アフロディテ
陽炎立つ空気が名残に惜しげにけぶる。
政実は西日が差し込む廊下を一人歩いていた。
窓の外の空気は、未だざわざわと落ち着かない様子で、はっきりと感じ取れないその喧騒がここの異質さを一層引き立てている。しかし、直に異質さは影を潜め、夕闇に紛れるだろう。
時刻は五時を回ったころ。秋の空気を孕んだ陽光が注ぎ込む廊下は、しんと静まり返っている。反響するチャイムの音までも、まるで薄曇りの空のようにその存在を殺していた。
そんな別館三階、芸術棟。
今日最後のチャイムを意識の片隅で聞きながら、政実は美術室へ続く廊下を独り歩く。
いつものごとく息を潜めて。
何もやましいことがあるわけではないのに、気がつけば足音を忍ばせ歩く自分がいる。
思い返してみれば、三年間ずっとそうだった。
そう長くはない廊下を辿れば、目的の場所はすぐに現れる。
入学式の日、なにかに導かれるようにして訪れた美術室は、そのときと全く変わらない様相で目の前に佇んでいた。
黒光りする木目、絵の具のあと、手垢でくすんだその扉。
クラブ見学でやってきた政実を怯ませた重々しさが、こんなにも心地よく己の気質に馴染むようになるなんて、当初は想像もつかなかった。
だがそれでもやはり、仄かな緊張感と独特の空気のせいで、音を殺すことを覚えてしまった足は、相も変わらず緩慢に歩を進める。
僅かな拒絶を孕みつつもどこか暖かい気配に、政実の心はむず痒く揺れる。
政実が手をかけると、ぎぃ、と軋んだ音を立てて開かれた扉から橙の光が一筋、カンバスの並ぶ室内を鋭く刺した。
外界の色を嫌うかのように遮光されたその中は、気を抜けば荒れた板張りの床に足を取られそうなほど暗く、光源は生成り色をした厚手のカーテンに透ける日の光のみだった。
扉にかけた手に力を込め、床に走る橙を広げて、雑然と並べられた長机や角椅子を照らす。
とにかく電気スイッチのところまで行き着かなくては、と政実は心の中で呟いた。
それは扉を入って右に進んだ奥、黒板の横にあった。
美術室の中は机や椅子、カンバス等が雑然と並んでおり、ただでさえ足をとられる。増してや薄暗がりの中では歩を進めることも躊躇われたが、だからと言って行かないわけにはいかなかった。
ひとつ溜息をついて、政実は美術室へ足を踏み入れた。
心の中で悪態をつきながら、奥に向かって一歩二歩進む。
その時だった。突然の気配。
不意に後ろから差し込んでいた西日が何かに遮られた。
なんだろうと考える間もなく、バタンと激しい音を立てて扉が閉まった。と、次の瞬間には、後ろからぐいと引っ張られる感覚がして、政実は不可抗力でつんのめる。
両目の上にきっちり添えられた両手がひやりと眼窩を刺激した。
「だーれだ」
耳に入ったのはよく聞き知った声。
心臓はどくどくと脈打って、後ろ側へ思いっきり圧をかけられた首は悲鳴を上げていたけれど、政実はその声の主を正確に言い当てることができた。いや、むしろこんなことをするのはこの人しかいない。
怒りの意味を含めて、命一杯ドスの利いた声を絞り出す。が、果たして効果があるかどうか。
「……せんせ、これ意味ない。どうせ真っ暗じゃないですか」
「すっごい、なんでわかったの政実ちゃん。声低くしたのにー」
わかるに決まってるだろ、この馬鹿センコーとは思っても口が裂けても言えない、いや言わない。それくらいの分別は備えている。むしろ分別が備わっていないのは後ろでくすくす笑っている……こいつだ。
未だ容赦なく圧を掛ける両手に逆らって、痛む首を無理やり起こそうと試みる。
が、この悪戯好きの美術部顧問は、逆に力をこめる始末。
ミシリという嫌な音に身の危険を感じて、政実は少し声を荒げた。
「もういいよ、先生!」
自分でも驚くほど鬼気迫る声が出たおかげか、ようやく頭を戒めていた両腕が放された。
開放された視界はそれでもやはり薄暗かったが、完全な暗闇よりはまだ辺りを感知することができる。政実は深く溜息をついた。
「佐久間先生、もう少し加減してもらえます? マジ痛い」
恨みのこもった眼で佐久間を睨みつけるが、相手の方はどこ吹く風。
幾度となく無茶なことをされたけれど、一向に慣れないまま月日が過ぎてしまった。
首筋をさする政実に対して、佐久間は悪びれもせず言い放つ。
「政実ちゃん、面白いからついついやっちゃうのよ。でもみんなの前ではしないでしょ? 一応部長のメンツ立ててあげてるんだからー」
