ひぐらし
東京の並木道は光に溢れ、まぶしさが地下から地上に出たばかりの私の目を射した。
今やんだばかりなのか、夏の通り雨の匂いがする濡れたアスファルトの上には再びミンミンと騒がしいセミの声が降り注ぎ始めていて、いつもの街の活気をもう一度取り戻そうとしている。
そうして私はふと降り注ぐ光とセミの声の中で今はもう二度と戻ることのない遠い夏の日を幻視した。
私が昔を懐かしむとき、それはいつも夏の盛りのことばかりだった。私が今はもう取り戻せないものと思い浮かべたのはいつだって少年時代の暑い夏のさなかだったのだ。
スタンプの溜まったラジオ体操のカード、冷蔵庫に貼られた一日の計画表。
汗だくで外を走り回った炎天下、涼みによった友人の家、自由研究の相談。
寝苦しい夜、寝坊した朝、一日だけ空白のスタンプの欄。
そしていつも耳の中で響いていた騒々しい蝉の声を。
これは私に限らず多くの人にとってもそうかもしれない。
少年時代に取り立てて特殊な経験もせず、平凡に、しかし今振り返ってみれば楽しく過ごしたにも関わらず――いや、それだからこそ、あのなんでもない夏の暑い日々をあの騒々しい蝉の声と共に思い出すのかもしれない。
騒々しかった夏の終わりに聴く、あの侘しげなヒグラシの声を思い出して切なくなるのかもしれない。
そんなふうに、私には当たり前だった夏の感傷をふと彼女の前でこぼしてしまったことがある。
いまでは前後の会話を思い出すこともできないが、こんな他愛もない話を彼女にしたのはきっと彼女にただ頷いて欲しかったからに違いない。
大学の研究室で出会った彼女は北国の城下町の造り酒屋の娘で、東京のベッドタウンで生まれ育った私とはまるで違う生物のような肌の白さと透明な明るさをもった人だった。
私は彼女が好きだった。心の芯から透き通るような美しさを持った彼女が大好きだった。
だから私にとってはそんな些細な夏の風景であっても、「そうだね」と彼女が頷いてくれるのが嬉しかった。
私は、私が知らない場所で育った彼女と、私が知ることができない思い出をもった彼女と、幼い頃に見た景色が同じだと分かり合いたかったのだ。
しかし彼女は、
「そうだね。なんとなくわかるよ」
と曖昧に頷いて、
「私のところではね、肌寒い夕暮れにヒグラシが鳴いて短い夏が始まるの。あっという間に過ぎる季節がヒグラシと一緒にやってくるんだよ」
そう続けて少し寂しそうに笑った。
その言葉と共に彼女が過ごした北の城下町の短い夏が私の頭をよぎった。
知っている笑い声と知らないはずの彼女の白い夏セーラーが頭をよぎって。
彼女の隣を歩く知らない誰かの姿が頭をよぎって。
夏の到来を告げるヒグラシの鳴き声が頭をよぎって。
急に胸が苦しくなって。
私もそれをごまかすように少しはにかんで笑った。
あれから何年経っただろうか。
今でも北の城下町では夏の到来をヒグラシが告げるのだろうか。今、彼女の住む北国の街はヒグラシが鳴いているのだろうか。
東京の街に取り残された私はまだ今年のひぐらしの声を聞いていない。
騒々しい夏の蝉しぐれの中でそれを少しだけ悲しく思った。