絵本に映る白光と黒闇 悠の一色
「魔王様、どこにいるんだろう?」
レディアスがそう呟いたのは、歩き出して暫く後のことだ。
魔王城はとにかく広く、何処も彼処もとても大きい。
1番小さな造りの通路でも、平均身長を上回る巨人族や翼を広げたままのホークエルズが悠々と利用できる程だ。
王族の私室は勿論のこと、執務室や会議室など政治に関わる部屋のみならず、研究室や医務室、城勤めの者の為の寮もあり、果ては一般客用の宿泊施設や飲食店まで城内に備わっている。
城下町は無いが、寧ろ城そのものが1つの都市の様であった。
人間の子ども位の身長しかないレディアスとクルスにとっては途方も無い大きさである。
いつもより人気のない廊下は、更に大きく広く感じた。
絵本を抱えてテクテクと隣を歩くレディアスは、そんな城内にきょろきょろと視線を巡らしており、彼女を見れば、今まで特に何をいうこともなくレディアスについてきたクルスにも彼女の目的には察しが付いていた。
絵本を返そうと魔王様を探してるのだろう。
「図書館の本棚の間にも、調理室の床下にある発酵物貯蔵庫にも居なかったし……。夢幻郷かなぁ?」
本棚の間や発酵物貯蔵庫なんかを探し回っている時点で、誰を探しているかなど自明の理である。
そんなところに居るのは、政務から逃げる魔王陛下ぐらいのものだ。
「魔王様なら執務室に居るんじゃないかな」
「えっ?あの魔王さまがッ!?」
目をまん丸に見開いて聞き返してくるレディアスに、頷きながらクルスは更に付け加える。
「最近は、ちゃんと仕事してるらしいよ」
その言葉に不思議そうな顔をしたレディアスだが、しばらく考え込むと自分なりに納得したらしい。
少し、心配そうな顔をしつつも普段どおりの明るい声でクルスに問いかける。
「じゃあ、執務室に行ったら魔王様に会えるかな?」
「会えるかもね」
「じゃあ、執務室に行こう!」
しんと静まり返った城内をレディアスと二人、執務室を目指して歩き始めた。
最近、魔王城は何処かおかしい。
普段城になんて居着かない者たちが連日登城して仕事をしていたり、かと思えば責任感の塊で、仕事中毒なことで有名な宰相閣下が魔王陛下と一緒になって芝居を打つ等という噂が出回っている。
そして先月来た伝達によれば、明日より二週間は最低限の機能を残したまま城を閉鎖するらしい。
故郷のある者は順次帰省し、無い者も旅行にでも行って来いと城を追い出された。
更にその伝達では、この二週間が終わるまで万が一魔区内で人間に襲われても、返り討ちにすることなく即座に退避するようにとも伝わっている。
一体、どういうことなのか、気にならない事もないが、面倒ごとに巻き込まれなければどうでもいい。
そんな訳で、今、城に残っているのは転移紋の使用順待ちの者と、自分たちのように危急時の対応のために残された者だけだった。
二人が執務室に向かい四階の東通路を歩いていると、ダズン、ダズン、と地に響く足跡が二人分此方に向かって駆けてきた。
この足音は巨人族のものだろう。
「ぐぅうぉぉおおおを!!!まぁ~た、遣り直しじゃ~~~い!!!」
「資料庫なんぞ、スペースがありゃあ十分じゃろうが~~い!!!!」
びりびりと耳に煩い皺枯れ声。
轟く声音とその口調は、巨人族のガギャとダラのものだ。
最近、彼らは魔王城の北東になにやら建物を作っては壊していたが、どうやらあれは資料庫だったらしい。
あんなに窓の多い造りでは千年と待たずに紙が劣化するだろうに。
「ヴぉぉおおお!!!宰相なんぞに借りを作ったばっかりにイイイィィ!!!」
「会えても結局、弟子にはしてくれぬうぅうぅ!!!!」
暑苦しくて煩い兄弟ガギャ・ダラは、大粒の汗と涙をバタボタと振り落とし、はた迷惑にも喚きながら近付いてくる。
「ヴァぁああぁああ!!!何故じゃあぁぁああ!!!」
「ロッグジェグバ殿ぉぉおおをををうぉ~い!!!!」
