第23話 不合格
《《2026年3月10日(火)12時》》
デスクの上に置かれた悠真のノートパソコン。画面には、東京大学の「入試合否照合サイト」のトップページが表示されている。
共通テストの時も、二次試験の朝も、同じ三人。三位一体、
「……あと、一分」
十二時。
悠真がノートパソコンのエンターキーを叩いた。
東京大学のウェブサイト。合格者受験番号一覧。理科一類。
アクセスが集中しているのか、ページが重い。
くるくると読み込みのアイコンが回っている。私はその円を、ぼんやりと見ていた。
一秒、二秒、三秒。
志望科類のリストがPDFで表示される。展開した。受験番号の羅列。
遥が先に動いた。スクロールして、止まった。
「……あった」と遥が言った。声が平らだった。もちろんだ。
「おめでとう、遥」私はマウスを引き取った。
指が震えている。おかしいな、と思った。手が震えるのは走る前だけのはずなのに。
次は、私だ。
遥の番号から少し離れた場所にあるはずの、私の番号。
何度も何度も、受験票と画面を交互に見る。
スクロールした。
止まった。
前後を見た。もう一度見た。
ない。
「……凜花」と遥が言った。
もう一度、スクロールした。前後五番号。十番号。
ない。
「……ない」と私は言った。
悠真が何も言わなかった。遥も何も言わなかった。
部屋が静かだった。外から、どこかで車が走る音がした。
しばらく、誰も喋らなかった。
遥が私の隣に座った。何も言わない。ただ、隣にいた。
「……遥、おめでとう」と私は言った。
「……ありがとう」
遥の声が、少し掠れていた。
悠真がお茶を淹れた。三つ。テーブルに置いた。
「凜花」と悠真が言った。
「うん」
「……理一の最低点が出た。303点だ」
「私は?」
「……個人成績は四月一日からしか出ない。でも、おそらく」
「足りなかった」
「……そうだと思う」
私はお茶を両手で包んだ。温かかった。
「あと何点だったのかな」と私は言った。
「……わからない。でも、あと数点だった可能性もある」
「数点か」
数点。その数点が、どれだけ遠い。
泣かなかった。泣けなかった。泣くより先に、頭が妙に静かになっていた。
静かで、冷たくて、透明な感じ。試合で転んだ直後に似ている。痛みより先に、空が見える、あの感じ。
……さてっと、どうしようかな?
「は、遥、思考停止!さてっと、どうしようかな?」
「凜花……」
「何も言うな!泣くぞ!泣いちゃうんだかららね!だから、遥と悠真も事務手続きの話し以外何も言わないで!お願い!」
「……凜花、まず、ママに結果報告じゃない?」
「ああ、そうだね。そうだ……彩花姉ちゃんも……それは後だ……まず、ママだ」
スマホを出した。画面が滲む。自分で『頑張ってこの結果だから仕方ない、惜しかったかもしれない』なんて脳内をスクロールし始めたのを止めた。電話帳を開く。『高橋優子』。ママ……。
一粒、こぼれた。頑張れ、私……。一回のコールでママが出た。
「凜花!」
「……、……、マ、ママ、落ちちゃった……遥は合格したよ……私、落ちた……」
「……そお、落ちたの。でも、滑り止めの飯田橋があるじゃない?」
「……あのさ、飯田橋行かないで、浪人してもいいかな?もう一回挑戦してもいいかな?」
「アメリカのパパに直接聞きなさい。私は良いわよ」
「あとね、それからね、白状するけど、……ママ、ゴメンね……私、悠真さん……悠真と関係があるの……」
「……」
「これからしばらく、悠真の部屋にいていい?」
「……いいわよ。家に居ても気が滅入るのね?悠真くんとの関係は……なんとなく、わかってたから。ま。彩花もアメリカに行っちゃうし。美咲もいない……早い、子離れができて、私は、せいせいするかも?」
「……ママ、さっぱりしてんじゃん?」
「18歳の成人している娘には、親も口出しできないご時世になったのよ。悠真くんの部屋でも遥ちゃんの部屋でもどこにいるか連絡すれば何でもいいから。凜花の勝手になさいな。ただし、悠真くんと遥ちゃんに迷惑はかけないこと……生活力もないのに子供を作っちゃダメよ」
「理解力あるね、ママ」
