第16話 私がなるのはエディントン!
《《水曜日、放課後》》
凜花が量子革命を読んでいる。ページをめくる手が止まらない。
悠真が私に小声で言った。
「遥、凜花、本当に物理科を受けるのか?」
「受けるつもりみたい」
「動機が……」
「動機はともかく、興味は本物だと思う。シュレーディンガーの猫の比喩、悠真も驚いたでしょ?」
「……驚いた」
凜花が顔を上げた。
「ねえ、悠真。アインシュタインって、量子力学を認めなかったんでしょ?」
「どこで読んだ?」
「この本。でも、量子力学を作った一人でもあるって書いてある。自分が作ったのに、認めなかったの?」
「光量子仮説はアインシュタインだ。でも、量子力学が確率論に基づくことを、彼は最後まで受け入れなかった。『神はサイコロを振らない』……有名な言葉だ」
「神はサイコロを振らない……」
凜花がその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「じゃあ、アインシュタインは間違ってたの?」
「量子力学に関しては、間違っていた。しかし、……」
悠真がノートにペンを走らせた。
Einstein → Theory
Eddington → Experiment
「アインシュタインの一般相対性理論は正しかった。それを証明したのが、アーサー・エディントンという英国の天文学者だ」
「エディントン?」
「1919年5月29日。皆既日食の日に、エディントンはアフリカのプリンシペ島まで遠征した」
「なんでわざわざアフリカまで?」
「太陽の近くにある星を観測したかったから。普段は太陽が明るすぎて近くの星が見えない。でも皆既日食の間だけ……月が太陽を隠す数分間だけ、太陽の近くの星が見える」
「それで?」
「一般相対性理論が正しければ、太陽の重力で空間が歪んでいるから、星の光が曲げられて、本来の位置とずれて見えるはずだ。エディントンはそれを確かめに行った」
「確かめられたの?」凜花が身を乗り出した。
「観測当日、プリンシペ島は朝から嵐だった」
「嵐!?」
「何週間もかけてアフリカまで行って、当日は嵐。でも、皆既日食の直前に、雲が晴れ始めた」
「晴れた!」
「晴れた。そして観測した。結果はアインシュタインの予測通りだった。同年11月、ロンドンで結果が発表された。翌日、世界中の新聞が報じた。アインシュタインは一夜にして世界的な有名人になった」
凜花が黙った。長い沈黙だった。
「……エディントンがいなかったら、アインシュタインは有名にならなかった?」
「証明されなかった理論は、どんなに美しくても、ただの仮説だ」
「理論物理と実験物理って、セットなんだ」
「そう。アインシュタインが理論を作った。エディントンが嵐の中で証明した。どちらが欠けても、歴史は変わらなかった」
凜花が私を見た。
「遥は?理論と実験、どっちに行くの?」
「私は……」少し考えた。「東京大学宇宙線研究所に所属したい」
「宇宙線研究所?」
「附属施設に、神岡宇宙素粒子研究施設がある。有名なカミオカンデを統括する研究所よ」
「カミオカンデ?……あ!聞いたことある!ノーベル賞がなんじゃら!」
「岐阜県の神岡鉱山の地下1000メートルにある実験装置。ニュートリノという素粒子を観測する。ノーベル物理学賞を二度生んでいる」
「二度!?」
「次世代のハイパーカミオカンデが今建設中だ。スーパーカミオカンデの十倍の規模になる」
「いつ動くの?」
「2028年に実験開始予定だ」
「2028年……」
凜花が固まった。
「それって、私たちが東大に入る翌々年?合格したらだけど……」
「そう」と私が言った。
「私たちが入学した二年後に、世界最大の実験装置が動き出す?」
「遥」と凜花が言った。
「なに」
「私もそこ行く。遥と一緒に」
「まず合格しないといけない」
「わかってる。でも、行く」
悠真がノートを閉じた。
「東大物理は両方ある。でも、凜花は……たぶん実験向きだと思う」
「なんで?」
「直感で本質を掴んで、身体が勝手に動くから」
凜花が少しだけ黙って、それからニヤッとした。
「私がエディントンで、悠真がアインシュタイン?」
「できるかもしれない」と悠真が言った。
遥としては、珍しく悠真が冗談を言わなかった、と思った。本気だ。
ワイルドターキーには今夜も誰も手をつけなかった。量子革命と宇宙創生が三冊、テーブルに並んでいる。
《《木曜日 昼休み》》
アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、パウリ……彼らの名前が凜花の中に落ち着いて収まっていくのが、隣にいるとわかる。
凜花が教室で「量子革命」を開いている。お弁当に手をつけないまま、ページをめくっている。
「凜花、ご飯」と遥が言う。