此方を踏み潰さんばかりの勢いで目の前まで迫った巨人族の兄弟は、最後に一際うるさく叫ぶと、通路を右に曲がっていった。
巨人一人だけでも結構な大音声なのに、それが二人分、通路に反響してこだまの様に繰り返される。
「……み、耳痛い……」
只でさえ耳の良いレディアスは耳を押さえて涙目になった。
階段を昇って地上五階に出る。
両側に扉の並ぶ廊下を進めば、空間一帯に朗々と染み渡るテノールの嘆き。
「嗚呼、我が心の内を掻き乱せしリーリートゥ……。私を甘美なる久遠の檻に閉じ籠めた麗しき貴女は今何処にいるのか……。貴女を想えば逢う事の出来ない日々の苦悩さえ、私には花蜜酒の香を追い歩き続ける様な陶酔に……」
うんざりする程の情感を込めて延々と垂れ流される長ったらしい文句に胃の腑がムカムカする。
――今度はアゼリアスか。
翼魔族のアゼリアスと言えば、淫魔族のリーリートゥのストーカーである。
自由奔放に世界を渡り歩く彼女に付き纏い、城に居る事なんて滅多にないのに……。
艶を含んだ良く通る美声は、鬱陶しくも尚続く。
「……貴女に会いたいという想いに身を焦がし、私はとうとう、セズシルバスなどといういみじくも非道で狡猾な宰相に借りまで作ってしまった。……あの時、あの悪魔の囁きに耳を貸さなければ、きっと今も仕事などに囚われることなく貴女を追いかけていられたのに……」
翼魔族の特性は飛行可能な翼と良く響く声にある。
少なくともこの階を抜けるまで、否応なく聞かされる事になるだろう。
クルスは舌打ちしたくなるのを抑えて、隣のレディアスを窺った。
どうやら巨人族の怒号で耳をやられたレディアスには、アゼリアスの嘆きは聞こえていないようで、耳を気にしながらも、のんびりと歩いている。
クルスは早くこの階から抜けるべく、レディアスの手を引っ掴んで足を速めた。
更に歩くこと数十分。ようやく執務室へと辿り着いた。
扉前の衛兵によれば魔王は不在で宰相のみだと言うが、用件といえば絵本を返すだけである。
宰相に言付ければ、魔王様に渡してもらえるだろう。
執務室の手前にある待合室で許可が下りるまでおとなしく待つことにした。
ソファに腰掛け隣を見れば、レディアスは手元の絵本にじっと目を落としている。
――読みたいんなら、読んでから返せばいいのに。
そう思いつつも口には出さず、流し読みした絵本の中身を思い出した。
旅に出た勇者はその途中、魔獣に襲われ、女悪魔の誘惑に遭い、人間の町で暴れる巨人族に遭遇する。
様々な困難に見舞われつつも、それに打ち勝ち魔王城にたどり着いた勇者は、壮絶な戦いの末なんとか魔王を殺すことに成功し、魔王を倒した勇者のお陰で本来の力を取り戻したという女神が、魔界と人間界との間に結界を張った。
そうして勇者は人間界に戻って美しい姫君と幸せに暮らし、人間は魔物の脅威に晒されなくなって、めでたしめでたしという締めくくりだ。
何処がめでたいのかさっぱり分からない。
魔獣が飯にありつこうと、悪魔が誘惑しようと、巨人族が暴れようとも、それぞれの勝手だ。
そこに魔王は関係ない。だというのに、女神とやらが力を取り戻す為にと魔王は殺されるのだ。
魔区外の人間はそこに一切疑問を持たないらしい。
絵本の最後のページでは、姫を横抱きにして幸せそうに微笑みかける勇者がいる。
一体どういう教育をされているのか。
この絵本で大体の想像は付くが、なんとも身勝手で迷惑な話である。
魔王様はコレの何処が気に入ったのやら。
物思いに耽っていると突然廊下の方から騒がしい叫び声が聞こえた。
「うわあぁああぁ!私の……、私の勇者があぅあぁああ」
どうやら、喚きながらこちらに向かってくるのは魔王様らしい。
バーンと待合室の扉が勢いよく開き、そこに現れた魔王様は、真っ青な顔で目に涙を浮かべ……、胴が千切れ掛けた人間の男を姫抱きにして震えていた。
魔王はそのまま突き進み、体当たりする勢いで執務室へと飛び込む。
