第一話 始発
世界よ、凍結せよ
◆◆◆
やたらと水が多い。
海の第一印象はまず、そんな感じだった。
あたりいっぱいに水がある。並々とある。おいおい、どれだけあるんだよ、と幼少期の僕は海の神秘に困惑し、少しだけ魅了されもした。
さしずめ、バカだった。
無知と言うのは恐ろしい。小さいころの僕にとって、海は何もかもを飲み込んでしまう地獄の入り口のようなところだった。生粋のカナヅチだったからか、なおさら嫌いだった。西日の沈む海は幻想的というよりも、不気味で世界の終わりを予感させるものに見えたのだった。
今となっては、H2Oの集塊に過ぎない。神秘性を剥奪された海は、もはや、ただのH2Oの集塊でしかなかった。
四月五日。
羽之宮市
春。
桜の映える季節。
バスは規則的なリズムでガタンゴトンと車体を揺らしている。
窓の縁に頭を預け、目を閉じた。
なぜ、僕はバスに乗っているのか。
思い出す。
「四月一二日と聞いて、なにか思い出すことはない?」
そして幼馴染の蜜姫は何気ない風に切り出した。
今から二日ほど前に遡及する。
僕は勉強の手を休めて振り返った。
蜜姫は僕のベットにねっころがりながら、漫画を読んでいた。棚に並べてあるものを拝借したらしい。僕に対して背中を向けている。表情は読めない。
「なんだよいきなり」僕は彼女の背中に声をかけた。
蜜姫は押し黙っている。
その背中が切々となにかを訴えているように見えた。
いよいよ夜は更けてきたらしく、開け放たれた窓から肌寒い夜気が忍び込んでくる。夜風だ。もう春だというのに、いまだ冬の寒さを含んでいる。
僕は壁にかけられたカレンダーに目を向けた。四月のやつだ。
む? と思った。
蜜姫が言う四月一六日の部分に大きく丸がしてあった。赤いボールペンだ。書いた覚えなんてないのに、気がついたらカレンダーに記されている。その赤い丸が白々しいほどに自らの存在を誇示していた。
今から一週間後の日だ。
そしてふいに、着想を得た。なるほどな……と蜜姫の真意を理解する。
僕はいった。「誕生日プレゼント、何がいいんだ?」
蜜姫の背中がびくっと痙攣した。
どうやら当たりのようだった。
漫画を手にしたまま、蜜姫はそっと体を転がした。恐る恐るというふうに僕を横目で見やる。いすに座っている僕と視線が絡むと、慌てて視線を漫画の紙面に落とした。体を縮こまらせて、漫画で顔を覆う。蜜姫は切なげにうめいた。「涼ぉ……」
「うめくな気持ち悪い。そんな声で僕の名前を呼ぶな」
「だってあんたッ、今まで全然気づいてなかったじゃない!」
上体を起こした蜜姫は烈々とした舌鋒を僕に向けた。勝気そうな瞳がかっと仁王像のように見据えられる。
「そんなに怖い顔すんなよ。きれいな顔が台無しだぜ」
「よりにもよって、長い付き合いの幼馴染の誕生日を忘れるなんてひどいじゃん!」蜜姫は僕の軽口を無視して、赤ん坊のようにばたばたしている。「しかも気付くの遅かったしッ」
僕は頭をかいた。
柱時計が午後九時を告げている。
「じゃあさ、カレンダーにしるしつけたの、蜜なの?」
「あったっまえじゃん!」蜜姫の手には赤いボールペンが握られている。「あんたもねぇ、ちょっとは意識しなさいよッ」
「分かった。分かったから、蜜はなにがいいんだよ」と僕はなだめるようにいった。「誕生日プレゼント」
「とにかく値の張るやつ」
「え?」
「とにかく、値の張るやつ」
蜜姫は満面の笑みを僕に向けた。
わずかに開いた窓から潮の香が匂ってきた。
海が近いらしく、潮騒の音がかまびすしい。
今思えば、蜜姫のいいたいことも分からないではなかった。確かに僕と蜜姫の付き合いは長い。幼稚園の頃からずっと一緒だ。それも家が隣同士だから、屋根をつたっていけば部屋に侵入することができる。蜜姫は暇さえあれば僕の部屋に出入りしていた。
