第17話 姉ちゃんの研究課題
《《木曜日 放課後》》
放課後、また二人は中央線に乗った。二人とも、電車の中で「量子革命」を開いた。並んで座って、黙って読む。
四谷の坂道を上りながら、凜花が言った。
「遥、ボーアの補完原理って、どういうこと?」
「光は波でもあり粒子でもある。どちらか一方では説明できない。両方の側面が補い合って、初めて全体が見える……というのが補完原理よ」
「矛盾したものが、両方同時に本当?」
「量子力学ではそう」
「……姉ちゃんと悠真も、補完原理かな」
「どういう意味?」
「姉ちゃんは引き出しに蓋をする人。悠真は引き出しをぶち壊そうとする人。矛盾してるけど、両方本当のことを言ってる」
「……凜花、それ、すごいこと言ってる」
「そう?」
「ボーアとアインシュタインの論争と同じ構造よ、それ」
凜花が少し黙って、また歩き出した。
「遥、私、物理学科に行ったら、ちゃんと勉強できる?」
「できる。でも、数学が相当できないといけない」
「どのくらい?」
「線形代数、微積分、複素関数……高校数学の先にある世界」
「また、増えた……」
「また増えたって、教養課程の必須科目だよ」
「わかってる、わかってるって……まず合格しないといけない」
悠真の部屋のドアを開けた。彼はまた教科書を広げて唸っていた。今日は量子力学のノートが三冊、テーブルに並んでいる。
「悠真」と凜花が言った。
「なに」
「補完原理って、ちゃんと説明して」
悠真が顔を上げた。凜花の目を見た。昨日と何かが違う目だった、と私も思った。
「……量子革命をどこまで読んだ?」
「第五章。ソルベー会議のところ」
「一日で第五章まで読んだのか」
「面白いんだもん。説明して」
悠真が教科書を閉じた。ノートを一冊取り出した。
「まず、光の話から始める。光は波か、粒子か……」
凜花がダイニングの椅子を引いて、前のめりに座った。私も隣に座った。悠真が話し始めた。
ヤングの二重スリット実験。光を壁の二つの穴に通すと、干渉縞ができる。波の証拠だ。でも、光を一粒ずつ打ち込んでも、干渉縞ができる。一粒の光が、同時に二つの穴を通る。粒子なのに、波のように振る舞う。
「一粒が、同時に二つの穴を通る?」
「通る」
「それって……」
「観測しようとした瞬間に、どちらか一方の穴を通ったことになる。見ていない時は、両方を通っている」
「見てないと、両方?」
「両方」
「見た瞬間に、一方に決まる?」
「決まる」
「……悠真、それって」
「なに」
「私が姉ちゃんのミネソタを見ていない間は、姉ちゃんの中に何があるかわからない。でも、見た瞬間に決まる……シュレーディンガーの猫と同じ?」
「……量子力学を人間に当てはめるのは、厳密には正しくない」
「でも、違う?」
「……詩的には、違わないって言ったよね?」
「凜花、昨日から量子力学と彩花お姉さんを結びつけてばかりいる」と私が言った。
「だって、そう見えるんだもん」
悠真がノートにペンで何かを書いた。テーブルに置いた。
波動関数 Ψ
「これが量子力学の基本だ。シュレーディンガーが謎の愛人と山荘に籠もって発見した方程式」
「エロスの爆発で!」
「そう。この波動関数が、粒子の状態を記述する。観測する前は、全ての可能性が重なり合っている。観測した瞬間に、一つの状態に決まる……これを波動関数の収縮という」
「収縮」
「そう」
「姉ちゃんのミネソタも、波動関数の収縮待ちなんだ」
「凜花……」
「私が合格したら、収縮する。答えが一つに決まる」
「……キミは非常に物理学に向いてるかもしれない」悠真がペンを置いた。
「本当に?」
「直感が良い。数式より先に、本質を掴もうとする」
「数式も覚える!」
「覚えなくていい。アインシュタインも不得意だった。数式は道具だ。本質を掴む直感の方が大事だ」
私がノートを覗き込みながら言った。
「悠真さん、じゃあ、量子もつれを説明して」
悠真がまたノートにペンを走らせた。
二つの粒子が一度相互作用すると、どれだけ離れても繋がり続ける。一方の状態を観測すると、瞬時にもう一方の状態が決まる。光速を超えて。宇宙の果てまで離れていても。
「光速を超えて?」と凜花。
「情報が伝わるわけじゃない。でも、相関が瞬時に確定する」
「……それって」
凜花がテーブルの上の「量子革命」を手に取った。
「アインシュタインが『不気味な遠隔作用』って呼んで、死ぬまで認めなかったやつ?」
「そう」
「でも、本当にある?」
「ベルの不等式の実験で証明された。アインシュタインが間違っていた」
凜花が本を置いた。
「アインシュタインでも、間違える」
「間違える」
「天才でも?」
「天才でも」
しばらく三人とも黙っていた。
凜花が静かに言った。
「ねえ、悠真。姉ちゃんの化学って、何の研究なのかなあ……」
「知らない。彩花は研究の話をあまりしなかった」
「なんで聞かなかったの?」
「……聞けばよかったな」
「私も聞いたことなかった。でも、今は知りたい」
「なんで?」
「姉ちゃんが悠真を置いてNYに行くくらい好きな化学って、何なんだろうって。物理学がこんなに面白いなら、化学はもっと面白いのかもしれない。姉ちゃんが見ている世界を、私は一回も見ようとしなかった」
私が静かに言った。
「合格したら、ミネソタの話と一緒に聞けばいい。化学の話も」
「うん」と凜花が言った。「二つセットで聞く。ミネソタで何があったか。化学の何がそんなに好きなのか」
悠真がグラスに水を注いで、テーブルに三つ並べた。何か考えている。
「ミネソタの話は、本人にしかわからないが、彩花の化学との絡みの話は、他の人間でも聞けるかな?」
「どうやって?」
「彩花の同級の化学科の学生を知ってるんだ。彼女に聞いてみよう」
「彼女?」と凜花が顔をしかめる。悠真が無視する。彼がLINEでメッセした。通話可能。
「もしもし、明美?」明美。悠真の口から女性の名前が出た瞬間、凜花の顔が変わった。私は知らないふりをした。
「明美!」と凜花が小声で言う。
「凜花、シーッ!」と私が小声で返して、凜花をつねった。
「あのさ、彩花の研究課題って知ってる?え?本人に聞けって?あいつの性格知ってるだろう?言わないよ……え?なんだって?なんなんだ、その課題は?明美も詳しく知らないの?……調べてくれるって……ありがとう……今度奢るよ……じゃあね」
「遥!『今度奢るよ』だって!キィ~!」
「凜花、うるさい……悠真、お姉さんの研究課題ってなんだったの?」
悠真がノートにメモしたそれを見た。
『性ホルモンの管理物資との生成と性差の縮小に関しての考察』
「何のことでしょうか?」
「ぼくにもわからないよ。明美が調べてくれるって」
「悠真!明美って誰よ!随分親しそうだわね!キィ~!」
「凜花、うるさい!黙ってて!」
30分ほどして、明美から電話があった。悠真は何気なくスピーカーフォンモードで私たちに聞こえるようにしてくれた。
「おおよその彩花の課題の内容がわかったわ。でも、電話じゃ説明できないから、明日直接会いましょ。資料をプリントしておく。東京駅丸の内がわの中央改札!何時がいい?」
「じゃあ、七時頃?」
「オッケー!じゃあねぇ~」ガチャ。
凜花が明美の会話を聞いて、悠真を睨みつけた。私もちょっと心配だなあ。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