気が動転してるらしい魔王様は気にする素振りもないが、その際、男の血だか内臓だかも勢い良く飛び散った。
開け放たれたままの執務室の扉の向こうでは、青筋立てた魔界の宰相セズシルバスが風魔法で魔王を刻みながら叱責している。
「貴方!ご自分が何をしたか解っているんですかっ!?」
「グッ、セズ!うぐッ……、私の、私の勇者が魔獣にッ!お願いだ!助けてくれっ!」
「只でさえ、人間たちの身勝手な密猟・討伐で貴重な種がその数を減らしていると言うのに!! たかが男一人を助ける為に、魔空樹海の一区画ほぼ全てを焦土にするとは!」
「わ、私に出来ることならなんでもする!私の、私の勇者を……。勇、しゃ、を……」
度重なる宰相の攻撃に呻きながらも、魔王は大事そうに抱えた男を放さず懇願し続けたが、やがて力尽きたように倒れる。
「……あぁ、全く信じられません。」
疲れたように一言呟いたセズシルバスは短く嘆息し、こちらに視線を向けた。
「ところで、貴方達は何です?」
今までの宰相の剣幕にふるふる震えていたレディアスは、青褪めながらも絵本を差し出した。
「あの……、コレ、落ちてたから。返しに来たの」
「あぁ」
一瞬、絵本を冷たい目で見下ろしたセズシルバスは何を思ったのか、こちらに顔を向けてにっこり笑う。
その笑顔に、クルスは嫌な予感がした。
「ちょうど良かった。貴方たち、思う存分魔法を使ってみたいと思いませんか?」
宰相のその問いに、レディアスは先程までの事など忘れたかに弾んだ声を上げた。
「うん!使ってみたい!宰相さんが風の魔法使ってるのとか、かっこいいんだもん!」
魔族といえども魔法を使えるのは一握りであり、クルスもレディアスも多少の魔力は持つものの魔法を使える程ではなかった。
「そうですか。では、この魔法の杖を貸しましょう。こちらが説明書です」
「わあ!ほんと?」
【魔法の杖】と説明書を渡され、目に見えて喜んだレディアスにクルスは内心溜め息を付く。
――この宰相のことだから、何かあるに違いないのに。
「ええ、もちろん。ですがその代わり、まずはコレでゲセドゥル山脈全体を囲うように、結界を張ってきて頂きたい。あそこには数少ない貴重な種が数多生息するというのに、その価値も分からない愚か者が多く困っていましてね。人間も、魔区の民も、魔獣も、総ての者が行き交うことの出来ないようにしたいのです」
「愚か者」と言う時に、セズシルバスは強く魔王を睨み付けた。
気絶しているかに思われた魔王様はどうやら狸寝入りをしながら気配を窺っていた様で、瞬時に顔色を失いダラダラとあぶら汗を流し始める。
さも簡単なことの様にあっさりと頼まれたが、結界を張るにはその領域を把握していなければならない。
自分の周囲やそこらに小規模の結界を張る位なら、なんということもないが、ゲセドゥル山脈全体を囲うとなると、最低限その外周を周って地形を把握し、頂上の高さを確かめる必要がある。
何日掛かるか分かったもんじゃないし、かなり面倒である事は間違いない。
そんなことをチラとも考えていないだろうレディアスは、渡された【魔法の杖】に目を輝かせている。
「うん!わかった!じゃあ、早速行ってくるね!」
「はい、お願いしますね」
ご機嫌に即快諾したレディアスに、魔界の宰相セズシルバスは近年稀に見るとてもいい笑顔で念押しした。
レディアスに引っ張られながら部屋を出る間際、最後に執務室内を振り返ってみる。
とっくに回復していた魔王様はいつの間にか移動し、部屋の隅ですんすんとすすり泣いていた。
その腕には未だに、勇者と呼ばれた男が大事そうに抱えられ、時折何かを訴えるように宰相に視線を向けていた。
当代魔王が誕生して、優に五百年は経っている。
一体、どういう教育をされてきたのか……。
先の見えない魔区の未来に若干の不安を抱きつつ、クルスはレディアスに引っ張られ執務室を後にした。