およそ教師の言い草とは思えない台詞を吐いて、佐久間はからからと笑った。そんな様子にくってかかる気もさらさら起きなくて、政実は不毛な会話を早々に断ち切った。
「……なんでもいいですけど、こんな暗闇で何してたんですか? 電気つけるかカーテン開けるかしたらいいのに」
その言葉に佐久間は意味有り気な笑みを浮かべ、窓際に歩み寄り、分厚いカーテンを引いた。
とたん、黒いシルエットでしかなかったその姿が、先程よりも少し色を失った橙に照らし出される。
肩の辺りで切り揃えられた栗色の髪が日に透けて柔らかく揺れた。
「さっきまでこうしてたのよ。で、政実ちゃんのおっかなびっくりした足音が聞こえたから、こうして……こう」
ご丁寧に、さっとカーテンを閉めるジェスチャーをつけ、政実の立つ場所から少し離れた暗がりにしゃがみ込む。
黒縁眼鏡に縁取られた瞳が、無邪気な子供のような色を湛えて政実を見上げた。そして、にんまりと歪められた唇から発せられる一言。
「隠れたの」
一体いくつだよ、と喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、政実はそうですか、と小さく呟くに留めた。
こういう人なのだ、この教師は。もう幾度となく自分にそう言い聞かせてきた政実にとって、この程度のこと驚くに値しない。ただ呆れはするが。
ひざを抱えて座り込む佐久間に向いていた視線が、不意にその後ろにあるものを捉えた。
白い胸像がこちらを向いて佇んでいる。デッサン練習用のスタンダードなヴィーナス像だ。
しかし、本来であれば網膜に焼きつくほどの白磁であるそれは。
「……で、女神像にいたずら描きしてた訳ですか」
政実の視線を追って、佐久間はああ、と頷いた。
「ただの絵の具よ。それにいたずら描きじゃないわ。立派な芸術」
立ち上がりざまロングスカートのすそを軽く叩き、佐久間は石膏で固められた女神の頭をなでた。
無機質な結晶の塊であるはずのそれは、まるで生きている女であるかのように巧みな化粧が施されており、一種異様な空気をまとってそこにあった。
白い顔になじむ薄付きの肌色。白灰色のハイライト。ダークグレーのアイシャドゥが見事なグラデーションを描き、同系色の眉が薄く意志を醸す。病的な美が幻想に満ちた雰囲気を引き立てていた。
綺麗だと思う。さすがだとも。しかしそんな素直な賞賛を押さえ込むモラルが政実の中にジワリと湧き上がった。
「そんな顔しないで。これは私の私物。それにいつもきちんと綺麗に落とすのよ」
「それでも、色素沈着を起こします」
少し早くなった口調が、僅かに場を気まずくさせる。
彼女の顔に浮かんだのは、僅かに目を細めた表情。それは、聞き分けのない子供を嗜めるようでもあり、叱られた子供が己の失敗を取り繕うかのようでもあった。
「……困ったわね、これは私のカンバスみたいなものなのよ。あなたの言いたいこともわかるけど、大目に見て頂戴」
そう言って佐久間は傍らにあったパレットを取った。筆先は薄めのブルーグレーに添えられている。
「うちでは正統派絵画ばかり教えてるものね。こういうのは嫌い?」
自分で指導しておきながら、そんなことを平然と言う。描く作品を見れば一目瞭然だろうに。
「ただ、平面に慣れてるだけですから」
パレットの上を動く絵筆を眺めながら、政実は憮然として言い放った。
好きでも嫌いでもない曖昧な言葉を選んだのは、偏った考えに固執しがちな自分を表に出したくなかったからかもしれない。
「そう、じゃあちょっと見てて」
政実の意志は全く無視して、カンバスと称したヴィーナスに筆を向ける。滑らかに、女神像の首筋を細い線が滑った。繊細に緻密に。
そして描かれたのは薄青く伸びる静脈。
「中世ヨーロッパにおける化粧は、いかに肌の白さを際立たせるかということが一番重視されていたの。そして生まれたのがこの化粧法」
授業中と同じ口調で佐久間は続けた。先程までの無邪気さは影をひそめ、落ちついた声音が教科書を読み上げるかのように淡々と響く。
静脈を描くことで相対的に肌を白く見せ、青白く病的な印象を抱かせる技巧。血色のよい化粧が好まれたのは紅が普及して以降のことだった。
紀元前から存在した美神の顔に、赤みのない無機質な虚飾は驚くほど映えていたけれど。
「気持ち悪いでしょう。でもね、」
