第5話(1) 遥との三位一体解消、スパイ
《《2026年8月、本郷キャンパス》》
《《原田研究室》》
夏休みに入って最初の月曜日。私は本郷キャンパスの理学部1号館の前に立っていた。駒場とは空気が違う。建物が古くて重い。廊下の匂いが、知の堆積みたいだ。
掲示板に貼られた手書きの紙を探した。「理論素粒子物理学研究室 夏期シミュレーション入力バイト募集」。これだ。
恵美から言われた通り、メールで連絡して、面接を経て採用された。面接の相手は原田准教授ではなく、研究室の院生だった。「タイピングが速ければそれで十分」と言われた。
私のタイピングは速い。問題ない。
4階の角部屋。ノックして入ると、研究室は薄暗かった。カーテンが半分閉まっていて、外の夏の光をシャットアウトしている。本と論文の山。ホワイトボードに数式がびっしり。院生が二人、モニターに向かっていた。
「八重樫遥です。今日からバイトでお世話になります」
「ああ、聞いてる。そこのPCを使って。データのフォーマットはこれ」と院生の一人がUSBを渡した。
それだけだった。挨拶もそこそこに、私はPCの前に座った。
原田准教授はいなかった。
《《三日後》》
原田一真を初めて見たのは、バイト三日目の午後だった。
ドアが開いて、人が入ってきた。背が高い。ボサボサの黒髪。無精髭。白いシャツがよれよれで、袖が片方だけ捲れている。手にコーヒーのマグカップを持っていた。院生たちが「先生、おかえりなさい」と言った。
原田はそれに答えず、ホワイトボードの前に立って、数式を書き始めた。ホワイトボードマーカーのキュッキュという音だけが響く。
私はPCに向かいながら、横目で見ていた。彼の手が動く。数式が展開される。途中で止まって、頭を掻く。また書く。消す。また書く。
五分後、振り返った。
「入力のバイト、お前か」私を見て言った。
「八重樫遥です。教養学部の一年生です」
「そうか……」
それだけ言って、自分の席に座った。モニターを開いて、キーボードを叩き始めた。
彼女と話すと調子が狂う、という感覚を私は真理子に対して使ってきた。でも今、私は別の感覚を覚えた。
この人は、私のことが見えていない。データとしての価値もない。空気と同じだ。
なぜか、それが気になった。
《《真理子》》
翌週、サークル室で真理子が本を読んでいた。私が入っていくと、本から顔を上げた。
「遥、バイト、どうですの?」
真理子はこの会話を聞いていたはずだ。カミオカンデの管制室で、恵美が私に命じた場面を。でも何も言わなかった。北千住の帰り道も、翌日のサークルでも。
「……真理子、原田准教授のこと、知ってますか?」
真理子はページをめくる手を止めた。一瞬だけ。
「知ってますわ。同じ本郷ですもの」
「それだけですか?」
「それだけよ」
「印象とか……どんな人ですか?」
「つまらない人」
「つまらない?」
「ええ。研究しか見えていない。人間が見えていない。ああいう人は、自分では気づいていないけど、孤独なのよ」
真理子はまた本に目を落とした。私はそれ以上聞かなかった。
《《原田一真》》
バイトは週三日、午後二時から六時まで。シミュレーションの数値データを所定のフォーマットに入力する単純作業だ。でも、私はデータを入力しながら、数式を読んでいた。
フォーマットに打ち込む数値の意味を考えていた。これはニュートリノの質量行列の固有値だ。この係数は何を意味する?ポンティコルボ/牧/中川/坂田行列のパラメータか?