「まあね……それで、彩花と何か約束とか聞いたけど、彩花に連絡した?」
「これから……」
「そう。早くしなさいね。彩花ももうすぐアメリカに行くんだから……」
「ハイ、ママ……」
電話が切れた。
「悠真、そういうことです。ここにしばらくいたいの」
「ああ、歓迎する。気が済むまでいればいい」
「ヨシヨシしてくれる?可愛がってくれる?」
「普通にね。ぼくは、過剰な慰めなんかする柄じゃないから」
「普通が良い……」
「ね、ね、遥、遥も一緒にここにいてくれる?」
「凜花、さすがに、遠慮します。私は良いから。いても、そのうち目障りになるに決まってる。必要がある時だけ呼んでね」
「寂しいことを言うわね……」
「悠真と二人でいなさいよ。それより、このモラトリアム女!……あ、彩花お姉さんに、電話……」
「うん、うん、そうだよね……うん、そうだ……」
私はスマホの電話帳を出した。『高橋彩華』。文字が死神の鎌のように見えた。
私は、逃げるように悠真の胸に顔を埋めた。
「……悠真、かけて。私、自分からは無理。声を聞いたら、死んじゃう」
「わかったよ」
悠真がスピーカーモードで発信した。数回のコールの後、姉ちゃんが出た。
「凜花?」
「彩花、悠真だ。凜花は隣りにいる。遥も。スピーカーモードでみんな聞こえる」
「悠真が代弁?だったら、結果はダメだった?……こら!凜花!ダメでもなんでも大人だったら、直接話してくれないとダメでしょ?凜花?」
「……姉ちゃん、落ちた……」
「残念だったわね、って慰めて欲しい?当然、遥ちゃんは合格ね?」
「うん……悔しい……」
「それで、どうするの?滑り止めの発表これからよね?」
「……3月15日……これから……」
「じゃあ、受かったら、そこに行くの?」
「行かない……浪人する……」
「まだ、諦めないのね?ママとパパにそのこと、言った?」
「ママには言った。良いって。パパはこれから……」
「そう。でも、浪人しても、来年というわけにはいかないわ。もう、あなたに話す機会はないわ」
「……うん」
「それで?」
「それでって?」
「しばらく悠真の所に居るんでしょ?甘えん坊」
「よく、わかるね?」
「妹だもん。わかるわよ。ママに言った?」
「……か、関係があるって言いました……」
「正直でいいわ。どうせ、ママは、掃除と洗濯、料理は彩花よりも上、とか言ったんでしょう?」
「姉ちゃん、隠しカメラ、仕込んでない?」
「妹だもん。わかるわよって、言ったわね?」
「うん……」
「悠真と遥ちゃんのことはママに言った?」
「……わかるんだね、みんな……言ってません」
「それは、言わないほうが良いわよ。ママ、卒倒するから」
「ハイ」
「聞き分け良いわね。悠真、いるんでしょ?遥ちゃんも。今、言ったとおりよ。三人、仲良くしなさいね」
「彩花、ぼくはね、まだ、キミともう一度、ちゃんと話したい。決着がついてないような気がする」
「もう十分。両手に花でしょ?それでいいじゃない?」
「……」
「お姉さん、遥です。あの、その……」
「三、四年後、留学したかったら連絡してね……あのね、遥ちゃん?」
「何でしょうか?」
「あなたは、今回のことで、あなたの『夏への扉』を開いたの」
「『夏への扉』?」
「ハインラインのSF小説の題名。象徴的でしょ?あなたはね、少女から女になったのよ。悠真は、あなたが気づかないでしょうが、あなたの単なるステップなだけ」
「そんな……私は、凜花と悠真が大好きです。離れたくない……」
「それはね、凜花が合格したらそうなった。過去形なのよ」
「そんな……ざ、残酷です!」
「女になったのなら、わかるはず。まあ、好きにしなさい」
「悠真、凜花、遥、これで良い?アメリカに行く前に、家でお食事会でもしましょうか?美咲も呼んで」
「……」みんな声も出なかった。
「じゃあ、三月末まで、あと何回か、顔を揃える日もあるわね?それだけ。じゃあ、ごきげんよう」ガチャ。
切っちゃった……彩花、電話、切っちゃった……『じゃあ、ごきげんよう、ガチャ』
私は、私は、……泣き出した。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




