第18話 東京駅
《《木曜日、八時》》
明美との電話が切れた瞬間から、凜花のスイッチが入った。
「明美って、誰?明日会うの?会うのね?」
「化学科の学生だって言っただろう」
「それだけ?それだけなの?」
「それだけだ」
「嘘!絶対嘘!『今度奢るよ』って言ったじゃない!『明日七時』って言ったじゃない!随分、親しそうじゃない!」
悠真が黙る。それが逆効果だった。
「黙らないでよ!何か言ってよ!」
凜花が立ち上がって、コートを引っ張り出した。
「もう、私帰る!遥、帰るよ!」終電まで、まだ四時間ほどある。
「……凜花、終電まだよ。あなた、帰るの?私、もう少し残って、勉強するわ」
凜花が振り返った。
「遥!あんた、残るの?」
「残っちゃ、悪い?なんで凜花と同じ行動しないといけないの?」
凜花の顔がぐしゃっと歪んだ。
「遥、あんたまで……悔しい!」
泣き出した。本気で泣いている。陸上部の凜花が、悔しくて泣いている。
私は悠真にウインクした。鈍い悠真が、やっと私の演技に気づいた。
「凜花」と悠真が立ち上がって、凜花の肩を抱いた。凜花が悠真の胸に顔を埋めて、ドンドンと拳で胸を叩く。
「バカ!バカ!悠真のバカ!」
「わかった、わかった」
「わかってない!全然わかってない!」
ドンドン、ドンドン。悠真が黙って受け止めている。凜花の拳が、だんだん弱くなった。
「……明美って、本当に、ただの化学科の学生?」
「ただの化学科の学生だ」
「……本当に?」
「本当だ」
嘘だ、と私は思った。でも今夜は黙っておく。悠真が凜花をそのままベッドに連れて行った。私も後からついていった。三人でベッドに倒れ込んだ。
凜花がまだしゃくり上げている。悠真が髪を撫でる。私が背中をさする。しばらくして、凜花が顔を上げた。目が赤い。
「……遥、さっきのウインク、見た」
「……見てたの」
「見てた。遥、策士」
「凜花が可愛すぎるから、仕方ない」
「可愛くない!悔しいだけ!」
悠真が笑った。凜花が悠真を睨んだ。
「笑わないでよ!」
「笑ってない」
「笑ってた!」
また三人で、ベッドに倒れ込んだ。終電まで、もう少しある。
多少は気が済んだのか、終電の時間になると、凜花が自分から起き上がった。制服を着直した。
悠真の部屋を出て、四ツ谷駅に向かった。凜花が独り言のように言った。
「……明日、東京駅、私も行く」
「凜花」
「いいでしょ。姉ちゃんの研究課題を知りたいのは、私なんだから」
私は肩をすくめた。エレベーターで降りて、四谷の坂道を駅に向かって歩く。夜の空気が冷たい。
「遥」と凜花が言った。
「なに」
「ありがとう」
「何が」
「さっきの演技」
「……どういたしまして」
中央線に乗った。並んで座る。凜花がすぐに目を閉じた。中野で私が降りる。ドアが閉まる。
凜花はそのまま、高円寺へ。
明日は東京駅。明美。
私もちょっと、怖い。
《《金曜日、七時》》
《《東京駅丸の内口中央改札、七時》》
放課後、私たちは一度それぞれの家に帰り、制服の「縞のネクタイ」を脱ぎ捨てて私服に着替えた。
私が選んだのは、黒のタートルネックにベージュのトレンチコート、そして足首まであるダークグリーンのプリーツスカート。なるべく大人っぽく、かつ風景に溶け込む地味な装いを目指した。
一方の凜花は、ネイビーのマウンテンパーカーに細身のデニム、足元は黒のスニーカー。そして極めつけに、目深に被った黒のキャップ。陸上部らしい機能美に溢れているが、尾行に対するガチ感が強すぎて逆に少し目立つ気もする。でも、凛々しい。
「遥、似合ってる」と凜花が小声で言った。
「凜花こそ」
「私、目立つ?」
「目立つ。でも、今更どうしようもない」
私たちは今、赤レンガが美しい東京駅丸の内駅舎の中、中央改札口から少し離れた太い柱の陰に身を潜めている。
行き交うのは、仕立ての良いスーツを着たビジネスマンや、洗練されたファッションの大人たちばかり。四谷や高円寺の雑多な空気とは違う、丸の内の冷たくて都会的な空気に、高校生の私たちは少しだけ気圧されていた。
「……来た。悠真だ」
柱から半分顔を出した凜花が、キャップのつばを少し上げて囁いた。
改札の少し手前、待ち合わせスポットに悠真が立っていた。紺のコート。いつもと違って、ちゃんとした格好をしている。
七時ちょうど。
改札のラッチが開いて、人が流れ出てくる。その中に、一人の女性がいた。
