第四話 猟奇的提案
「にしても、最近の世の中はずいぶんと物騒なのだね。怖くて外も歩けないよ」
女の子はこれまでの言動とは打って変わって、ひどく常識的というか、世人が朝の挨拶代わりにするような話題を切り出してきた。
少女のいうとおり、世の中は明らかに荒廃しているように思えた。豊かさを享受し、設備の整った現代社会、人の心は逆に病み、荒れ果てている。豊かさとは反比例して、人の心は邪悪に染まりつつある……。暗黒面の露出した現代ってやつだ。
現に目の前の光景がそれを証明している。「そりゃ、僕たちの状況を省みれば容易に分かることだよ」
「ついに八人目の被害者か? 近畿地方を中心に暗躍するのは、若い女性を誘拐し、解体した遺体を黒いビニール袋のゴミ袋について放棄するという邪悪な悪魔。残虐な手口はかのゴミ袋詰め殺人鬼トラッシュ・バッグ・キラーの再来か? なるほど、社会は確実に病んでいるのだろうな。ふふふ、こわいこわい」
どうやら少女は新聞を読んでいるらしかった。紙面の一部を朗読している。窓ガラスに新聞紙に目を通す少女の横顔が映って見えた。
「……本当に君ってやつはのんきなもんだね」僕はあきれ果ててもののいえなかった。
噴飯物だ。どうしてバスジャック中に新聞を読む人間がいるだろうか? それも連続殺人鬼の記事を、だ。頭の致命的な部分がイカレているとしか思えない。突出している。胆力に優れている、というわけではない。何か、底知れない狂気を感じさせる。
「君も日本社会に生きるものの一人だろう? この日本で、何かが狂い始めているとは思わないか? その兆候と言うか、前触れとも呼べるものが、さ。感じるだろ? 肌身で、その悪意を、その害意を、その殺意を……」
「こうして実体験してるわけだしね。そりゃ、感じるさ」僕はちらとバスジャックの青年を盗み見た。青年は楽しそうに口笛を吹いていて、こちらに気付いてはいない。僕はほっと胸をなでおろした。……いちいち少女の言動にひやひやしている自分がいるのを感じる。「というか、君はまず目の前のバスジャックに関心を向けたほうがいいぜ」
「そういう考え方もあるのか」
「そういう考え方しかないだろ」
「なるほど。一本取られたよ」少女は楽しそうにくっくと笑った。
いい加減こんな目立つことをしては、いずれバスジャックの青年に見つかってしまうだろう。むしろ見つからなかったのが奇跡だ。
僕は絵巻物のように流れる窓外の景に視線を流した。外の光景は平和そのもので、バス内の緊張とは程遠い。牧歌的とも見える静穏な街並みだった。
僕は頬杖をついて、ふと先ほどの少女の言を想起した。
ゴミ袋詰め殺人鬼トラッシュ・バッグ・キラーというのは一年ほど前から騒がれだしたシリアルキラーの俗称だ。ゴミ袋に解体した死体をぶちこんで、適当に放置するという意匠の凝らした手法でちまたの脚光を浴びている。現代の闇を象徴する、凶悪な殺人鬼だ。
「まったく、パトリック・カーニーじゃあるまいし……」
「なッ、パトリック・カーニーだと?」
何気なくつぶやかれた僕に、少女は過剰に反応した。なんとも素っ頓狂な声を上げた。
「もしかして君、かの同性愛連続殺人鬼パトリック・カーニーを知っているのか?」
僕は知らず知らずのうちに眉をひそめていた。「なんだ。知ってるの? カーニーのこと」
「『人を殺すことは究極のスリルと興奮だ。それは他人の生を支配できることの快感だ』、だろう?」少女は得意げに有名な一節を口にした。そして興奮したように息を荒げる。「まさか、パトリック・カーニーを知っている人がいるとは思わなかったよ。私は今、にわかに高揚しているようだ。ふふ、私はこう見えても、猟奇とか殺人とか、その手の造詣はそれなりに深いつもりでね。狂おしい限りだよ。殺人に一種のゲーム性を付与した彼ははたして、善なのか悪なのか……。先刻の言葉を聞いた遺族は、はたしてどのような感情を抱いたのだろう、なんて妄想を授業中だとか、食事中にしてるんだ。そして穏やかに推移していく日常と対比して、なんて私は狂っているのだろうと思うわけだよ」
「それは僕も、だよ。パトリック・カーニーなんて名前、普通の人はまず知らないからね」
少女の目がガラスに映る。
水晶球のように澄んでいて、穢れのない黒瞳こくどうだ。そいつが僕を見つめる。爬虫類のように体温を感じさせない視線。
少女は僕の資質を試すように、とある質問を投げかけた。「君も、そうなのか?」
僕はやおら、うなづいた。
ぱぁーっと花が咲くように、少女の顔に笑みが広がった。頬は薄桃色に高潮し、唇が嬉しそうに緩んでいる。とても魅力的で、妖しげな表情だった。
少女はまくしたれるように持論を展開した。
