蜜毒の令嬢——貴方が私に与えた愛は、蜜のように甘い毒でした
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
「君との婚約を破棄する」
王太子エドワルドの声が、煌びやかなシャンデリアの下に響き渡った。
満場の貴族たちが息を呑む。豪奢なドレスを纏った令嬢たちが扇で口元を隠し、燕尾服の紳士たちが眉を顰める。王国最大の舞踏会という晴れ舞台で、まさかの婚約破棄宣言。
私——リーゼロッテ・フォン・シュヴァルツェンは、ただ静かに睫毛を伏せた。
(ああ、やっと)
胸の内で、歓喜が弾ける。
五年。長い長い五年間だった。この瞬間のために、私はどれほどの夜を費やしたことか。どれほどの仮面を被り続けたことか。
「リーゼロッテ嬢」
エドワルド殿下は、まるで憐れむような視線を私に向けた。金糸のように輝く髪、海のように青い瞳。端正な顔立ちは確かに『理想の王子』そのものだ。
けれど私は知っている。その美しい仮面の下に潜む、底知れない傲慢と愚かさを。
「君は確かに完璧な婚約者だった」
殿下の傍らには、涙を浮かべた少女が寄り添っていた。蜂蜜色の巻き毛に翡翠の瞳、薔薇色の頬。清楚な白いドレスに身を包んだ彼女こそ、この国の『聖女』マリアベル・エーデルシュタイン。
「だが、君の愛は……重すぎた」
(重すぎた、ですって?)
私は内心で盛大に笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
愛? そんなもの、最初から一欠片も持ち合わせていませんでしたけれど。
「マリアベルのような純粋で慎ましい愛こそ、僕にはふさわしいのだ」
殿下は聖女の肩を優しく抱き寄せる。マリアベルは大粒の涙を零しながら、私に縋るような視線を向けた。
「リーゼロッテお姉様……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
嗚咽交じりの声。震える肩。絵に描いたような『清純な被害者』の姿。
(あら、禁術で他人の生命力を吸い上げておいて、随分と可憐な涙を流せるのね)
私はそっと顔を上げ、殿下を見つめた。
薄紫水晶の瞳に、一筋の涙を浮かべて。
「……かしこまりました、殿下」
声を震わせる。唇を噛み締める。俯く。
完璧だ。傷ついた令嬢の姿として、これ以上ないほどの出来栄えだろう。
周囲からざわめきが起こった。
「なんて酷い……」
「あのお優しいリーゼロッテ様を……」
「聖女様、本当に聖女なのかしら」
同情の声。憐憫の視線。それらが私に集まるのを感じながら、私は小さく微笑んだ。
(殿下。貴方は今、取り返しのつかない選択をしたのですよ)
「お幸せに、殿下」
私は深々と一礼する。
その瞬間、胸元で淡く光る——殿下に贈り続けてきた『お守り』と対になるペンダントが、微かに熱を持った。
五年分の記録。五年分の証拠。全てはこの中に。
「……リーゼロッテ嬢?」
踵を返す私に、殿下が戸惑ったように声をかける。おそらく、もっと縋りつくことを期待していたのだろう。泣いて喚いて、醜態を晒すことを。
生憎ですが、そんな茶番に付き合う義理はもうありませんの。
「私からは以上です。どうぞお気になさらず、舞踏会をお楽しみくださいませ」
微笑む。蜜のように甘く、毒のように致死的に。
広間を出る直前、人垣の向こうに漆黒の髪が見えた。
深い紺碧の瞳と、一瞬だけ視線が交わる。
レオンハルト・フォン・ヴァイスブルク。この国で唯一、私の本性を知る男。
彼は無表情のまま、しかしほんのわずかに口角を上げた。
(見届けてくれるのでしょう? レオン)
私もまた、誰にも気づかれないほど小さく微笑み返す。
広間の扉が閉まる。
その瞬間、私は深く、深く息を吐いた。
◇◇◇
「お疲れ様でございました、お嬢様」
影から現れたのは、侍女のエルザだった。栗色の髪をきっちりと結い上げた彼女は、いつも通りの無表情で私に外套を差し出す。