誕生日。
蜜姫がそういうことに存外うるさいことを僕は忘れていたのかもしれない。誕生日だとか、クリスマスだとか、元旦だとか。
長い付き合いだからこそ、記念日に疎くなるってこともある。
プレゼントは何にしようか、とちょっと悩む。
今になって蜜姫の好みとか趣味だとかはほとんど知り尽くしている。でもいざ蜜姫が欲しがりそうなものとなると、どうにも思いつかないのだった。
かといって誕生日プレゼントなしとなると、蜜姫は怒るだろう。蜜姫はどうも、毎年の僕からの誕生日プレゼントを楽しみにしている節がある。
埒もなく、僕は密姫のために街に繰り出すことにしたのだった。値の高いやつとなれば、近場のマーケットよりも電車で行った先の中心街のほうが品がいいだろう。買うかどうかはともかく、偵察にいかねば。
後二十分も揺られれば街の中心街に着く頃合だ。
どことなくぴりぴりとしている。
バス内の雰囲気は切迫感を孕んだものとなった。
誰も言わない。
誰も話さない。
誰も喋らない。
「す、少しでも変な動きをしたら、ううう、撃ちますからね」
さえない面をした大学生風の男は、半狂乱になって拳銃を振り回した。
なんてことない。
僕たちはバスジャックに遭っていた。
◆◆◆
バスの床には二十代くらいの男が倒れ伏していた。背中からどくどくと泉のように血が湧き出している。
ちょうど住宅街を抜けた頃だっただろうか。バスが停車するのを見計らって、大学生くらいの男がビニール袋を漁りながら通路のほうに出てきた。何事だろうと注視していると、ビニール袋に入っていたアイスの箱の中から鈍く光る拳銃が出てきた。
そして。
「すみませんすみません。本当にすみません」
青年はわけの分からないことを口走った。針金のように細い体。毛糸のほつれたセーター。前髪は目にかかるくらいに長く、拳銃を持っている手は小刻みに震えていた。黒光りする拳銃の獰猛さと、なよなよと体を揺らしている青年との組み合わせがアンバランスで、なんとも異様だった。
一瞬、冗談だろ、といった空気が流れた。青年の場違いな言動に困惑した乗客たちの間には、どこか小ばかにするような雰囲気すら漂っていた。薄い笑みを浮かべているものもいる。
それを感得したのか、青年は神経質にびくっと体を痙攣させた。「ぼ、僕は本気です」と青年は目をひん剥いた。
「お、それ本物なの?」どこか茶化すような声がした。青年のすぐ近くに座っていた若い男が立ち上がり、ニヤニヤとした笑みを青年に向けた。
「ほ、本物です」青年は目を泳がせた。拳銃を持っていないほうの指がカタカタと鍵盤を叩くようにうごめいている。
若い男は笑みを崩さない。「それで、そのおもちゃで何すんの? バスジャック? うわ、気取ってんなあ、おまえ。気取ってるよ」
「やめてくださいやめてください。そんなこと言わないでください。僕は気取ってなんかいません。僕は本気です。気取っていません。殺しますよ」
「だったら殺してみろよ」
バスが急発進した。
若い男は体勢を崩した。足を滑らせた。転んだ。条件反射で手をつこうとしたが、座席の肘かけに頭を打ってそのまま動かなくなった。
青年は拳銃の引き金に手をかけた。無造作に伏し倒れる男に向けた。撃った。男の息はじきに途絶えた。
さーっと血の気が失せていくのを感じた。
「あなたが悪いんですよ。僕を怒らせたからいけないんです。僕に罪はありません。悪いのは全てあなたです。すみません」
早口にまくし立てた青年は、よどんだ眼差しを乗客に向けた。
以後、バス内は静かになった。