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第8話 彩花の日

《《火曜の夜、7時》》


「……っ、今ごろ、悠真と彩花姉ちゃんは何してるわけ? どっちの部屋? 悠真の部屋? 私がいた、あの同じ場所で……。鼻をつくような、あの熱っぽい空気の中に二人でいるの?」


 私は自室のベッドに突っ伏し、シーツに顔を埋めていた。スウェットにショートパンツという格好は、締め付けがなくて楽なはずなのに、胸の奥だけが岩でも詰め込まれたように苦しい。


 机の上で放り出された物理のテキストは、もはや無機質な記号の羅列にしか見えない。時計の針は午後8時を回った。今日は彩花の実験が早く終わる日。それはつまり、悠真の隣を独占する「正妻」の時間が始まったことを意味していた。


 昨夜、あの部屋で悠真と肌を重ねた記憶が、呪いのように身体に焼き付いている。指先が触れた時の熱、耳元で掠れた声、ゴスロリ衣装のレースが肌をなぞる感触。


 なのに今、その熱を享受しているのは私ではなく姉なのだ。同じ食卓を囲み、同じ体温を分け合い、互いの境界線が溶け合うような時間を過ごしている。


「キィィ~っ! 想像しただけで、頭が割れそう!」


 私は子供のように足をバタバタさせ、シーツを蹴り上げた。


 陸上部で鍛えた身体は、皮肉にも人一倍敏感で、エネルギーに満ち溢れている。昨夜満たされたはずの渇きが、嫉妬という燃料を得て、さらに激しく身体の芯を焼き焦がしていた。これはもう、スポーツで発散できるような健全な熱じゃない。自分の中に潜む「獣」が、檻を壊して暴れ出そうとしている。


 脳裏にこびりつく二人の残像を振り払おうと、私は慌てて自分の手を抑えつけた。


(姉と、その恋人が睦み合う姿を妄想して、一人で悶々とするなんて……。凜花、あんた最低だよ。……でも、悔しくて死にそう……!)


 気を紛らわせようと、13インチのタブレットを起動した。こういう時は、落語の粋な世界に逃げ込むのが一番だ。


 落語好きの美咲姉ちゃんに連れられて寄席に通うようになってから、あの独特のが好きになった。最近は『あかね噺』の影響で、若手や女性の落語家にも興味がある。


「……金原亭杏寿さん。あ、この『幾代餅』いいかも」


 画面の中で、艶やかな花魁姿の杏寿さんが語り出す。最高級の遊女と一途な職人の、身分違いの恋。その情景に没入しようとするけれど、身体の奥に居座る重い熱は、一向に引いてくれない。


「良い……すごく良い落語なのに。……ちょっと、私! なんでこんな時にまで、身体が疼いてるのよ!」


 自分の不甲斐なさにツッコミを入れながらも、昂ぶる生存本能は制御不能だった。


 ふと、親友の遥にからかわれた言葉が蘇る。


『そんなに悶々としてるなら、道具にでも頼れば?』


 でも何をやっても、今夜の私には何も入ってこない。悠真のことが、頭の隅から追い出せなかった。


 枕元のスマホが、現実へと引き戻すように震えた。


『凜花、生きてる? 昨日の戦果、報告しなさいよ』


 遥からのLINE。私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、迷わず通話ボタンを押した。


「遥! びっくりしたじゃない!」

「何よ、その慌てよう。……それより、声が変だよ。昨日あんなに気合入れて『出陣』したのに、負け戦だったわけ?」


 遥の指摘通り、私の声は自分でも驚くほど掠れていた。


「敗北っていうか……今日は『姉の日』なの。あのアパートで、二人が今この瞬間も……って考えたら、もう気が狂いそう! 外に飛び出して走り回りたいけど、そんな気力もないし!」

「……重症だね。よし、今から渋谷でも出ない? 甘いものでも食べて、そのドロドロした妄想を洗い流しなよ」

「ヤダ! 誰にも会いたくない。今の私の顔、鏡で見なくてもわかるもん。絶対、般若みたいになってるから」


 受話器の向こうで、遥が短いため息を吐くのが聞こえた。


「……わかったわよ。じゃあ、私がそっち行く。お菓子と炭酸、買い込んでいくから。部屋、入れてくれるでしょ?」

「……うん。遥ならいいよ。早く来て。一人だと、寂しくておかしくなりそうだから」


《《凜花の自室、9時半》》


「お邪魔しまーす。……って、何この部屋。空気が重たいんだけど」

 部屋に入るなり、遥が眉をひそめた。


 私はベッドの上で、昨夜脱ぎ捨てたゴスロリの衣装を抱きしめて座り込んでいた。まだ、彼の残り香が繊維の奥に潜んでいるような気がして、洗うことなんてできなかった。


「遥……私、どうしたらいいんだろう。悠真を独占したい。彩花姉ちゃんなんて、どこか遠くの研究所に永久に閉じ込められてればいいのに」

「凜花、目が座ってるよ……」


 遥はコンビニ袋を床に置き、私の隣に腰を下ろした。トレードマークのポニーテールを解くと、彼女の纏う空気が一変する。


「ねえ、凜花。……悠真くんのことばかりで、今自分の隣に誰がいるか、ちゃんと見えてる?」

「……遥。だって……悠真への気持ちが、どうしても頭から離れなくて」


 無意識にこぼれた言葉。その瞬間、部屋の温度が数度下がった気がした。黒縁メガネの奥、遥の瞳が鋭く細められる。


「……そうね。凜花がそういうなら、仕方ないけど」


 遥が不意に私の肩を掴み、まっすぐに目を覗き込んだ。


「あっちの二人が何をしてるか、そんなに気になる?……だったら、今夜くらいは別のことで頭を塗り替えなよ」


 彼女は私を引き寄せ、そっと抱きしめた。悠真の陽炎のような熱さとは正反対の、静かで落ち着いた体温。それが、嫉妬で沸騰しきった私の頭を、じわりと鎮めていく。


「今、あんたの隣にいるのは誰?悠真くん?彩花さん?……違うでしょ。私だよ」


 耳元で、遥の声が低く響く。


 彼女は私の髪を指で掬い上げ、額にそっと口づけを落とした。メガネを外した彼女の瞳は、底知れない執着の色を湛えている。


「女同士だからって、何が違うの。今夜はちゃんと、私のことだけ見てよ、凜花」


 すべて、見透かされている。


 姉への嫉妬に狂い、悠真の不在に揺れていた私の、剥き出しの心を。


 遥は私の手を取り、指を絡めた。その温もりは、今夜の私が何よりも必要としていたものだった。


 私は力が抜けるように彼女の肩に頭を預けた。張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていく。


「……遥。ありがとう」


 声にならないくらい小さな言葉だったけれど、遥は確かに聞いてくれていた。


 四谷のアパートの光景を記憶の隅に追いやるように、私は親友の腕の中で、ただ静かに目を閉じた。



※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。

※性描写を含みます。

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