「ええ、本当に疲れたわ。五年間、あの愚か者に微笑み続けるのは」
私は仮面を外すように、表情を緩めた。控えめで儚げな令嬢の顔から、本来の——冷徹な策略家の顔へと。
「それはそれは。お優しい笑顔で、次は誰を破滅させるおつもりですか?」
エルザの声には皮肉が混じっている。けれどそれは親愛の証だ。彼女は私の右腕であり、唯一の共犯者なのだから。
「あら、言い方が悪いわ」
私は外套を羽織りながら、くすりと笑う。
「ただ真実を届けるだけよ。——蜜のように甘く包んでね」
夜風が銀灰色の髪を揺らす。
見上げた月は、まるで私を祝福するかのように煌々と輝いていた。
(さあ、始めましょうか)
五年間かけて調合した『毒』を、そろそろお届けする時間だ。
殿下、貴方が甘いと感じていたものの正体を、これからゆっくりとお教えして差し上げますわ。
◇◇◇
婚約破棄から三日が経った。
「——それで、聖女マリアベル様の過去の調査結果ですが」
エルザが差し出した書類を、私は優雅にティーカップを傾けながら受け取った。
シュヴァルツェン伯爵邸の私室。陽光が淡いレースのカーテン越しに差し込む、穏やかな午後のひととき。
……に見えるだろう。表向きは。
「孤児院出身、というのは公表通りですが」
「ええ」
「その孤児院で、不審な死亡事故が複数件」
「あら」
書類をめくる。
死亡した孤児たちには共通点があった。皆、聖女マリアベルと親しくしていた子供たちだ。そして死因は全員——原因不明の衰弱死。
(他者の生命力を吸い上げる禁術、ね)
聖女の『奇跡の治癒能力』。その正体を、私はとうに掴んでいた。
彼女が行う治癒は、自らの力によるものではない。他者から奪った生命力を移し替えているだけ。いわば、見えない吸血鬼のようなもの。
「表向きは疫病として処理されていますが、当時の司祭が不審に思って記録を残していたようです」
「有能ね、エルザ」
「お褒めに預かり光栄です。——それと、こちらが王太子殿下の横領に関する帳簿の写しです」
「あら、もう手に入れたの?」
「殿下付きの侍従の一人が、賭博で首が回らなくなっておりましたので。少々融通を利かせて差し上げましたら、喜んで協力してくださいました」
私は思わず微笑んだ。
蜜で誘い、毒で縛る。私の流儀を、エルザは完璧に理解している。
「リーゼロッテ」
窓辺から声がかかった。
振り返ると、いつの間にか黒衣の青年が佇んでいる。漆黒の髪に深い紺碧の瞳。彫刻のように整った美貌だが、表情は氷のように冷たい。
レオンハルト・フォン・ヴァイスブルク。ヴァイスブルク公爵家の嫡男にして、この国で王太子よりも実質的な権力を持つ男。
「ノックくらいしてくださらない? レオンハルト様」
「した。三回」
「聞こえませんでしたわ」
「お前が書類に夢中だっただけだろう」
深い紺碧の瞳が、私の手元——マリアベルの調査報告書を一瞥する。
「……また誰かを破滅させる気か」
「まさか」
私は完璧な微笑みを浮かべた。
「ただ真実を届けるだけよ。悪いのは真実を隠していた人たちでしょう?」
「詭弁だな」
「お褒めの言葉として受け取っておきますわ」
レオンハルトは小さくため息をついた。けれどその目に非難の色はない。
この男は知っているのだ。私がなぜこうなったのか。
十年前。重い病に倒れた幼いレオンハルトを救ったのは、私の母だった。貴重な魔道具と引き換えに、彼の命を繋ぎ止めた。
その代償として、母は政敵に弱みを握られた。そして——
(考えるのはやめましょう)
私は首を振って、過去を振り払う。
「それで? わざわざ公爵家のご嫡男が、婚約破棄された令嬢の元を訪れるなんて。噂になりましてよ?」
「構わない」
「私は構いますわ。まだ計画の途中ですもの」
「……忠告に来た」
「忠告?」
「王太子派閥が動いている。お前を社交界から完全に締め出すつもりらしい」
