満多
頬笑は家で飼っている白黒の多毛種のミックスのことが心配だった。ミックスは犬のような外見でありながら、しっぽが左右で色違いのふたまたになっている奇妙な犬のような生き物だ。性別はメス。前足と後ろ足の片方がともに弱っており、どうしても歩くときに不器用な動きになる。ある日、ミックスは何の前触れもなく、野良犬(厳密には犬のような生き物なので野良犬というのは適切ではないとは思うが)として頬笑の家にやってきた。
「いつかよくなるからね」
なんの説得力もないことを頬笑は十二分に理解していたがミックスを元気づけるために彼女はそう言っていた。
頬笑は晴れた日は花々が植えられた庭の縁側でミックスの背中を撫でながら、ひなたぼっこするのが一日の過ごし方だった。
ある時、いつものように縁側でくつろいでいると、視界の端から棒状のものが転がってくるのが見えた。
それは頬笑の足元まで転がり、重力の法則を無視して直立した。どうやら、見たところひとりでに動くこけしのようだった。
「私が見えるか?」
頬笑は思いめぐらしてみたが周りには両親はおろか人影は一切なく、それがこけしの声だと判別するのに時間はかからなかった。
緊張からか声が上手く出せずこけしの声に頷くと、こけしはこういった。
「そっちの世界ではこけしというそうだが、私のことをこっちの世界の子供たちは子消しと呼ぶ。ここは子供だけが迷い込む大人が存在できない時間の世界。一度、ここに残ることを決断したら大人になる直前までこの世界から出ることはできない。今すぐ帰りたいならもとの世界に帰してやるが、そのときには誰もが其方を満多と思い込む」
満多が何のことかわからなかったが頬笑は首を横に振る。
「満多になりたくないなら、ここにいればいい」
すぐそばで子供たちの遊んでいるような声が聞こえた。姿は見渡す限りどこにもない。私のいた世界とはまるで違う現実味のないところにいるのは確かだった。隣にいたはずのミックスが見当たらない。私はここにいるべきではないと強く思った。
頬笑はまた首を振った。
「それなら、さよならだ。満多は十五歳になったらやめられる」
気が付くと、何事もなかったかのように休んでいるミックスが隣にいた。
頬笑は縁側ですやすやと眠るミックスを見つめていると、全身のいたるところを優しく指で押さえられているような感覚がした。
圧迫感が失せてから、本能的に思い返しながら感覚をなぞる。
すると、ミックスは目を覚ましキャンキャンと吠えながら元気に庭を駆け回った。
私には何が起こったのかさっぱりわからなかった。
ただ、いくどとなく歩きづらそうにしていたミックスの快活な様子が単純にうれしかった。
後から両親から聞いた話によると、あの子消しは人さらいの仲間らしいことがわかった。
満多は他者が何かを得ることで自分が何かを失う。
犬のような動物の場合はどうなってしまうのかはよくわかっていない。
満多と呼ばれる子供は生まれ育った土地だけでなく、近隣の街でも有名な存在だ。
「そんな話は今まできいたことがなかった」
「そりゃ、そうさ」
父が言う。
「だって、今日できたばかりの話だもの」
母親が言い切った。
その日から頬笑の世界は大きく変わった。
この世界の現象やら知識やらが存在やらが今までと大きく変わっていた。
悩みがある人は満多が助けてくれる。
満多と座敷で対面する人たちは一様にして誰もがそう口にする。
病気の人を何人も治した。
治療をすると頬笑は一時的に体調不良になったが、数時間もすれば健康な身体に戻った。
十六歳で満多になった頬笑は十五歳になったらやめられるという言葉通りなら生涯、満多として生きていかなければないことにやるせない気持ちになっていた。けれど、頬笑を頼って家にやってくる人々の笑顔が彼女にとっては生きがいになりつつあった。
ほとんどは病を治してほしいという相談ばかりだが、たまに珍しい人がやってきた。
