第2話 遥と悠真
《《木曜日、夕方》》
インターホンのボタンに指をかけた瞬間、遥は我に返った。
……待って。私、凜花じゃないんだから。
凜花はレインコートを脱ぎ捨てて、ゴスロリをジャーン!と披露した。それが凜花の作戦だった。でも私がそれをやっても、ただの不審者だ。
遥はチョーカーをそっと外し、バッグにしまった。レインコートのボタンを上まで留めた。膝丈のベージュのレインコートに、白いニーハイストッキングが少しだけ覗いている。ちょっと派手かな、とは思う。でも、まあ普通の女の子に見えるはずだ。
深呼吸。
ボタンを押した。
しばらくして、スピーカーから男の声がした。
「……はい。どちら様でしょうか」
悠真だ、と遥は思った。凜花が話していた声の感じと、なんとなく合う。
「あの、八重樫遥と申します。高橋凜花の親友です」
少し間があった。
「……凜花の?」
「はい。あのぉ……実は凜花に内緒で、悠真さんの住所を見つけちゃいまして」
また間があった。今度は少し長い。
「……凜花に内緒で?」
「はい。凜花のことで、直にご相談があります。彩花お姉さんのことも含めて……少しだけ、お時間いただけませんか」
沈黙。
遥は自分の心臓の音を聞きながら、じっと待った。断られたら、断られた時に考えればいい。
カチャ、とオートロックの解錠音がした。
「……どうぞ」
エレベーターを降りて、廊下を歩く。部屋番号を確認して、ドアの前に立った。ドアが開いた。
遥は初めて、悠真の顔を見た。
……ああ。なるほど、と思った。凜花が惚れるのも、彩花が手放せないのも。理屈ではなく、そう思った。背が高い。顔立ちが整っている。でもそれより、立っている時の空気が——どこか、人を安心させる質のものだった。
悠真も、遥を見ていた。視線が、遥の首元で一瞬止まった。チョーカーをしていない白いレインコートの女の子。白いニーハイストッキング。
「……八重樫さん」
「八重樫遥です。遥で大丈夫です」遥はぺこりと頭を下げた。
「凜花から話は……」
「聞いてないと思います。来ることは言ってないので」
悠真が少し困ったような顔をして、それでも道を開けた。「……どうぞ」
部屋に入った。
凜花が「狭い」と言っていた。でも一人暮らしとしては普通だ。ダイニングテーブルに問題集が広げてある。本棚に物理の専門書が並んでいる。
ここに凜花がいた。ここでゴスロリを脱ぎ捨てた。ここで一緒にご飯を食べて、勉強して、泊まった。
遥はそれを、頭の中から追い払った。
「お茶、いれましょうか」
「あ、いえ。すぐ終わりますので」
遥はダイニングチェアに座った。悠真が向かいに座る。二人の間に、テーブルがある。
遥は真っ直ぐ悠真を見た。
「単刀直入に言います」
「……どうぞ」
「凜花は今、模試も陸上も、全部中途半端になりそうです。頭の中が悠真さんと彩花お姉さんのことでいっぱいで、前に進めていない」
悠真が何も言わずに聞いている。
「私が聞きたいのは一つだけです。悠真さんは、凜花のことをどう思っていますか」
部屋に沈黙が落ちた。悠真は少しの間、テーブルの上の問題集を見ていた。それから顔を上げた。
「……凜花に聞けばいいんじゃないですか」
「凜花には聞けません。あの子は自分の気持ちに正直すぎて、悠真さんの答えを聞く前に暴走する。だから私が先に来ました」
悠真が、微かに笑った。笑ったというより、苦笑に近かった。
「……凜花の親友というのは、本当のことだったんですね」
「本当のことしか言いません」
遥は続けた。
「彩花お姉さんが四月にNYへ行くことは、凜花から聞きました。悠真さんは、彩花お姉さんから直接聞きましたか」
悠真の表情が、少し固まった。
「……まだです」
「そうですか」
遥は小さく頷いた。やはり、彩花はまだ悠真に告げていない。
「……あの、『すぐ終わりますので』とは申し上げたんですが……ですが……」
「はい?なんでしょう?」
「私と凜花は本当に親友です」
「ええ、もちろん。凜花だけじゃなくて、彩花の話まで知っている。高橋の家ともかなり親しいのですね?」
「ハイ、自分ちみたいなものです……だから凜花とは姉妹みたいなものです」
(姉妹!三姉妹!みんなとやった悠真!)
「服なんかもお揃いの服がたくさんあって……」
遥は立ち上がって、レインコートを脱ぎ捨てた。
白いゴスロリが、部屋の中に現れた。白のティアードミニスカート。白のニットトップ。ガーターベルト風の白いレースのニーハイストッキング。
悠真が、固まった。
「これなんかもお揃いです。見覚えございます?」
遥は真顔で言った。
悠真は答えなかった。答えられなかった、というのが正確なところだろう。
遥はその反応を見て、確認した。
見覚えがある。間違いなく、ある。
「お願いがあります」
「……なんですか」
「凜花に、ちゃんと向き合ってあげてください。あの子は逃げようとしています。筑波に行くとか、関係ない話を自分に言い聞かせている。でも本当は逃げたくない。それは悠真さんも、わかっているんじゃないかと思って。そして、彩花お姉さんとも向き合って、自分の気持ちを二人にハッキリ告げてあげてください。そうじゃないと、お姉さんは強いですが、凜花はそうじゃないんです。このままじゃあ、彼女は絶対に……絶対に壊れて心を閉ざします」
悠真は答えなかった。
遥は立ち上がった。
「突然押しかけてすみませんでした。これで終わりです。赤の他人が言うべきことではありませんでした。大変不躾で失礼なことを申し上げました。ゴメンナサイ。謝罪いたします」と遥はペコリと頭を下げた。
バッグを持って、ドアに向かった。
「……八重樫さん」振り返ると、悠真が立ち上がっていた。
「凜花は……幸せそうですか」
遥は少しの間、その問いを自分の中で転がした。
「幸せそう、ではないです。今は」
悠真が頷いた。
「でも」と遥は続けた。「あの子が一番生き生きしているのは、悠真さんの話をしている時です。怒ってる時でも、泣いている時でも」
それだけ言って、遥はドアを開けた……あ!忘れた!遥はスマホを出して、登録してあった悠真のスマホにメッセした。
「これ、私のスマホの番号です。もしも、もしも凜花に何かあったら、悠真さんと相談したいんです。他意はございません、では」
廊下に出て、ドアが閉まった。遥は歩き出した。
エレベーターのボタンを押しながら、遥は自分の手を見た。震えていた。
そうか。私、緊張していたんだ。
エレベーターのドアが開いた。乗り込んで、ボタンを押した。
ドアが閉まる直前、廊下の奥で、悠真の部屋のドアがまだ開いたままなのが見えた。悠真が、廊下に出て、こちらを見ていた。
ドアが、閉まった。
《《帰り道》》
四谷の駅まで、遥はゆっくり歩いた。レインコートのボタンを一つ外した。白いフリルが、夕風に揺れた。
凜花のためにやったことだ。
そう思いながら、でも遥は知っていた。
悠真の「凜花は幸せそうですか」という問いを聞いた瞬間、胸のどこかが痛んだ。
あの人は、凜花のことを心配している。心配できる人間だ。
……なるほど。凜花が惚れるわけだ。
遥はメガネを外した。夕暮れの四谷が、少しぼやけた。
白いニーハイストッキングの脚で、遥は駅に向かって歩いた。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




