第14話 彼女のアインシュタイン
《《月曜日、朝》》
目が覚めたら、凜花がいなかった。またか!
悠真がまだ隣で寝ている。時計を見ると、午前八時。窓の外が明るい。キッチンから音がする。
凜花が、悠真のシャツ一枚を羽織って、エプロンをして、フライパンを振っていた。シャツのボタンは上二つしか留めていない。エプロンの紐がウエストで結んであるから、横から見ると、脚がほぼ全部見えている。
見覚えございます。
「おはよ」と凜花が振り返らずに言う。
「……おはよ」
「悠真、起きた?」
「まだ寝てる」
「じゃあ、起こして。ご飯できるから」
私はTシャツとショーツのまま、悠真の肩を揺すった。
「悠真さん、朝ごはん」
「……ん」
「凜花が作ってます」
「……そうか」
悠真が目を開けて、天井を見て、それから私を見た。
「おはよう、遥」
「おはようございます」
三人で、狭いダイニングに座った。凜花が作ったのは、ご飯と味噌汁と目玉焼きと、ウインナーが三本ずつ。
私はTシャツ、凜花はシャツエプロン、悠真はパンツ一枚。三人とも、黙々と食べた。
凜花がご飯を三杯食べた。
私と悠真は顔を見合わせた。
「凜花」と悠真が言う。
「なに」
「よく食べるね」
「受験生は食べなきゃダメなの!脳みそ動かすのにカロリーがいるの!」
それは正しい。
食べ終わって、凜花が食器を洗い始めた。私が拭く。悠真がテーブルを片付ける。自然にそうなった。そして凜花が、リュックをごそごそやり始めた。
取り出したのは……日の丸の鉢巻だった。
「……凜花」
「なに」
「それ、いつリュックに入れたの」
「昨日から入ってた」
「なんで」
「なんとなく」
なんとなく……。
凜花が鉢巻を頭に巻いた。シャツエプロン姿に日の丸の鉢巻。意味がわからない。でも、凜花だから、まあ、そういうことなんだろう。
「さあ、勉強するよ!遥、テキスト出して!」
私と悠真はまた顔を見合わせた。
「……今日、学校は?」と悠真が言う。
「え?言ってなかったっけ?休み!遥が死にそうだから!病院に行っていることになってるの。私は付き添い。さっき教師に電話した」
「……」
悠真が少し考えて、本棚から分厚い本を二冊取り出した。
「ぼくも後期試験がある。物性論と量子力学」
「悠真も勉強するの?」と凜花が目を輝かせる。
「当たり前だろう」
「じゃあ、三人で勉強会!遥、合格確実じゃないの?」
「確実じゃないから勉強するんでしょ」
テーブルに三人分のテキストが並んだ。
凜花が数学の問題集を開く。シャツエプロンに日の丸の鉢巻で、ものすごい速さでシャープペンを動かし始めた。
悠真が物性論のノートを広げる。
私が現代文のテキストを開く。
四谷の1Kが、突然、自習室になった。
昼は凜花がカップラーメンを三つ作った。どこから出てきたのか、聞かなかった。凜花だから。
午後も、三人は黙って勉強した。
時々、凜花が「遥、これ教えて」と国語の問題を持ってくる。私が解説すると、「なるほど!」と言って、また猛然と問題集に戻る。
悠真が量子力学のページで固まっていると、凜花が「悠真、行き詰まってる?私に聞いて!」と言う。
「キミに聞いてどうするんだ」と悠真が言う。
「気分転換に!」
「やれやれ」
夕方、四時を過ぎたころ、凜花が伸びをした。
「帰る!」
「え?」と私。
「今日はここに泊まらない。帰って、ご飯食べて、お風呂入って、また勉強する!明日から受験生モードに入る!遥も帰る!」
「……そうだね」いい出したら聞かない子。
『遥も帰る!』そりゃそうだ。悠真のもとに私だけ置いておくわけがない。自分でも非常に危険!アレを覚えたての発情したお猿さんの私!
