第二話 運命
乗客の間には息の詰まるような沈黙が立ち込めていた。身動き一つする人もいない。黙って顔を俯け、災難が早く去るのを待っている。
バスジャックも銀行強盗も、突き詰めれば自然災害と同じだ。意図的に回避することなんてできやしない。仮に出遭ったとしても、漫然と災いが通り過ぎるのを待てばいい。それが一般人の処世術。
個人の罪の多寡、日ごろの行い、人格の良し悪し、一切関係ない。
災いは唐突に、嵐のようにやってくる。
乗客の脳裏を掠めたものは、大体そんなものではないのか?
「すみませんすみません。みなさんにこんな僕みたいなダメ人間に付き合っていただいて、本当にすみません。けど、これが僕にできる最後の対抗なんです。つまらない人生に花を添えたいだけなんです」
大学生風の男はしきりに申し訳なさそうに頭を下げた。長い前髪がばさっと音を立てて男の額にかかった。
「これから僕は警察に一億円くらいのお金を要求します。僕はもう疲れました。勉強、勉強、それの繰り返しで人生嫌になりました。努力も報われません。僕はもう二十二歳になります。でも、一度として大学に受かったことがありません。友達と喫茶店でお茶したことも、女の子と手をつないだこともありません。僕はクズです。ごみ野郎です。だから、こんなことするんです」
鬱々としたわめきだ。バスジャックの彼ははしきりに呪詛の言葉を吐いている。
投げやりな気分で窓の外を見た。気鬱だ。よりにもよってバスジャックに遭うなんて、僕は呪われてるんじゃないのか? こうなるなら一本分遅れて乗車するべきだったか、と思ったが、乗車する際、滑り込むようにバスのドアに駆け込んだりしたので、是非もない。下手をすれば乗り遅れていた。その結果がこうなら、甘んじて受け止めるしかないじゃないか。
と。
「まさか、春休みの真っ只中にバスジャックとは……平和ボケした日常を適度にかき乱してくれる刺激的なサプライズだと私は思うのだが、君ははたしてどう思う? どう解釈する? さて、あんまりだと思うか? 不条理だと思うか? ……もっとも、君がこの状況を不条理だと感じるのなら、君の歩んできた人生はよっぽど幸せで、不幸から程遠いものなのだろうと私は受け取るがね」
前方から声がした。
前列の席からだ。
声質は女。それも若い。僕と同年代……? この非常事態でそれだけの量の言葉を、それもはきはきとした口調で言えるのは只者ではないな、と僕は一驚を喫した。
事実、只者ではなかった。
只者であるはずもなかった。
女の子は首をひねって、窓と座席との隙間に顔を寄せた。窓ガラスに女の子の顔が映る。翡翠の羽のような黒髪。顔つきは凛然としており、冷たく切れた双眸は強靭な意志を宿しているように見えた。「それ、僕に言ってんの?」
「君以外に誰がいるのかな? それとも、私がエア友達との会話に汲々とするかわいそうな女の子、とでも映ったのかい?」いたずらっぽく笑う顔は小悪魔という言葉を連想させる。人の一生をあっさりと狂わせる、妖花の微笑だ。「言っておくが、エア友達は小学校と共に卒業した」
「虚しい六年間を過ごしてきたんだね」汽笛の音がする。カモメが水面の上を滑空したのが見えた。「僕と一緒だ」
「それは奇遇、と呼ばずにはいられないな。生まれてこの方、生身の友達と言うのを知らないものでね。私は今年で高校生になるのだが、いまだに友達らしい友達がいないのだよ」前述の言とは裏腹に、どうやら小学校を卒業してなお、この子には友人がいないらしい。逆にすごい、と僕は感動すらした「ふむ、親近感とはこういった感情のことを指すのか……。段々と人間らしくなってきた、と言う実感が湧くね。私も人間と言う神秘に近づいた気がするよ」その言い方はまるで、自分は人間ではない、と言っているような口ぶりだった。人間ではない、と言う部分が少女の異常な性格等に起因するのなら、頷けないこともない。どうしたってこの子は、緊張感であるとか、危機感といった生物としての重要な感応が欠けていた。
「とりあえず」僕はとある提案を少女に持ちかけてみた。「ここは黙ってたほうがいいんじゃないかな」
「なぜ?」少女は不思議そうに僕を見た。
「なぜも何もないと思うけどね。下手をすれば殺されるかもしれない。だろ」当たり前の帰結。周囲の人たちも僕と女の子を恨めしそうに睨んでいた。幸い、犯人は気づいていない、と思うし、そう願う。くだんの男は運転手に向かって、市中を回送するよう指示していた。
「では聞くが、あのような小心翼翼と縮こまって人生を過ごしているような人間に、真っ向から人を殺す度胸があると思うかい?」
「手酷い人間批評だね」僕は彼女の観察眼に興味を持った。「それで?」
「先ほど、バスジャック犯の彼は成人男性の一人殺害したが、あれはいわば突発的な事故。意図した殺人ではなく、カッと頭に血がのぼっただけ……そうして、自分がいかにとんでもないことをしたのかをあとになって強烈に後悔する。でも、止まることはできない。行き着くところまで突っ走ってしまう。そして……破滅する。彼はそういう人間なのだろう。そんなぬるい人間に、人が殺せるか、どうか……」
「でも、さっきみたいに突発的な事故――だっけか? それで殺される可能性もあるんだろ。君はそれを勘定に入れてないぜ」僕は目下の疑問を口にした。
「あ」
少女は今気づいたみたいな顔をした。
僕はなんとも言えない気分になる。
「そうならさ、何で君は黙らないのさ?」
「どうせ殺されるような予見が私にはあるからさ」一転して、息を吹き返したように女の子は明朗快活に答えた。「どうせ死ぬなら、めいいっぱい喋っておきたい。死んでしまったら全てがおしまいだろう?」僕を見た。完璧な論理だ、打ち崩せまい、と豪語しているようだった。「ひょっとしたら、これが言葉を発する最後の機会になるかもしれないからね」
女の子はウインクして見せた。
現状と遊離している。
そう思った。
一種の極限状態の中、こう普通にウインクして見せる女の子の精神は異常だ、と思った。少女の胸に不安はないのか。恐怖はないのか。
あるいは。
それはむしろ、好奇心と呼ばれる情動ではないのか。
「僕は殺されない可能性に賭けることにする」
「死にたくないから?」女の子はそう尋ねた。
それは乗客全員が共通して持っている願望ではないのか。「じゃあ聞くけど、君は死にたいのか?」少なくとも僕にはそう聞こえた。
「違う」と女の子は僕の質問を否定した。「私はこう見ても運命論者でね。万人にはそれ相応の、運命のような抗えないなにかがあると思っている」それは僕も同感だった。偶然と認識した事態も積み重なれば必然みたいに思えたりする。
点から線への転換。
それが運命っぽいなにかの正体だ。
「終着点は死、と言う解釈でいいかな」
「相違ないだろう」少女は断言した。「それで私たちは死というろくでもない終着点に向かっているわけだが、そのレールはおそらく、初めから決まっている」まるでとっておきの秘密を暴露する童子みたいな顔つきだ。こんな無邪気な顔をするやつを僕は見たことがない。「ならば、ここで死ぬんなら死ぬで、自分はその程度の人間だった、と考えるわけさ」
単調な律動。
バスは変わりなく一般道を通行している。
「逆に言うなら」と僕は前置きをして、「逆に言うなら、ここで生き延びることができたら僕は、それ以上の人間だった、と考えてもいいのか?」といった。