※この行列はブルーノ・ポンテコルボによって予測されたニュートリノ振動を説明するために、1962年に牧二郎、中川昌美及び坂田昌一によって導入された。
三週間が過ぎた頃、私は入力ミスをした。フォーマットの列が一つずれていた。院生が気づいて、修正を指示した。私は謝って、直した。
その夜、メールが来た。
差出人:原田一真。
「今日の入力ミスの原因を報告しろ」短い。句読点もない。
私は返信した。「列のヘッダーを確認せずに入力したためです。以後、必ず確認します。申し訳ありませんでした」
五分後に返信が来た。
「なぜ数値の意味を調べている」
私は固まった。気づかれていた。
「……興味があったからです」と返した。
「何に」
「ニュートリノ振動のパラメータの意味に。この数値がPMNS行列*のどの成分に対応するのか、気になって」
※ポンティコルボ/牧/中川/坂田行列の頭文字
しばらく間があった。
「明日、来い。午前十時」
それだけだった。
《《午前十時》》
翌朝、私は十時ちょうどに研究室のドアをノックした。院生はいなかった。原田だけがホワイトボードの前に立っていた。
「座れ」
私は椅子に座った。
「PMNS行列とは何か、説明してみろ」
私は答えた。「ニュートリノの質量固有状態とフレーバー固有状態を結ぶユニタリー行列です。三世代のニュートリノが混合していることを記述する」
原田は私を見た。初めて、正面から。
「理一の一年生か」
「はい」
「一年生がそれを知っているのか」
「カミオカンデに行ったので、自分で調べました」
原田は少しの間、黙っていた。
「小平だな……お前、入力バイトを続けながら、この数式の意味を全部調べる気があるか」
「……あります」
「バイト代は変わらない。ただの入力作業だ。でも、疑問があればメールしろ。答えてやる」
それだけ言って、また数式に向かった。私は「ありがとうございます」と言って、PCの前に戻った。
胸の中で、何かが動いた。
原田に会うとドキドキする。胸が痛い。これは何だろう?
《《真理子、原田に会う》》
私がバイトを始めて一ヶ月が過ぎた頃、真理子が原田の研究室を訪ねていた、と知ったのは、後からだ。
真理子は本郷キャンパスには用がある。後期課程の文化人類学は本郷が主戦場だ。だから理学部1号館に寄ることも、不自然ではない。
原田の研究室のドアをノックした真理子に、原田は「真中か」と言ったらしい。
「お久しぶりですわ、原田先生。お変わりなく、つまらない顔をしていらっしゃいますのね」
「何の用だ」
「ご挨拶ですわ。それと、一つお伝えしたいことが」
「言え」
「先生の研究室に入力バイトで来ている理一の一年生、八重樫遥、あの子はいい子ですわよ」
「なぜ、八重樫を真理子がしっているのだ?」
「私のサークル所属ですもの。彼女からあなたの研究室のバイトをしているって聞きましたわ」
「そうか」
「一真くん、私は八重樫遥はいい子ですわよって言いましたのよ。返事は?」
「……知っている」
「何を知っていますの?」
「データの意味を自分で調べる。頭がいい」
「それだけ?」
「それだけだ」
真理子はしばらく原田を見た。
「一真くん、あの子が先生に興味を持ち始めているとしたら、どうしますか?」
「なぜ、真理子が他人のことをわかるんだ?」
「もちろん、遥は何も言わない。自分でも気づいていない。でも、私には読める、それだけですわ」
「そうだったな。真理子は読めるんだった……だが、バイトに対して何らの感情と持つのはムダだ、生産性がない」
「そういうことを聞いているのではありませんの」
原田は答えなかった。
「一真くんは27歳ですわね。あの子は18歳。9歳違う。でも、高校の先生と生徒じゃない。あの子は成人よ。構うことがあるのかしら?腑抜けなの?」
真理子はそれだけ言って、ドアに向かった。
「真理子」原田が呼び止めた。
「俺たちの過去の話を、彼女に?」
「していませんわ。する必要もない。先生と私のことは、先生と私の間だけのことですもの」
真理子はドアを開けた。
「一真くん、性格、変わってませんこと。つまらない人」
ドアが閉まった。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