「あら」
私は微笑んだ。今度は、本当の笑みだった。
「それは好都合ですわね」
「好都合?」
「ええ。追い詰められた可哀想な令嬢が、必死に身を守ろうとして暴いてしまった真実——という筋書きの方が、同情を集められますもの」
レオンハルトの目が細められる。
「お前は……」
「なあに?」
「いや。……気をつけろ」
それだけ言い残して、彼は窓から姿を消した。
(気をつける、ですって)
私は小さく笑う。
気をつけるべきは、私ではない。今頃、婚約破棄の成功に酔いしれているであろう殿下と聖女様。そして彼らの周りに群がる者たち。
「お嬢様」
「なあに、エルザ」
「ゲルトナー侯爵家のアウグスト様が、早速お嬢様の悪評を広めていらっしゃるようです」
「あら、そう」
アウグスト・フォン・ゲルトナー。王太子の取り巻きの筆頭格。舞踏会で私を公然と嘲笑していた男だ。
「丁度いいわ。彼には『前座』を務めていただきましょう」
「前座、でございますか」
「ええ」
私は新しい書類を取り出した。ゲルトナー侯爵家の不正取引の記録。これもまた、五年間かけて集めた『蜜』のひとつ。
「蜜は甘ければ甘いほど、毒になるのよ」
窓の外では、薔薇の花が風に揺れていた。
血のように赤い、美しい薔薇が。
◇◇◇
社交界に復帰したのは、婚約破棄から二週間後のことだった。
リリアン伯爵夫人主催の茶会。表向きは『傷ついた令嬢を慰める』という名目の集まりだ。
「まあ、リーゼロッテ様。お気の毒に……」
「聖女様も酷い方ですわ。人の婚約者を奪うなんて」
令嬢たちの同情の声に、私は儚げに微笑んでみせる。
「いいえ、きっと殿下とマリアベル様は運命で結ばれていらしたのです。私などが間に立つべきではありませんでしたわ」
(白々しいにも程があるわね、私)
内心で苦笑しながらも、表情は完璧に制御する。
「なんて健気な……」
「やはりリーゼロッテ様こそ、真の淑女ですわ」
同情と称賛。それらは全て、私が望む通りに流れている。
そこへ——
「おや、これはこれは。傷心の令嬢様ですか」
嘲笑うような声が響いた。
派手な衣装を纏い、香水の匂いを撒き散らしながら現れたのは、アウグスト・フォン・ゲルトナーだった。金髪を流行りの形に整え、指には宝石をこれでもかと嵌めている。
「婚約破棄された身で、よく社交界に顔を出せますね。恥を知らないのですか?」
周囲の令嬢たちが凍りつく。
(来た)
私は睫毛を伏せ、傷ついたように唇を震わせた。
「申し訳ございません……ただ、皆様にご挨拶だけでもと思いまして……」
「ご挨拶? 笑わせる。王太子殿下に捨てられた女が、どの面を下げて」
「アウグスト様、言い過ぎですわ!」
リリアン伯爵夫人が声を上げる。しかしアウグストは鼻で笑った。
「伯爵夫人こそ、こんな負け犬を庇って。ゲルトナー侯爵家を敵に回す覚悟がおありで?」
(傲慢ね。本当に)
こういう輩が一番扱いやすい。自分の立場を過信し、周囲を見下し、足元を確認しない愚か者。
「……失礼いたします」
私は静かに立ち上がった。涙を堪えるように、ハンカチで目元を押さえながら。
「リーゼロッテ様!」
令嬢たちの悲痛な声を背に、私は茶会を後にする。
完璧な被害者の姿で。
◇◇◇
「アウグスト様を追い詰めるには、絶好のお膳立てでしたわね」
馬車の中で、エルザが淡々と言った。
「ええ。彼が私を侮辱したという事実は、もう社交界中に広まるでしょう」
「そしてその直後に、彼の不正が暴かれる」
「まるで因果応報のように、ね」
私は窓の外を眺めながら微笑んだ。
ゲルトナー侯爵家の汚職証拠は、既に然るべき筋に流してある。王国財務院の監査官で、私が密かに支援している人物の手元に。
あとは時間の問題だ。
「リーゼロッテ様を侮辱したから天罰が下った——そういう噂になりますわね」
「偶然よ。全ては偶然」
「ええ、ええ。偶然ですとも」
