットから携帯を取り出し、警察を呼んだ。