コートを着て、リュックを背負う。日の丸の鉢巻は、いつの間にかリュックの中に戻っていた。
「悠真、また明日来るから」と凜花が言う。一方的。
「いちいち言わないでも待ってる。ちゃんと勉強しろよ」
「今日、した!明日も!模試まで、毎日来る!」
「やれやれ」
エレベーターで降りて、四谷の坂道を駅に向かって歩く。冬の夕方の空気が冷たい。
中央線に乗って、並んで座る。中野が近づいたころ、凜花が言った。
「遥、今日、楽しかった」
「勉強が?」
「勉強も。でも、三人でいたのが」
「……うん」
中野で私が降りる。手を振る。ドアが閉まる。
凜花はそのまま、次の高円寺へ。ホームに一人残って、私はぼんやりと電車を見送った。
昨日の晩、悠真に突かれすぎて、腰が重い。
陸上部の選手はあれだけ突かれても腰が重くないようだ。タフだ。
まあ、いいか。
《《火曜日、放課後》》
私と凜花の学校の制服は、中央線沿線では目立つ。
冬服の正装はジャンパースカート。紺色の、胸当てのついたワンピース型の制服だ。その上にネクタイを結ぶ。灰色と紺の斜め縞のネクタイ。これが制服の象徴で、中央線では「縞のネクタイ」と呼ばれていたらしい。
白い長袖ブラウスの上にジャンパースカート、その上からネクタイを出すスタイルがうちの学校ならではで、セーターやブレザーを重ねて着こなす生徒も多い。足元は白ハイソックスに茶色のローファー。
スペインの姉妹校と同じデザインで、胸元には校章とエンブレムがある。設立母体のメルセス宣教修道女会の紋章から取られた校章は、一度見たら忘れない。
凜花はこの制服を着ている。167センチの長身に、紺のジャンパースカートと縞のネクタイ。背筋が真っ直ぐで、陸上部の体つきだから、制服がよく映える。学校を出ると、スカートを折り込んで膝上20センチにしている。校則違反だよ。
私ももちろん同じ制服。黒縁メガネとポニーテールに縞のネクタイ。自分では似合っているかどうかわからない。学校の校門を出た時、凜花に路地に連れ込まれた。何するの!何って、悠真に遥の制服、初お目見えでしょ?スカートを折り込むのよ!……膝上、20センチにされてしまった。は、恥ずかしい……。
JR高円寺で、中央線に乗った。並んで座る。いつもの席。
「ねえ、物理科を受験するけど、物理ってなんだろ?悠真がウンウン唸って勉強している量子力学って何?」
「量子力学は、原子や電子、陽子、中性子なんかの粒子の振る舞いを説明する理論。ミクロの話。天文学はマクロの話。厳密にはそうは言えないみたいだけど、簡単に言うとそうなの」
「私に理解できると、遥、思う?」
「凜花!あなたが選んだ学科よ!」
「だって、悠真の学科だから……」
「その動機、ちょっと問題だと思う!」
「……自分でも問題だと思うから聞いてんじゃん!」
「やれやれ」感染った!
四谷の駅が近づいてきた。
「本屋に行く」
「参考書を買うの?」
「量子力学なんじゃらの書いてある本を買うのよ」
「まあ、やる気と興味がでたからいいのか……」
「何よ?」
「なんでもない……」
本屋に着いたが、凜花は、どこのコーナーなのかサッパリわからない!とバンザイする。
「遥、なんじゃらの本はどこのコーナーになるの?」
「ブルーバックスかな?ハウツーもの?探してくる」と私は凜花が普段縁のない方に行く。
戻ると、凜花は、しょうもないラノベ小説を読んでいた。
「良いのがあった」
「どこ?どのコーナー?」
「新潮文庫の棚」
凜花を引っ張って、文庫の棚の前に立つ。私がこれと言って指さした。
マンジット・クマール「量子革命」。サイモン・シン「宇宙創成」上下巻。
「これ、全部で三冊?」
「そう。まず『量子革命』から読んだ方がいいと思う。フランク・ロイドの作品に出てきた人たちが全員登場するから」
手に取ってパラパラとめくっている。目次を見ている。
「……遥、ちょっと待って」
「なに」
「第九章のタイトル、見て。『人生後半のエロスの噴出……シュレーディンガー』」
「……」
「エロス!?量子力学でエロス!?」
「シュレーディンガーは私生活が複雑だったのよ。でも、量子力学の本質とは関係ない」
「関係ある!だって、物理学者もエロスがあるってことじゃない!悠真も!」
「……買うの?買わないの?」
凜花が三冊とも買った。私も同じ三冊を買った。この本は面白そうだ。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