「これは私の推察だが、彼ほど愛に葛藤した殺人気はまれだと思う。カーニーは実に三十人近くもの若者の命を奪ったのは君も知っているだろう? では、同性愛者のカーニーには恋人のデヴィットっていう男がいたのは? デヴィットは同性愛連続殺人鬼カーニーを語るうえでは外せないファクターでね、思うにカーニーが真に殺したかったのは恋人のデヴィットではないか? と私は考察してるんだ。殺したくても殺せない相手がいるので代理となる人間を殺していく、というのは連続殺人鬼の多くに見られる心理だからね。興味深い話だとは思わないか? しょせんコインの裏表に過ぎないアンビバレンスな愛憎を垣間見ることができるようで、なんとも狂おしい気分だよ」
一息に言い切った少女は、僕の反応を待つようにそっと上目遣いをする。
僕は合いの手を入れた。
「その点、エド・ケンパーにも共通項を見出せる。だろ」
「……君は本当にいい趣味をしているね。確かにエド・ケンパーはそういう手合いだ。それも真に殺したい対象が母親と言う点が面白い。近親憎悪にも似た感情。エド・ケンパーの母親は高圧的で常に息子のエド・ケンパーをさいなんでいたからね。それが積もり積もって、女子大生を殺害し、首を切り落とし、そして首のない死体を陵辱するという異常な欲求をはぐくんだのさ。そして、持ち帰った首は自分の部屋の戸棚にしまっておいて、時々話しかけたというじゃないか。ふふ、想像するだに滑稽で、悪夢的だ。そしてついには諸悪の根源である母親をも殺し、同様に首を切断。肉界と化した実の母の遺体を陵辱した……。あくまで代替行為でしかなかった女子高生殺しが一つの終焉を迎えたわけだよ。そしてケンパーは自首し、現在もアメリカの刑務所で刑に服している……」
こいつ、真性の変態だ……。
僕は彼女の多弁に押されながらも、そんな感想を抱いた。
「にしても、ここまで趣味が合ったのは初めてだよ」少女は微笑んだ。
「はは」
僕は苦笑いした。
「あのぉ」
と。
気後れした声。
「なんでそんなに余裕なんですか?」
それはバスジャック犯の声だった。
◆◆◆
少女との会話に熱中していたせいか、気づくのに時間がかかった。
バスジャック犯の彼は、不思議そうに僕と少女を交互に見比べている。右手には勿論、拳銃がある。華奢で細い指が拳銃のグリップを掴む様子は不安定、という言葉を想起させた。見てるだけでも危なっかしい。
「ずっと前からあなたたちのことが気になってたんです」バスジャック犯の彼は小動物を思わせる瞳で僕と少女を見た。
一方の僕と少女はきょとんとした風に互いの顔を見合わせた。双方ともバスジャックのことを失念していたらしいことに思い至ったのだ。
彼は左手で吊り革につかまった。右手はだらりと下がっている。「あなたたちがなにかを話していたことは見えていたんです。ひょっとしたら僕から拳銃を奪おうと計画しているのかもしれないし、僕の無残な経歴をあざ笑っているのかもしれない。あるいは社会不適合の僕の私生活を予想して、そのさまを笑っていたのかもしれない。そんな想像が頭をめぐったんです。けど、どうやらそうじゃないみたいなんです。なんと言うか……あなたちはほかの人たちと違って、恐怖していない。僕の手には拳銃があるんだし、実際に人が二人も死んでます。僕が怖くないんですか? まあ、こんな僕がバスジャックしたところで怖くもなんともないとは思いますが……」
「こ、怖いですよ」僕はいたたまれなくなって、ついついフォローを入れてしまった。「メチャクチャ怖いです。人殺しぃ、って思います」
「そうなんですよ。僕は人殺しです。引き返せないところにまできてしまったんです」彼は陰鬱な表情をした。さっきの表情を鳴りを潜め、再び鬱状態に突入したらしい。
僕はどうしたらいいものか迷った。下手に刺激したら危険なのは分かってる。かといって現状維持と言うのも……。だったらどうしたらいいのさ?
彼の背中越しに見える乗客たちは、盗み見るように僕たちの様子を観察していた。顔面蒼白で、涙を浮かべている人もいる。早く開放されたい。乗客たちはなんだか懇願するように僕と少女を見た。この状況を好転に導いてくれ、と言っているようで気が滅入る。乗客たちはバスジャックが行われている中でも、融通無碍に話し込む僕たちに一筋の光明を見出したらしかった。
「あなたは僕が怖いと思いますか?」
「そ、そうですね……なんていえばいいのかな……? 不気味? そう、不気味! 前髪が異常に長いところとか、なよなよしてるところとか、拳銃の扱いに不慣れなところとか……そういう得体の知れない不気味さが最高にクールですよ」
「はあ」
彼はまんざらでもない顔をした。後頭部を掻いて小さく笑っている。僕は占めた、と思った。もう少し彼の懐に入れれば……。
と。
「一つ提案があるのだが」
転瞬、バス内の空気が一変した。みんな救いを求めるように少女の言に耳を澄ましているのが分かった。おおっ、もしかしてやってくれるのか? 乗客の期待が頂点に達していた。
提案。
しかし、少女の言う提案は僕たちの予想していたものとは大きく乖離していた。
「彼の隣の席に座ってもいいだろうか?」少女は僕の隣の席を指差した。