序章 その2
与えられた役目を果たして地に伏した男を、魔区外に送る。
当初の予定通りに、男の身体にはかすり傷一つなかったが、その顔には苦悶が浮かび、思わず同情を禁じ得ない。
扉が広く開け放たれ、解放された謁見の間。
標準人間型で考えて、収容人数10000人規模のこの大広間は、この日のために価値ある調度品が全て片付けられ、実に広々としている。
魔区で宰相を務めるセズシルバスは、ゆっくりとその広間に視線を通した。
床に多少の傷はついたが、破損といえる破損は特に見受けられない。
唯、床に敷かれた絨毯だけは魔王の血肉と臓物で汚れてしまった。
安物に代えていて良かったと喜びたいところだが、これだけの損害でも経理担当の財務長官から文句を言われる事だろう。
まったく、迷惑この上ない。
軽く嘆息すると床に散らばる魔王を見遣やる。
人間たちの間で魔界と呼ばれる此処、魔区は、大陸の東側に位置し、魔区外、つまり人間たちの住む地域とは、山脈によって区切られ分かたれている。
そこでは、魔族と呼ばれる異能異形の者たちによって、ひとつの王国のような体裁をとっていた。
その魔区一帯を統括する世界最強種族の現魔王は、歴代魔王の中でも随一の魔力を誇り、強さと手腕ゆえに魔区中の魔族から尊崇と憧憬を集めている。
そんな魔王が、今はただの肉塊と化してそこらに転がり、床を汚く汚している!
――嗚呼、此れを他の者が見たら何と思うことか!!
人一倍、真面目でプライド高い魔界の宰相セズシルバスは、己の仕える魔王の無残な現状をそこそこに嘆くと、片手で空を軽く払った。
途端、巻き上げるような風が起こり、魔王の腕やら内臓やら、そこここに散らばった肉片を一ヶ所に集めていく。
セズシルバスは、更にそこに魔法をかけ、適当に癒すことで魔王の体をくっつけた。
誰が見ても、死骸だろうと判じるような有様で、切り裂かれた無数の傷はそのままだったが、一通り魔王の破片をくっつけたところで、癒すのを止め、風の魔法で王の寝室へと転移させる。
あれで死なないというのだから、魔王の生命力とは恐ろしいものである。
しかし、二週間は政務にも使えないかもしれない。
その心づもりで、ここ一年程は魔王を執務室に閉じ込め、朝も昼も夜も関係なく限界まで仕事をさせて、例え限界がきても軽く癒して続けさせてきたが……。
万一、私の仕事がこれ以上増えるようなら、回復後にこれまでの三倍は働かせて一年の有給休暇をとってやる。
冷めた目をして静かに決意を固めた魔界の宰相セズシルバスは、血で汚れた謁見の間を後にした。