エルザの声には微かな皮肉が混じっている。私は思わず笑ってしまった。
三日後。
ゲルトナー侯爵家の不正取引が発覚し、侯爵位剥奪の沙汰が下った。
アウグストは泣き喚きながら王太子に助けを求めたという。しかし殿下は「そのような不正に関与した覚えはない」と切り捨てた。
(薄情な方。ご自身も横領しているくせに)
社交界は騒然となった。そして同時に、ある噂が囁かれ始める。
『リーゼロッテ様を侮辱した者には、天罰が下る』
迷信じみた噂。けれど貴族たちは、そういった話が大好きなのだ。
「これで、しばらくは私に手を出せなくなりますわね」
「ですが、王太子派閥が黙っているとは思えません」
「ええ。だからこそ、次の手を打ちますの」
私は新しい書類を取り出した。
聖女マリアベルの『奇跡』に関する調査報告。孤児院での不審死の記録。そして禁術に関する古文書の写し。
「エルザ。この情報を、教会の監査機関に届けてちょうだい」
「かしこまりました。どのルートで?」
「そうね……『匿名の善意ある市民』からということにしましょうか」
私は微笑んだ。
甘い蜜をたっぷりと塗った毒の手紙が、まもなく届けられる。
聖女様、貴女は私を『脅威にならない地味な女』と見下していらしたわね。
その判断が、どれほど致命的な過ちだったか。これからゆっくりと、思い知ることになりますわ。
◇◇◇
聖女マリアベルに対する教会の調査が始まったのは、ゲルトナー侯爵家没落から一月後のことだった。
「——聖女様の『奇跡』は、禁術ではないかという疑惑が……」
「まさか、あの清らかな方が」
「しかし、孤児院での不審死の記録が……」
社交界は再び騒然となった。
私は自室で、優雅に紅茶を啜りながらその報告を聞いていた。
「順調ですわね」
「はい。聖女様は現在、王城にて軟禁状態とのことです」
エルザが淡々と報告する。
「王太子殿下は?」
「必死に聖女様を庇っていらっしゃいます。『これは陰謀だ』と」
「あら、陰謀」
私は小さく笑った。
陰謀ではない。ただの真実だ。私は何も捏造していない。ただ、闇に葬られていた事実を掘り起こし、然るべき場所に届けただけ。
「しかし、殿下の庇い立てが、かえって疑惑を深めているようです。『何か隠しているのでは』と」
「当然ですわね。彼は横領の共犯者ですもの」
横領の証拠も、既に然るべき筋に流してある。今は聖女の件で手一杯だろうが、遠からず表沙汰になるはずだ。
「それと、お嬢様」
「なあに?」
「レオンハルト様がいらっしゃっています」
◇◇◇
「教会が動いたそうだな」
応接室に通されたレオンハルトは、開口一番そう言った。黒を基調とした装いは相変わらず隙がなく、彫刻のような美貌は相変わらず無表情だ。
「あら、早耳ですこと」
「お前の仕業か」
「私は何もしていませんわ。匿名の善意ある市民が、真実を届けただけです」
「詭弁だ」
「何度目のご指摘かしら」
私は肩をすくめた。
レオンハルトは深いため息をついて、ソファに腰を下ろした。その瞳には非難ではなく、どこか諦めに似た色が浮かんでいる。
「……お前の復讐は、どこまで続くつもりだ」
「復讐?」
「とぼけるな。聖女だけじゃない。王太子も、お前の父親も——全て標的だろう」
私は微笑みを消した。
「……貴方には隠し事ができませんわね」
「十年以上、お前を見てきた」
「そう。貴方だけよ、私の本当の顔を知っているのは」
窓の外を見つめる。
母を失った日のことを思い出す。政争の道具にされ、命を落とした母。貴重な魔道具を敵対貴族に渡さざるを得なくなり、その弱みを握られ、最後には——
(殺されたのよ。私の目の前で)
そして残された私を、父は『道具』としてしか見なかった。王太子との婚約も、家の利益のために強いられたもの。娘の意思など、最初から存在しないかのように。
「私は『道具』として生きることを強いられてきました」
「ああ」