カツカツ、と響くヒールの音。ゆるく巻かれた艶やかなロングヘア。体にフィットしたボルドー色のニットワンピースの上に、上質な白のノーカラーコートを羽織っている。大学三年生だから21、22歳のはずだが、メイクも身のこなしも、ずっと年上の大人の女性に見えた。
彩花お姉さんが「氷のように完璧で、近寄りがたい女王」だとしたら、彼女は「華やかで隙がなく、獲物を逃さない肉食獣」だ。
「……遥」凜花が私の腕を強く掴んだ。爪が食い込む。「あれが明美!?大人だよ、大人!胸なんかパツパツじゃない!……キィ~!」
「凜花、声が大きい!シーッ!バレるでしょ!」私は慌てて凜花の口を塞ぎ、柱の裏に引き戻した。
「だって……だって、あんな大人な人と、悠真……」
「まだ何もわからない。落ち着いて」
「落ち着けない!」
「落ち着きなさい!」
「……落ち着いた」
悠真が手を上げた。女性が気づいて、微笑んだ。悠真に駆け寄った明美は、親しげに悠真の腕に軽く触れ、彼を見上げて華やかに笑った。悠真は一瞬困ったような顔をして腕を引いたが、明美は気にする素振りもなく、悠真の背中を押すようにして歩き出した。
「行くよ、遥。絶対に見逃さない」
「わかってる」
私たちは少し距離を空けて、二人の後を追った。
二人が入っていったのは、丸の内ビルディングの一階にある、ガラス張りのオープンなイタリアン・カフェダイニングだった。本格的なディナーの店ではなく、カフェ利用やタパスで軽く飲める店だ。これなら、高校生の私たちの財布でも、コーヒーとケーキのセットでどうにか入れる。ラッキ~!
「入れる?」と凜花が小声で言う。
「入れる。行くよ」二人より少し遅れて、私たちも入店した。
「二名です」と私が店員に言った。
悠真と明美が窓際の二人掛けのテーブルに座ったのを見届けた。案内されたのは、偶然にも、悠真と明美のテーブルの二つ隣だった。
メニューを顔の高さまで立てて隠れながら、耳に全神経を集中させる。
「久しぶり、会ってくれてありがと、悠真」明美の少し甘えたような、よく響く声が聞こえてきた。
「ああ、久しぶりだね。じゃあ、彩花の研究課題の資料を見せて」
「せっかちねえ。はい、これ」
カサリ、と紙の束がテーブルに置かれる音がした。悠真がそれをめくる気配がする。
「……なんだこれは。専門用語ばかりで、概要しかわからないな」
「だから言ったじゃない。私も化学科だけど、彩花のやってる分野は特殊すぎるのよ。でも、ヤバい研究だってことだけは、教授陣の間でも噂になってるわ」
「ヤバい?」
「ええ。『性ホルモンの管理物資との生成と性差の縮小』、……要するに、男女の身体的な違いを、特定の化学物質を使って後天的に消去、あるいは書き換えようとする研究よ。トランスジェンダー医療の枠組みを借りてるみたいだけど、彩花の論文の視座はもっと……なんていうか、過激なの」
メニューの裏で、私と凜花は顔を見合わせた。
昨日、教室で凜花が言っていた「姉ちゃんは、世界を作り変えたいのかもしれない」という言葉が、現実の冷たい輪郭を持ち始めていた。
「……彩花が、なぜそんなことを」と悠真が低く問う。
「さあ?あの子、昔から腹の中見せないじゃない。……でもね、悠真」
明美の声のトーンが、ふっと変わった。甘さが消え、生々しい女の声になった。
「彩花が留学してNYに行くなら、もう悠真はフリーなんでしょ?……そろそろ、私のこと、考え直してくれてもいいんじゃない?」
「……明美、その話は一年生の時に終わってる」悠真の声は、氷のように冷たかった。
明美も留学のことを知ってた!なんなのお姉さんは!でも、何?『その話は一年生の時に終わってる』って?メニューの裏で、凜花が「えっ?」と小さく息を呑んだ。黙ってて!凜花!
「終わってないわよ。私があんなに猛アタックしたのに、悠真ってば『他に気になる奴がいるから』って、見向きもしてくれなかったじゃない。それで結局、彩花と付き合い始めた。……悔しかったわよ、親友に負けるなんて」
「ぼくが彩花を選んだだけだよ」
「わかってるわよ。でも、彩花はあなたを置いて行く、……私なら、そんなことしない。ねえ、今夜、この後どう?」
明美が身を乗り出す気配がした。香水の甘い匂いが、私たちのテーブルまで漂ってくる。
「遥……」隣で、凜花がわなわなと震えていた。
「飛び出していかないでよ、凜花」
「しないよ。でも……絶対、負けない。彩花姉ちゃんにも、あんな香水女にも!」
凜花がテーブルの下で、私の手をぎゅっと握った。私も、その手を強く握り返した。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




