第9話 彩花の言霊
《《2026年9月下旬、北千住「分銅屋」》》
凜花が、「『これね』、『これですわ』って、初めて見るのに……わかってるの?何がわかったの?真理子?」と呟いた。
「う~ん、なんだろう?」と真理子が首をひねった。
「あなたたちが来る前に、真理子と話したのよ。黒い言霊って、真理子は言うのよ」
「黒い言霊。そうね。何かの想念。悪い予感。世界が歪になる……これ、凜花のシスターの書いたものでしょ?」
「ハイ……視えるの?」
「ええ、視える……凜花、見たい?私の見ている世界?」
「凜花ちゃん、お勧めしないわ」とアンヌ先生。真理子の見ている世界?
アンヌ先生が、二つのプリントを手に持って、英語の論文を読み出した。日本語の方は真理子に渡した。二人は読み始めた。真理子、わかるのかしら?
凜花が私の耳に口を寄せた。「アンヌ先生って、なんか……ふわっとしてるね」
「うん」
「強そうに見えない」
「……凜花、静かにして」
五分後。
アンヌがプリントを閉じた。ぐい呑みを飲み干した。テーブルに置いた。真理子と顔を見合わせた。それから、静かに口を開いた。
「書いたのは、凜花のお姉さんよね?」
「ハイ、私の姉です」と凜花が答えた。「東大化学科で……ニューヨークの大学に留学してます」
「……そう」
アンヌは少しの間、黙っていた。
「優秀な人が書いた論文ね。文章は整っているし、引用も適切。科学的にもっともらしく見えるように書いてある」
凜花が「やっぱり難しい日本語だったんだ!」と言いかけた。「凜花」と悠真が静かに制した。
「でも」とアンヌが続けた。声のトーンは変わらない。柔らかいままだ。「これは、危険な文書ね。ヤバいね、真理子」
部屋が静かになった。
「なぜかを、説明する。医学の知識がない人にもわかるように」
真理子がグラスを置いた。私も背筋を伸ばした。凜花でさえ、黙った。
「聴衆が五人もいるわね。真理子、私とあなたで問答しましょう。それで、他の人は、わからない部分を聞いてちょうだい」
《《彩花の論文》》
「この論文は、一見すると科学的に無害な報告書のように見えるけど、実は倫理的にも社会的にもとても危険な内容を含んでいるのよ」とアンヌ先生が説明を始めた。さすがに凜花も黙って聞いている。
「なぜかを、ステップバイステップで説明します。まず、この論文は『性ホルモン』という、体内のバランスを司る物質を薬でコントロールして減らす、人の体を男性らしさや女性らしさから変える、その方法について書いているの」
「アンヌ、この論文における『性ホルモン』を説明してあげて」と真理子。
「性ホルモンは、男性らしさや女性らしさを決めるホルモンのこと。男性ホルモンは、主に精巣から分泌されるテストステロン、女性ホルモンは、主に卵巣から分泌されるエストロゲンとプロゲステロンのこと。男性側では、声が低くなる、ひげが生える、筋肉がつく、そういう第二次性徴で現れる変化を促します。女性側では、胸が大きくなる、月経が来る、脂肪のつき方が変わるという変化をもたらします」
「その性ホルモンを、人為的に薬でコントロールして減らすということね」
「そう。特に、子供や若い人たちのジェンダー、つまり、自分を男か女か、それ以外かと思う気持ちに合わせて、体を変える薬の話。例えば、思春期の子供に薬を使って体の成長を止める、という内容が出てきている。これが、なぜ危険か?」
「ここまでみんな良いわね?」と真理子が私たち聞いた。みんな頷く。
「まず、この論文は、子供の体に大きなダメージを与えるリスクを軽く見せているように見せかけている記述をしている点。論文では、GnRHアナログという薬を、12歳くらいの子供に使って、胸が大きくなったり声が変わったりするのを止める、と書いています。でも、これは子供の骨が弱くなったり、将来骨折しやすくなったりする問題を引き起こす可能性が高い」
「それは、中世ヨーロッパで、聖歌隊の男子のキンタマを切除した、ボーイソプラノの声のままにしている、と同じ事?」真理子、キンタマだって!……ハイ、聞きます。
「そのとおりよ。人為的な陰嚢切除じゃなく、薬によって、性ホルモンの分泌を抑えられる可能性を示唆しているの。でも、最新の研究でも、骨の密度が減って、成長が止まるケースが報告されている」
「男子の場合よね?女子は?」
「不妊になるリスクも大きいのに、論文は『管理できる』、『可逆的である』と簡単に言っているわ。誰が書いたのか知らないけど、ヤバいわ」
「凜花のすぐ上のシスターよ」
「ああ、そうだった。それで、薬を止めた後も体に残る影響があって、子供の将来を台無しにするかも知れない。私のような医者は、子供の体はまだ成長中なので、そんな強い薬を安易に使うのは倫理的に許せない。子供は自分で判断できないのに、大人が決めてしまうのは、虐待に近い」
「薬に依る、子供の同意無しの去勢、ということかしら?」
「その通り。次に、精神的・社会的影響を無視している点。この薬を使うと、うつ病や不安が増えたり、心臓や血糖の問題が出たりするリスクがあるわ」
「インフルエンザのタミフルの副作用みたいなもの?」
「もっと酷いわね。論文は『精神衛生が改善する』と肯定的に書いているけど、実際の研究では、薬を使った子供たちの間で自殺の考えが増えたケースも報告されている」
「続けて」
「この論文は、性差、男女の垣根を『縮小』するのを良いことのように書いているけど、実際は、人間の体は自然にできていて、それを薬で強制的に変えるのは、倫理的に疑問。女性の医者として、妊娠や出産、ホルモンの変化を多く見てきたけど、そんな自然のプロセスを止めるのは、女性の権利や多様性を本当に尊重しているとは思えない。社会的に、トランスジェンダーの人を支援するのは大事だけど、子供にまで広げてリスクを隠すのは、差別を逆手に取ったような感じがプンプンする」
「投与量は?」
「この論文にあるルプロレリンという化学物質の場合、子供のホルモン療法で約30μg/kg。4週間くらいから効果が出始める。シプロテロンアセテートの場合、テストステロン抑制で10-12.5mg/日ね」
「すごく微量みたいだけど?」
「いいえ、医学的に極微量というのは、ナノグラムやピコグラムレベルなの。だから、微量だけど、極微量じゃない」
「よく、SFやスリラーの小説にある、水道水やダムに投げ込むという話ではないってこと?」
「イエス。でも、これらの薬の投与を大っぴらにできたら、医者は薬を処方できるから、子供の同意なしに、親が投与させられる。そして、子供は、男でもない、女でもない存在になる、ということ」
要するに、この論文は科学の名を借りて、子供や若い人の体と心に深刻な害を及ぼす可能性のある薬を、まるで安全で素晴らしいもののように描いているのよ。誰が書いたか知らないけど。
倫理的には、人権侵害につながる、社会的には誤情報を広めて混乱を招く危険がある。
私たちは、医学を人の幸せのために使うべきなのに、こんな内容はそれを逆行させると思うわ。
真理子を除いて、みんな息をのんだ。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