そうなのだ。彼女の言うように、薄青い血管は気味悪く女神の首を奔っている。まるで陶器に奔ったひびのように。
血色は悪くとも生ける人のような仄かな生命観を醸していた女神は、いまや死人のごとく虚ろに微笑んでいた。なのになぜだろう。
「綺麗なのよね。こうすると」
ダークグレーに縁取られた白い眼が静かに、物言わぬ唇を補って余る雄弁さで瞬いていた。
いつの間にか日はすっかり落ちて、油と古木の匂う室内に再び闇が降りつつあった。
しかし暗さになれた桿体は、薄ぼんやりと発色する白磁をしっかりと網膜に映し出す。いやに鮮明に。
政実は僅かに身震いした。
「変な話でしょう。気持ち悪いのに綺麗だなんて。まるで病人のような、死人のような顔が持てはやされた時代があったのよ」
そして、現代に生きる人間の美意識にも、遺伝的に刷り込まれた価値観が備わっているのだ。それは不思議な強制力を持って。
「このアンビバレンスは人間に本来備わっている願望の一つを反映しているのだと思うわ。それはね」
本能とでも言うべき、死への回帰願望。
ペルシャンブルーの空には、淡く発光する月がその存在を主張し始めていた。
「さ! お化粧しましょうか、政実ちゃん」
パレットを置いて振り向いた佐久間は、いつもと変わらない様子でにんまりと微笑んだ。冷えかけていた場の空気が一変する。その変化に政実は一瞬、戸惑いを覚えた。
この人の思考回路は一体どうなってるんだろう。
政実が、掛けられた言葉を反芻している間に、どこから取り出したのか、彼女の手の中には小さなポーチが握られていた。
「はあ? なんで……」
「私がしたいから」
身もふたもなく言い放たれる言葉と、じりじりと詰め寄る満面の笑みに圧倒されて思わず後ずさる。この顔は本気だ。この人が本気を出して思い通りにならないことは皆無といってもいい。それでも、無駄とわかっていても足掻いてしまうのが人の性。
「いいじゃない。どうしてだめなの?」
「いや、そんないきなり訳わからんこと言わないで下さいよ」
「あら、訳はわかるわよ。そんな綺麗な顔してるんだもの。化粧気なしっていうのはもったいないわあ」
「理屈になってへんって!」
しかたないわねえ、と佐久間は化粧ポーチの中をあさり始めた。間を置かず掲げられた左手には長方形の紙が一枚。
「『ルネサンスの遺産からフランス印象派まで』チケット、プラス交通費」
「少しだけなら」
「よし、交渉成立!」
抜けているようで意外にちゃっかりしている佐久間は、美術部員一人ひとりの扱いを心得ている。政実もその例に漏れず、しっかり手綱を握られていた。
まあこれだけ日が落ちた後だ。もうほとんど生徒も残っていないだろうし、誰に見られることもないだろう。そう結論付けて、政実は腹を決めた。金欠学生にはいいアルバイトだ。
「じゃあ窓際行って。これだけ月明かりがあったら電気は要らないわ」
それに明かりをつけたら職員室にバレちゃうしね。
人差し指を口端に添えて、美術室の主は器用に片目を瞑ってみせた。
大丈夫なんだろうかと一抹の不安が政実を襲ったが、いざとなったら佐久間がどうにかごまかしてくれるだろうと高を括ることにした。そういうことはきっと誰よりも上手い。
冷たい指が滑らかに肌を滑る。
肌理の一つ一つを整えるように辿るそれが思いのほか心地よくて、政実の中にあった羞恥心はいつの間にか消え失せていた。
作り物のヴィーナスに施すのと全く同じ手順で、柔らかい肌に色を乗せていく。
月明かりに浮かぶ肌は面白いほど透き通っていて、佐久間は複雑な心境に駆られた。
薄く紅をさせば、聡明な貌に青々とした多感が滲む。控えめに紺青のシャドゥを引けば、黒々とした瞳がその輝きを増す。その全てから躊躇いもなく放たれる実直さ。
胸が締め付けられるような羨望を覚えた自分から目を逸らすように、佐久間はチップを置いた。
「死への回帰ってことはさ、先生。輪廻を信じてる?」
そんな彼女の心の動きを察知できるわけもなく、煌々と輝く月を眺め政実が考えていたのは、佐久間が本能と呼んだそれについて。
回帰とはなんだろうか。
今在る場所へ戻ること? それとも、在るべき場所へ帰ること? 行き着くことを目指す流れを回帰と呼ぶならば。
元ある形へ、器へ、生まれた場所へ、原点となる存在へ、漠然とした核を中心に廻る己という唯心。あるいは唯物。渦のように導かれ、流れ着く先にあるものを人は望んでいるのだろうか。若しくは、そこに帰り、そして再び旅立つと。そんな循環を望んでいるのだろうか。
