第5話(2) 遥との三位一体解消、遥の恋
《《サークル室》》
九月の初め、私はサークル室で真理子の隣に座っていた。
「真理子」
「なに?」
「……私、原田先生のことが、好きかもしれません」
真理子は本のページをめくる手を止めなかった。
「かもしれない、じゃなくて?」
「……好きです」
「いつから」
「最初のメールが私宛に直接来た時ぐらいから、だと思います」
真理子はそこで本を閉じた。私を見た。
「遥、本気なのね」
「……はい」
「凜花には言ったの?」
「まだです」
「悠真には?」
「……言えません」
真理子は少しの間、黙っていた。
「遥、あなたが本気でも、私は何も言わない。でも、一つだけ言っておきますわ」
「はい」
「原田一真は、人間を見るのが苦手な人よ。数式は読める。データは読める。でも、人の気持ちは読めない。だから、あなたが伝えなければ、永遠に気づかないわ」
彼女と話すと調子が狂う。でも今は、調子が狂う感じがしなかった。
《《原田の部屋》》
九月の終わり。
私は原田の研究室ではなく、本郷の教員宿舎にある原田の部屋のドアの前に立っていた。住所は、研究室の院生が教えてくれた。「先生に急ぎの書類を届けてほしいと頼のまれた」と嘘をついた。
夜の九時。ノックした。
「誰だ」
「八重樫です」
「……何の用だ」
ドアが開いた。原田は白いTシャツ姿で、手に論文を持っていた。
「入力バイトは今日は入っていない」
「わかっています」
「……入れ」
ドアが、開いた。
部屋は悠馬の部屋と似ていた。だが、殺風景だ。装飾が何も無い。壁はまっさらのまま。ミニマリストの悠馬よりも酷い。
原田は、悠馬の部屋のようなダイニングテーブルに座って、ホチキスで止められた書類を蛍光ペンでチェックしていたようだ。論文の草稿だろう。私の入力結果も入っているんだろうか?読みたい。手には酒のグラスを持っていた。
「座れ」と自分の前の椅子を指さした。私は、コートを着たまま座った。
「コートを脱がんのか?暑いだろう?」
「いえ、このままで」
「勝手にしろ……コーラを飲むか?清涼飲料水はコーラしかない」
「先生は何をお飲みですか?」
「酒だ。見ればわかるだろう?」
「私も同じものを」
原田は何も聞かずに、キッチンに立って、ウイスキーのロックを私の前においた。物理科では、酒と言えば、水戸泉かウイスキーロックだけなのかな?
「……あの、院生から、来週でバイトは終わりと言われまして、それでご挨拶に……」
「研究室で良かっただろうに」
「ご不在のことも多いですし、駒場に戻りますので」
「そうか」
「……あの、私は……先生のことが……好きです……」
「俺はそういう感情に興味がない……」
「わかってます。ある人に言われました。先生は『人の気持ちは読めない』って」
「真理子、だな?」
「真中先輩をご存知ですか?」
「昔、付き合った。つまらない人、と言われた。別れた」
「真理子と関係があった……」
「ああ、お互い、感情抜きで」
「私は先生に感情を持ってます。真理子と違います」
「俺は持てないんだ、誰にも。真理子は……23歳だ。100歳にも14歳にも見える。不思議な女だな」
「真理子は女です……私は……お子ちゃまです」
「八重樫は、18歳に見える18歳だ」
「9月で19歳になりました」
「俺は来月28だ。年の差は縮まらん」
「来月……お誕生日会を先生と二人でしたい……」
「一つだけ、八重樫は真理子に似ている。話の文脈がつながっていない」
「あら?」真理子に影響されたの?