「だから、私を道具として使った者たちに——同じ苦しみを味わわせたいの」
レオンハルトは何も言わなかった。
「止めないの?」
「止まるのか? 俺が止めろと言えば」
「……いいえ」
「なら言わない」
静かな沈黙が流れた。
窓から差し込む午後の光が、二人の間に柔らかな影を落とす。
やがてレオンハルトが立ち上がった。
「一つだけ言っておく」
「なあに?」
「復讐を終えた後のお前を、俺は見届けたい」
「……どういう意味?」
「そのままの意味だ」
深い紺碧の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。そこには何か、言葉にならない熱が宿っているように見えた。
「お前が自由になった時——その時に、改めて話したいことがある」
「レオン……」
「今は聞かなくていい。まずはお前の望みを果たせ」
彼は踵を返し、部屋を出ていった。
残された私は、しばらく動けなかった。
(復讐を終えた後、ですって)
そんな先のことを、考えたこともなかった。
復讐だけを見つめて、五年間を生きてきた。その先に何があるのか、考えることを避けてきた。
「……お嬢様」
エルザが静かに入ってきた。
「王太子殿下の横領が、財務院に発覚したようです」
「そう」
私は表情を引き締めた。
感傷に浸っている暇はない。復讐は、まだ終わっていないのだから。
◇◇◇
王太子派閥の崩壊は、雪崩を打つように進んだ。
聖女マリアベルの禁術使用が確定し、聖女の称号剥奪。教会は彼女を『偽りの聖女』として糾弾し、これまでの『奇跡』の全てが見直されることになった。
王太子エドワルドの横領が発覚し、王位継承権剥奪。国庫から流れた金の行方が次々と明らかになり、民衆の怒りが王城に向けられた。
彼らの周囲にいた貴族たちも、次々と不正が暴かれて没落していった。
全ての崩壊の起点には、かつて私が『善意で』渡した情報や人脈があった。
親切な令嬢として差し出した助言。困っている貴族に紹介した『信頼できる』商人。悩みを聞いてあげた侍女たち。
全ては、いつか使うための『蜜』だった。
「最近、社交界でこんな噂が流れております」
「なあに?」
「『あの方々を没落させたのは、リーゼロッテ様の呪いではないか』と」
「まあ、失礼な噂ね」
私は優雅に微笑んだ。
「私は何もしていませんわ。ただ——」
窓の外を見つめる。
「真実を届けただけですもの」
呪いなんて、そんな曖昧なものじゃない。
これは計算と戦略と、五年分の忍耐の結晶。
蜜のように甘く、毒のように致死的な——復讐の果実。
◇◇◇
全てを失った王太子が、私の元を訪れたのは、深夜のことだった。
「リーゼロッテ……!」
応接室に駆け込んできたエドワルドの姿は、かつての面影を失っていた。
乱れた金髪。充血した碧眼。皺だらけの衣服。王族としての威厳も、貴公子としての気品も、全て剥がれ落ちていた。
王太子という地位も、婚約者という後ろ盾も、全てを失った男の末路がそこにあった。
「殿下。こんな夜更けに、何のご用でしょうか」
私は完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
「助けてくれ……! 君しかいないんだ、君だけが僕の味方だった!」
エドワルドは床に崩れ落ち、私の足に縋りついた。かつて傲慢に私を見下ろしていた男が、今は惨めに這いつくばっている。
「マリアベルは僕を裏切った。あいつは僕を利用していただけだった。父上は僕を見捨てた。誰も僕を助けてくれない……!」
(ああ)
私は静かに彼を見下ろした。
かつて舞踏会で傲慢に婚約破棄を告げた男。私の五年間の献身を『重荷』と切り捨てた男。私を道具としてしか見ていなかった男。
その成れの果てが、これ。
「殿下」
「なんだ、リーゼロッテ。君は許してくれるだろう? 君はいつも優しかった。僕のことを誰よりも愛してくれていた」