「あとで」
「冷めるよ」
「あとで!」
私はため息をついて、自分のお弁当を開いた。
凜花が読んでいるのは、ボーアとアインシュタインの論争が1927年のソルベー会議で頂点に達する場面だ。世界中の天才が集まって、量子力学の解釈をめぐって激突する。アインシュタインは毎朝新しい思考実験を持ち込んで、量子力学の矛盾を突こうとする。ボーアは毎晩それを論破して翌朝に備える。
繰り返す。繰り返す。どちらも譲らない。
「……遥」
「なに」
「ソルベー会議って、知ってる?」
「1927年の第五回ソルベー会議でしょ。量子力学の歴史で一番有名な会議。アインシュタインとボーアの論争が頂点に達した場面……って、量子革命に書いてあるよね?」
「写真、見た?」
「うん。あの有名な集合写真。ノーベル賞受賞者が十七人もいる!スゴイ!」
「全員男じゃないよね?」
「マリー・キュリーがいる。唯一の女性」
凜花がスマホで写真を検索した。私も隣から覗き込む。モノクロの集合写真。錚々たる物理学者たちが並んでいる。前列にアインシュタイン。ボーア。キュリー夫人。みんな、真剣な顔をしている。
「……この人たちが、世界の見え方を変えたんだ」
「そう。この写真が撮られた時点で、量子力学はまだ誰も理解していなかった。理解した人間が一人もいないのに、世界を変えた」
「理解してないのに、世界を変えた?」
「ファインマンという物理学者が言ったのよ。『量子力学を理解している人間は一人もいない』って」
「ファインマンって誰?」
「この写真には写ってない。次の世代の天才。量子電磁気学を作った人」
凜花がまた写真を見た。
「マリー・キュリー、かっこいいな」
「二度ノーベル賞を取ったのよ。物理学と化学で」
「物理と化学、両方?」
「両方。でもね、マリー・キュリーは、夫ピエールの死後、1910年頃にその弟子である既婚者のポール・ランジュバンと親密な関係になって、不倫スキャンダルに巻き込まれたのよ。高橋姉妹と同じで、淫乱だったのかもしれないわね?」
「人が感動してるときに、遥!そんなことを言うなぁ~!」
凜花が少し黙った。
「でも、……姉ちゃんは、化学を選んだ……悠真も眼中になく……」
「うん」
「なんで化学だったんだろうね」
「凜花、彩花お姉さんの化学への興味を考えてるの?」
「考えちゃう。だって、ずっと『姉ちゃんは悠真の彼女』としか見てなかったから。でも、姉ちゃんは悠真を置いてNYに行く。それくらい化学が好きなんだよね。その化学って、何?」
「調べればいいじゃない」
「何を?」
「東大理学部化学科の研究内容。お姉さんがどんな研究をしているか、大学のサイトに出てるかもしれない」
凜花がスマホを操作し始めた。東大理学部化学科。研究室一覧。有機化学、無機化学、物理化学、生物化学……分野が並んでいる。
「多すぎる……どれだろう?」
「多いねえ……じゃあさ、お姉さんに直接聞く?」
「合格してから。ミネソタのことと一緒に」
凜花がスマホを置いて、冷めたお弁当を開いた。
「遥、私さ、気づいたんだけど」
「なに」
「姉ちゃんのことを全然知らないのと同じくらい、物理学のことも化学のことも、何も知らなかった」
「当たり前じゃない。高校生なんだから」
「でも、悠真のことは知りたいって思ってた。なのに、悠真が何を勉強してるのかに、ちゃんと興味を持ったことがなかった」
「……」
「おかしいよね。好きな人が何をしてるか、ちゃんと見てなかった」
少し考えてから、私は言った。
「おかしくないよ。人を好きになる時、最初はその人の全部を知りたいわけじゃない。でも、本当に好きになると、その人が見ている世界を見たくなる」
「今、私がそれをしてるの?」
「してると思う」
凜花がまたお弁当に手をつけないまま、窓の外を見た。
「遥、物理学って、世界の見え方を変えるって、悠真が言った」
「言ったね」
「化学は?」
「化学は……」少し考えた。「世界を作り変える、かな。物理が世界を『理解』するなら、化学は世界を『変える』」
「作り変える?」
「薬を作る。材料を作る。生命の仕組みを解明する。化学がなければ、今の世界はない」
「姉ちゃんは、世界を作り変えたいのかもしれない」
「かもしれない」
「ミネソタで何かがあって、世界を作り変えたいと思った……そういうことかもしれない」
私は何も言わなかった。凜花がお弁当のふたを閉めた。
「食欲なくなった。遥、量子革命、どこまで読んだ?」
「第三章」
「私、第五章。ボーアとアインシュタインが本格的にぶつかり始めるところ」
「速い」
「面白いんだもん」
私たちは並んで、昼休みの残りを「量子革命」を読んで過ごした。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