「暑くないのか?」
「……暑いです」
「真理子は暑がらなかったぞ」
「何のお話ですか?」
「真理子も初夏にこの部屋にコートを着てきたことがあった。同じだ。脱げと言っても平気と言った」
「……」
「それで、その内、脱いだ……ニーハイのストッキングに黒のゴスロリだった……」
私は立ち上がった。コートを脱いだ。「私は……白です……」
「真理子のサークルはみんな同じ行動をするのか?」
「……私と……友達だけだと思います」
「加藤恵美が言ったのか?俺を挑発してこいとでも?」
「恵美さんの指示じゃありません。私の決断です」
「何の決断なんだ?」
「先生に……私の覚悟を見てもらいたい決断です。これが私の勝負服です」
「……覚悟はわかった。帰りなさい」
「イヤです」
原田はため息をつき、手元のグラスをテーブルに置いた。氷がカランと鳴る。
「八重樫、お前はまだ19だ。俺は来月28だ。年の差は縮まらん」
「年の差は、さっきも言われましたよ」
「真理子に言われた。『先生、あの子が先生に興味を持ち始めているとしたら、どうしますか?』と」
「それで?」
「バイトに対して何らの感情と持つのはムダだ、と答えたら、真理子がそういうことを聞いてないわ、と言うんだ」
「それで?」
「『9歳違う。でも、高校の先生と生徒じゃない。あの子は成人よ。構うことがあるのかしら?腑抜けなの?』と」
「先生、腑抜けなの?私に感情が持てない?私がお嫌いですか?」
「他の女性以上に八重樫には感情がわくようだ。変だな」
「じゃ、じゃあ、抱いて!先生、私を抱いてちょうだい!」
私は一歩、彼に近づいた。原田は動かなかった。でも、その瞳は確かに私の「白」を、そして震える肩を捉えていた。
彼は私を引き寄せた。悠馬の腕の中にあるような安心感は無かった。あるのは……喉を焼くような渇きだけ。
私は目を閉じた。
…………
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
私は原田の腕の中で、天井を見ていた。
隣で、原田が静かに寝息を立てている。
三位一体が、崩れた夜だった。
《《報告》》
翌日、私は四谷の悠真の部屋に行った。悠馬と一緒に凜花もいた。
「遥、どうしたの?顔色が……」と凜花が言った。
「凜花、悠真、話があります」
私は二人の顔を見た。
「私、好きな人ができました。原田一真准教授。先生です」
凜花がポカンとした。
「え?……え??」
悠真は少しの間、黙っていた。窓の外を見た。それから、静かに言った。
「……そうか」
沈黙が落ちた。
悠真の横顔を見た。何かをこらえているのが、わかった。こらえながら、それでも表情を動かさないようにしている。私は胸が痛かった。
「凜花、悠馬、私は、初めてを悠馬として、その後、三人で何度も抱き合ったけど、それは親友の御こぼれを安全な位置からつまみ食いしていただけ。凜花や真理子、恵美みたいな女になりきれてなかった。お子ちゃまだった……」
「遥、何の話をしてるの?バイト先の准教授としちゃったんでしょ?」
「凜花、黙って。遥の話を聞こうよ」
「……」
「私は、凜花が無意識でやっていることを意識的にやった。真理子みたいじゃなく、無様で不器用だけど、やった……男を所有したいと思った。男の女になりたいと思った」
「遥?……」
悠真は立ち上がって、キッチンに向かった。麦茶を三つのグラスに注いで、戻ってきた。私と凜花の前に置いて、自分のグラスを持ったまま、また窓の外を見た。
「悠真……」
「……遥、ぼくも……」悠真は窓の外を見たまま言った。「……凜花がいても、遥が来てくれる日は楽しかったのに今、気づいた」凜花が小さく息を呑んだ。「遥が部屋に来るのがぼくは嬉しかった。凜花の親友だから、と自分に言い聞かせながら、遥が帰った後、少し寂しかった。それだけ」
悠真はそこで口を閉じた。
私は何も言えなかった。
凜花が私の手を握った。強く。
「遥、泣いてるよ」と凜花が小さな声で言った。
私は自分が泣いていることに、その時初めて気づいた。
「悠真、私……」
「言わなくていい」悠真がようやく窓から目を離して、私を見た。穏やかな顔だった。「遥が正直に言いに来てくれただけで、十分だ。本当に」
凜花が私と悠真を交互に見た。
「ちょっと待って、整理させて。遥が、バイト先の?27歳の?原田准教授に抱かれて?それで、何?お子ちゃまだとか、女だとか?」
「凜花、後で、悠馬に聞いて……」
「……遥のくせに!」遥のくせに、とはどういう意味だろう。でも凜花が言うと、不思議と怒れなかった。
「凜花、遥のくせに、はひどいだろう」と悠真が苦笑した。
部屋に、小さな笑いが起きた。
凜花が「三位一体、終わっちゃったね……」とポツンと言った。
やれやれ。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