「ええ、そうでしたわね」
私は微笑んだ。
蜜のように甘く。
「私は殿下のことを、誰よりも愛していました」
「だろう? だから——」
「——と、思っていらしたのね」
エドワルドの顔が凍りついた。
「殿下。私の愛は、最初から毒でしたのよ?」
「な……何を……」
「貴方が甘いと感じていたのは、毒が回る前兆でしたの」
私は一歩後ろに下がった。
縋りつく手が空を切る。
「私が殿下に贈り続けた『お守り』、覚えていらっしゃる?」
「お守り……? ああ、あの——」
「殿下の行動を逐一記録する魔道具でしたの。五年分の記録、全て私の手元にありますわ」
「なっ……!」
「横領の証拠も、不正の記録も、密会の様子も。全て、私が集めたものですの」
エドワルドの顔から血の気が引いていく。
「そんな……嘘だ……」
「嘘ではありませんわ。殿下、貴方は最初から私の掌の上だったのです」
私は窓辺に歩み寄った。
「私を『地味な女』と見下していたマリアベル様も。私を『道具』としてしか見なかった父も。全て、同じ」
「リーゼロッテ……お前、最初から……」
「ええ。最初から、貴方を捨てる準備をしていましたの」
振り返る。
薄紫水晶の瞳には、もう偽りの優しさは宿っていない。氷のような冷徹さだけが、月明かりに照らされている。
「ねえ殿下。蜜は甘ければ甘いほど、毒になるのをご存知?」
「く……狂っている……!」
「狂っている? そうかもしれませんわね」
私は静かに笑った。
「でも、私を狂わせたのは貴方たちですわ。殿下」
◇◇◇
エドワルドが衛兵に連行されていく姿を、私は窓から眺めていた。
彼の叫び声が遠ざかっていく。「僕は王太子だぞ」「こんな扱いは許さない」——もはや誰も耳を貸さない空虚な言葉。
「終わりましたわね」
「ああ」
いつの間にか傍らに立っていたレオンハルトが、静かに頷いた。
「後味は?」
「……空虚、ですわね」
正直に答えた。
五年間、この瞬間のために生きてきた。復讐を果たすことだけを考えて。仮面を被り続け、蜜を調合し続け、毒を仕込み続けた日々。
それが終わった今、胸に残るのは——
「虚しいわ」
「だろうな」
レオンハルトの大きな手が、そっと私の肩に置かれた。温かい。こんな温もりを感じたのは、いつぶりだろう。
「復讐は、そういうものだ」
「知っていたの?」
「ああ。だから、俺は止めなかった」
「……どういう意味?」
「お前が自分で気づく必要があった。復讐だけでは、心は満たされないと」
窓の外では、夜明けの光が空を染め始めていた。闇を追い払うように、淡い紫から橙へと、空が色を変えていく。
「レオン」
「なんだ」
「貴方が話したいことって、何?」
「……聞くのか? 今」
「ええ。もう隠し事はいらないでしょう?」
レオンハルトは私の方を向いた。
深い紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。いつも無表情なその顔に、今だけは何かの感情が浮かんでいた。
「お前の母上に命を救われた日から、俺はずっとお前を見てきた」
「知っているわ」
「お前が復讐に身を焦がす姿も、毒を調合し続ける姿も。仮面の裏で泣いていた夜も。全て見てきた」
「それで?」
「それでも、俺はお前を求めている」
息が止まった。
「仮面の裏の冷酷さも、復讐に染まった心も。全てを知った上で、俺はお前が欲しい」
「レオン……」
「答えは今すぐでなくていい。ただ——」
彼の手が、そっと私の頬に触れた。固い掌。けれど、どこまでも優しい温度。
「これからは、毒ではなく蜜を味わえ。リーゼロッテ」
涙が溢れた。
五年間、いや、十年間。ずっと堪えていた涙が、堰を切ったように流れ出す。
「私は……」
「泣いていい。もう仮面は要らない」
「っ……」
レオンハルトの胸に顔を埋める。彼は何も言わず、ただ私を抱きしめてくれた。
窓から差し込む朝日が、二人を優しく包み込む。