「どうかしら。政実ちゃんは? あ、ちょっと待ってね」
オールドローズの口紅を、リップブラシで薄く延ばす。
その僅かな間、答えの出ない問いが二人の思考を満たし、そして巡った。
自分では導き出せない問いを他人に委ねたがる。人間とはそんな生き物なのだと開き直ってみたところで、その後ろめたさが解消される訳ではない。訳ではないが、そうせざるを得ない事態が人生には多く存在する。
いかに足掻こうとも、川となった流れが支流を作ることは難しく、押し流された事象は決められた場所へ流れ着くしかない。
果たしてそれこそが死への回帰を望む所以であろうかと、佐久間は思った。つまり本流は定められた河口、すなわち死へと。
「水の循環と同じなんじゃないですか?」
薄く色付いた唇から控えめにこぼれた言葉に、佐久間の手からリップブラシが滑り落ちた。月を背にした彼女の表情を政実は見ることができなかったけれど。
「止まることなく流れて、そんでひとつになって、空に上ったら、また落ちてく。そんな感じで、やっぱ人間も巡ってるんだと思います」
巡って巡って次こそは。そんな望みを抱くことぐらい許されてもいいだろう。ただ細く頼りない流れに乗ってしまったことを悔やみ、足掻くのみでは不毛すぎる。
どうにもならない現実を越えた先に転生があると、政実は信じた。信じたかった。
月明かりに映える血色のよい肌に、青い静脈は似合いそうもない。
ペールブルーのシャドゥをそっとポーチに戻し、佐久間は密かに息を詰めた。
感性は直感であり、きっとその直感も本能のひとつなのだろう。
いつの間にか止めてしまっていた呼吸をそっと解き、政実はいつか告げなければいけない言葉を胸の奥から取り出した。
そのときは今だと、感じているのでは自分だけではないことが押し殺された吐息から伝わる。
海に至るには遥か遠すぎたのだ。
「先生、俺もうこれで最後にしようと思う」
政実は月明かりを背負うその姿を、目を細めて見上げた。しかしやはり、逆光の所為でその表情を読み取ることはできなかったけれど。
「あ、チケットはちゃんともらうから」
中性的な眼差しに少年らしさを滲ませて、政実はにやりと笑った。
死人として捉えておくにはあまりにもまぶしいその無邪気さ。
いくら綺麗に飾り立てようとも、無機質な女神を人にはできないように、生命力に溢れる少年を物言わぬカンバスにはできない。虚飾はあくまでも虚飾であり、そのものの本質を偽るまでには至らない。そう、思い知る。
胸の奥底にジワリと広がる焼けつくような熱さと痛みをなんと名づければ良いか――。
「取るわね、化粧」
指先は冷え切っていた。
その僅かに震える手で、少年の顔を彩る粧いを丁寧に拭き取ると、生きたカンバスは見る間に十七歳の少年へ戻っていった。
月明かりは古びた室内を明々と照らし、分厚い扉への道はひどく鮮明に光を反射する。
政実はただじっと彼女の動きを目で追っていた。
その視線を受けて、佐久間がゆっくりと顔をあげると、互いのそれが交錯する。
月明かりに照らされた瞳に浮かぶ色を、この目に捉えられればいいのに。彼女ごと、全て。
僅かな逡巡の後、政実は静かに微笑んだ。
「泣きそうな顔、してる」
「政実ちゃんだって」
ふっと、どちらともなく可笑しいげな吐息がこぼれ、夕闇に埋め尽くされた空間に一灯の光が差す。
「ねえ、これを言わせるために俺を呼んだの?」
「さあ、どうかしら?」
最後まではぐらかすんだ。
ここまで出かかった言葉を政実はぐっと飲み込んだ。
いつだって、言いたいことは伝わらない。伝える勇気もない。
ただのエゴイスティックな感情をさらけ出すことが怖かった。
「これ、貸して」
返事を待たず、政実は化粧ポーチからのぞいていた口紅を取りだした。
真紅というには褪せていて、薄桃というには紅いそれを、器用に片手で繰り出す。
訝しげに寄せられた眉よりも、顎に添えた手がジワリと熱くなる様の方が自棄に鮮明で。
薄く開いた唇に紅を差し終えると、静かにそれを置いた。
「ずるいね。ごめんね」
「うん」
震える唇、震える声、震える謝罪。
白磁の像が進まぬ時を持って、ただ二人を見つめている。
明日になれば、輪廻の軌跡はまた一つ歩を進めてしまうのだろう。
願わくば、いつかまた交わる時が来ればいいのにと、祈りにも似た想いがよぎった。