視界の半分を共有している体質の双子の姉妹をあるべき状態にしたときは、頬笑の頭のなかに人々の言語が少しずつ失われていく別世界が生まれた。その別世界では毎日、母語が失われており、頬笑が日々を過ごす世界の地図と瓜二つだった。
寝て起きるたびに、両親や友人関係が変わっている長い黒髪の少女がいた。
少女には自分以外の人の認識を誤作動させる力があるせいで、毎日、他人の家に居候しているそうだ。
頬笑は少女を見つめることで起こった全身の圧迫感をなぞることで、彼女の悩みを解消した。
すると、頬笑を認識できる人は雨の日にしか存在しなくなった。
しかも、雨の日は普通の人間には存在できない日になっていた。
右隣の街の渡海から来た二人の少女は海に沈んだようなところから満多を訪ねてきた。少女たちは頬笑と同い年くらい。
渡海の家のベランダから伸びる梯子を下りて、水面の上に露出した梯子の下部に横付けされた泳ぎ筏というどの家庭でも飼っている筏の動物に乗り、街外れまで到達してから徒歩で駅まで向かって、電車を乗り継いで頬笑のいる町までたどり着いた。渡海では番地曲という各家庭ごとに異なる音楽を頭のなかで流すことで、それを聴き取った泳ぎ筏が自らに乗った人を目的地へ案内する。番地曲は譲渡が禁止されているが、年上の少女は渡海ではない外の世界を知りたかったから、番地曲を友人の年下の少女に移したいと考えていた。それを、お互いに同意したという。番地曲を失って自由を得ることでしか、渡海の人間には本当の自由が訪れない。番地曲を失くさずに外の世界で一日が立つと、光動体になり、思考が仮死状態になって思考を含んだ光を浴びることで行動するようになる。そのために、渡海の出身者は渡海へと帰ってしまうという。
満多の頬笑は自身が全身に感じた圧迫感をなぞることで年上の少女の番地曲を年下の少女に移した。
頬笑には特に変化が感じられなかったが、年上の少女と年下の少女には違いがわかったらしく、二人の少女は感謝を述べて立ち去った。年上の少女は渡海の住民という立場を失ったのだ。
次に満多に助けを求めたのは、ハナレに住む双体の老婆だった。
ハナレは左隣の街で、そこの住人はエアラロマディという仮定でしか存在が認められていない街と行き来できるという。
老婆はエアラロマディでは幼い少女の姿で父親と母親はハナレでは老婆だという。ハナレで栄養摂取をすると、エアラロマディでの肉体も健康が保たれる。
双体がある者にはハナレでの体とエアラロマディでの体があり、性別、年齢、容姿がそれぞれ異なっている。
エアラロマディのベーカリーではビスケットチャレンジを定期的に開催されており、失敗してから満足感が得られたときに不動体になる。家族の一人が不動体になると、連鎖が起きて、身内のすべての人間がいっせいに動かなくなってしまう。
不動体になるとエアラロマディに意識が閉じ込められたまま、ハナレでは光動体として過ごすことになる。老婆は妹が光動体になってしまい、心を痛めていると満多に伝えた。老婆はそんな妹をどうにかして助けたいのだ。
ビスケットチャレンジは一つの商品を購入するとビスケットが一つもらえるという催しだ。
成功者はまだ一人もいない。ビスケットチャレンジに成功するとすべての不動体は動かない体から解放される。
老婆によると、ビスケットチャレンジでは商品を選んだ後に金を支払うことしかすることがないという。
「後払いではなく、前払い」
頬笑はそういった。
通常、買い物は商品を選んでから金を払うのが後払いが一般的だが、先に金を払って商品をもらう前払いもある。
後日、ビスケットチャレンジに成功した老婆は満多の家に足を運び、感謝を述べた。
数日後の雨の日。若い女が満多の家の戸を開けた。
偶数日は晴れかくもり。奇数日は雨。
いつのまにか頬笑のいる世界はそうなっていた。
若い女は二十代後半で子供に肌の感触を感じたことがないという。
「お子さんはどれくらい?」
「二十です」
いつものように圧迫感をなぞった後に、頬笑の手の甲を若い女に撫でさせた。
