第三話 理不尽
これまでの人生経験において、バスジャックに巻き込まれたのは初めてのことだった。
バスジャックと言うものはテレビの中のできごと、と言う認識が強かった。自分が巻き込まれるはずもない、と思っていたのが裏目に出たのか、僕はごくあっさりとテレビの中に迷い込んだ。
日常に非日常が混ざり合う。
非日常に日常が混ざり合う。
このままじゃあ、蜜姫の誕生部プレゼントを買いに行くのは難儀しそうだ。
「生まれてこの方いいことなんて一つもなかった。母親は勉強しなさいってヒステリックに怒鳴るし、父親は帰ってこないし、登校の初日からいじめられるし、友達なんて一人もできなかったし、好きだった女の子からキモイって言われるし、あれだけがんばったのにS大学に四回も浪人するし……僕の人生、不幸の連続です。もう嫌です。こんな人生、もうこりごりです。ですから皆さんにはご迷惑かと存じますけど、一念発起してバスジャックすることを決意しました」
大学生ではなく浪人生だったことが判明した男は、滔々(とうとう)と己の不遇を語った。
男の過去よりも手に持ってる銃のほうが気になる乗客は、戦々恐々としながら事態の趨勢を案じていた。手を合わせている人もいる。みんな極度の緊張とある種のあほらしさに耐えかねているようだった。
「おやおや。なんとも悲惨な人生を送っているようだね、この青年は」女の子は面白がるようにそんなことをのたまう。「どうやらこの窮状から脱却するには、もうしばらくの時間が必要みたいだ」
「怖くないのか?」僕は女の子が余りに余裕綽々といったふうに物言うから、そう聞いてみた。
「それほど怖くはないね。怖いというのは、こちらの理解の範疇を超えた対象に抱くものだ。その点、あの男の言い分は理解できるし納得もできる」
「銃は?」
「羊が牙を持ったら怖いと思うかい?」女の子は酷薄な笑みを浮かべた。「むしろ滑稽だと思うだろう?」
バスは相も変わらず重苦しかった。犯人の甲高い多弁が空間を支配している。乗客たちは時折仲間と目を交し合ったり、犯人にばれないようため息を漏らしたり、俯いたりしている。
「その牙を引っこ抜く気はあるのか?」
「おいおい、こう見えても私はか弱い乙女だぞ? いくらなんでも、大の男と腕力で勝てるはずもない」
「だったら」僕は一通りバス内を見渡した。おのずと口角が弧状を描く。「それ以外のもので上回ればいい」
「……というと?」
「知力」
女の子は興味深そうに目を細めた。飛ぶ鳥を射落とすような炯々とした光輝だ。「なにかいい案があるのかい?」
「ない」とこともなげにいった。
「……それは残念だ」
呆れたような声だったが、どこか楽しそうだった。邪気がない。だが、異常だ。箍が外れている。再三注意したはずなのに、一向にお喋りをやめる気配がない。この見ず知らずの少女は自分が殺される可能性を考慮していないのだろうか? ま、少女の多言に付き合う僕もどうかと思うけど……。
「それにしても、袖摺りあうは他生の縁とはこのことを言うのだろうね。私は今、いるはずもない神様とやらに感謝しているところだよ」
確かに、と思った。こんな特異な状況下でこうも話に花が咲くものだろうか? と言うより談話だ。くつろいでいる。僕と彼女は今、家のソファーで語り合うように肩肘張らず、和やかに歓談していた。
「ところで、君はどこに行こうとしていたんだい? この狂態がなかったら、さ」
「ちょっとね、友達の誕生日プレゼントを買いにね……。君は?」
「これはまた、うらやましい限りだ。私も誕生日プレゼントをあげるくらいの友達がいたらいいのだけどね……。そう言う私は両親と面会しにこのバスに乗ったんだ」
面会、と言う言葉に違和感を覚える。
面会……?
家族と会うときに使う言葉か、それ? 僕は端無く思索を巡らせた。「ひょっとして……刑務所にいるのか? 君の親」
少女はもってのほかと言わんばかりの表情をした。「とんでもない。私の両親は双方ともにいたって正常で、日常に埋没することに至福を覚える人たちだよ。刑務所にいるなんて、天地がひっくり返ってもありえないね」
「何をやってる人たちなんだ?」
「安月給のサラリーマンにアイドル狂いの専業主婦さ。呆れるくらい普通だろう?」
「そう言う君は普通を毛嫌いしてるように聞こえるぜ」
それはどうだろうね、と少女は目を吊り上げて笑った。
カタカタカタ、と誰かの貧乏ゆすりの音が耳に入ってくる。前方の男性からだ。その男性はハゲ一歩手前だというのに、やたらめったら頭をかきむしっていた。カタカタと言う音と、ガリガリと髪の毛が抜けていく音がした。追い詰められたような顔をしている。
「しっ、静かにしてください。運転手さんと話ができないじゃないですか!」
バスジャック犯は男のほうを見ずに運転席から発砲した。男はぐらりと揺れて、床に倒れこんだ。当たり所が良かったのか悪かったのか、男は即死することなくたまぎるような悲鳴を上げ、芋虫のように身をくねらせた。着ていた服がめくれて肥えた腹部がじゃばらのようにうねりだす。男は着弾した胸のあたりをかきむしった。こういってはなんだか、血が面白いくらいにあふれ出している。
脂汗のしたたる顔は今にも悶絶しそうで、「ひゅーひゅー」と死にかけの虫のような息をしている。
男の周囲にいた人たちは席から立ち上がり、男の無残を憐れみ、そして理不尽な暴力に震え上がる。カーテンに頭を押し付け、涙を流した。
「あっ、あっ、あっ……」
まるで引き付けを起こしたようにしゃくりあげるバスジャック犯。転げまわる男と拳銃とを交互に見比べ、わなわなと震えた。
「すっ、すみません。撃っちゃったりして、本当にすみません。謝ります。でも、あなたがうるさくしたからいけないんですよ。あなたがうるさくしなければ僕もあなたを撃つことはなかったんですから。あなたがいけないんです。ここの支配者が誰だか分かってるんですか? 殺されたいんですか、あなたは? いい加減にしてくださいよ!」
バスジャック犯の彼はなぜか逆切れをして、何度も銃の引き金を引いた。男の体に銃弾が埋め込まれるたびに、男の生命力が低下していくのが分かった。
「まったくもう、これだからハゲは手に負えないんですよ。あなたは集団行動をご存じないんですか? 一人でもほかとは違うことをしたらいけないんですよ? ほら、皆さんはあなたと違ってきちんとお口チャックが実践されてます。静かにすることは社会を生きていくうえで基本的なことです。それでもあなたは集団の和を乱す気ですか!」
男からの返事はない。