長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
◇◇◇
後日談。
王太子エドワルドは全ての爵位を剥奪され、辺境の修道院へ送られた。二度と都に戻ることは許されないという。
聖女マリアベルは禁術使用の罪で処刑された。最期まで「私は悪くない」「全てあの女のせいだ」と叫んでいたという。誰も彼女の言葉を信じなかった。
シュヴァルツェン伯爵——私の父は、王太子派閥との繋がりが暴かれ、爵位を返上することになった。
「お前が……お前がこんな……」
全てを失った父が、私を見上げる。かつて娘を道具としてしか見なかった目に、今は恐怖と困惑が浮かんでいた。
「父様。私を道具として扱った報いですわ」
私は冷たく微笑んだ。
「母様を見殺しにした時から、この日は決まっていたのです」
「リーゼロッテ、待ってくれ——」
「さようなら、父様」
私は振り返らずに、実家を後にした。
もう二度と、この場所に戻ることはないだろう。
◇◇◇
「お嬢様、いえ——リーゼロッテ様」
エルザが、珍しく柔らかい声で呼びかけた。
「なあに?」
「ヴァイスブルク公爵家から、正式な求婚状が届いております」
私は手紙を受け取り、開封した。
『リーゼロッテへ
俺は言葉が下手だ。だから簡潔に書く。
俺の妻になってほしい。
お前の全てを知った上で、それでも俺はお前を求めている。
答えを待っている。
レオンハルト・フォン・ヴァイスブルク』
レオンハルトらしい簡潔な文面。けれど、その短い言葉の一つ一つに、誠実な想いが込められていた。
「エルザ」
「はい」
「返事を書くわ。……『お受けいたします』と」
エルザの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「おめでとうございます、リーゼロッテ様」
「ありがとう、エルザ。——これからも、そばにいてくれる?」
「もちろんです。お嬢様のお毒舌に付き合えるのは、私くらいのものですから」
私は思わず笑ってしまった。
窓から差し込む陽光が、銀灰色の髪を輝かせる。
五年間、毒を調合し続けた手で、私は初めて——
本当の幸福を、掴もうとしていた。
(蜜のように甘い愛を、今度こそ)
毒ではなく、本物の蜜として。
◇
数ヶ月後。
ヴァイスブルク公爵邸の庭園で、私は薔薇の手入れをしていた。
「リーゼロッテ」
背後から声がかかる。振り返ると、レオンハルトが立っていた。
「あら、お帰りなさい。会議は終わったの?」
「ああ。——また薔薇を増やしたのか」
「ええ。赤い薔薇は美しいでしょう?」
「血の色だな」
「まあ、縁起でもない」
私は笑った。今度は、何の偽りもない本当の笑顔で。
レオンハルトの表情が、ほんのわずかに緩む。
「……幸せか?」
「どうかしら。まだ、よくわからないわ」
正直に答える。
長い間、復讐だけを見つめて生きてきた。幸福という感情を、私はまだ上手く認識できない。
「でも——」
私はレオンハルトの手を取った。
「貴方と一緒にいると、悪くない気分よ」
「そうか」
レオンハルトが私の手を握り返す。無骨で大きな手。けれど、どこまでも優しい温度。
「なら、いい」
「それだけ?」
「俺は言葉が下手だと言っただろう」
「もう少し甘い言葉を期待していたのだけれど」
「……善処する」
不器用な夫だ。けれど、そんな彼が愛おしいと思える自分がいる。
「ねえ、レオン」
「なんだ」
「蜜は甘ければ甘いほど、毒になる——そう言ったことがあるでしょう?」
「ああ」
「でも、本物の蜜は——」
私は微笑んだ。
「ただ、甘いだけなのね」
陽光が庭園を照らす。赤い薔薇が風に揺れる。
毒を調合し続けた令嬢は、ようやく本物の蜜の味を知った。
これは復讐の物語であり、再生の物語であり——
何より、愛の物語だった。
『蜜毒の令嬢』——了