「肌の感触わかる?」
「えぇ」
女は涙ながらにそう言って、謝意を表した。
けれど、その日を境に頬笑を満多として認識するものはいなくなった。
もう一年ほど両親とは会っていない。
両親は普通の人間なので雨の日には存在できないからだ。
頬笑は何かを失ったような気がしたが、それが何かはわからなかった。
それから十五年が経ち、頬笑は町の中心部での暮らしにすっかり慣れていた。
人が少ない土地で暮らしていた十五年前に町の中心部に移り住んだのだ。
満多である限り、家から出ても思考が仮死状態になり一時的に光動体になり、もといた場所まで返される。かつて、若い女に手の感触を与えた後に助けを求める人が来るのを待っていたが誰にも頼られなくなったので、頬笑は試しに数日間、家を空けた。その間、頬笑が光動体になることはなかった。それから、新居を購入するための手続きを済ませてから生まれ育った家を離れた。
頬笑は現在、道案内の仕事をしている。
道案内が必要なのはたまたま雨の日に存在できる力を宿した人間たちが主だった。
たまに、雨の日の世界の住人の仮面を被った人型の異形たちの道案内もする。彼らはうなり声のような低温を響かせながら道を歩く。
雨の日は視界がすべて白になるほどの濃霧で立ち尽くしたまま身動きが取れない人が一定数いるのは避けられないことだった。
そんなとき、頬笑の頭の中の別世界が役立つ。
頭の中の別世界のもう一人の頬笑はいつも私と同じ行動をする。
頬笑が見ている場所を別世界の頬笑も見ている。別世界が雨の日に濃霧になることはない。だから、別世界の頬笑の視界を頼りに道案内をするのだ。
サチと知り合ったのは最近のことである。
彼女と初めて会った後、私の住む一軒家の自室の机に差出人不明の手紙が置いてあった。
一軒家は満多として稼いだ金で購入した。
「今日の道案内助かりました。あなたに出会えてとてもうれしいです」
手紙にはそう書いてある。
家には鍵がかけてあるのに、手紙が置いてあることを怖いとは思えなかった。
怖いことのはずなのにその感情は否定されるべきだと感じた。
私が以前、両親に宛てて書こうと考えていたために購入した筆記類が使われていた。
サチはときどき雨の日の世界に迷い込んだ。
いつしかなんでも話せる間柄になっていた。
「いつかお礼を言いたかったんです。十五年前に私が母の腹の中にいたときに、母がお世話になりました」
あぁ、そうか。あのときの座敷で対面したときに彼女が言っていた二十というのは二十歳ということではなく、腹のなかで二十週生きているという意味だったのか。
頬笑はそう考えた。
「私は十五歳まで満多として過ごしました。解放されたらすぐにでも、恩人を探しに行こうと思いました」
あの女性を助けたときに、自らが満多であり続けるという正解を失い、立場が腹の中にいたサチに移ったのだと理解した。
満多が他者を見つめると、その人は得をして自らは何かを失う。
頬笑は渡海の少女たちと関わった際に、満多の立場を失うことが可能になり、エアラロマディのビスケットチャレンジに成功するための答えを老婆に教えたときに正解を失うことが可能になった。
それが、発揮されたのがサチが産まれる前の話だったというわけだ。
だったら、あの手紙はどういうことだろう。
頬笑は道案内しながら思案していると答えにたどり着いた。
どうやら、ミックスには千里眼と念力が備わっているのらしい。
人だと一つのことを得られるが動物だと二つのことが得られるのということだろう。
おそらく、ミックスは自分のことをサチだと勘違いしているのだ。
ミックスは前足と後ろ足の調子がよくなってから千里眼と念力が使えるようになったに違いない。
それらを用いることでミックスは自らをサチと思い込み手紙の執筆に至ったのだろう。
きっと、自らの存在を犬のような生き物と自覚したときに本当にミックスと手紙のやり取りができるんじゃないか。
頬笑はそう思うと、自らの人生の今後が待ち遠しくなった。




