第1話 白
《《水曜日》》
遥のぼやけた視界の中で、凜花の輪郭だけが、やけにはっきり見えた。メガネはどこかに落ちた。探す気力もなかった。
天井を見上げながら、遥は考えた。凜花、どうするんだろう。
ヤケクソで悠真から離れる筑波に行くの?それとも悠真と同じ大学に行くの?
干物を咥えに?
このままじゃ、模試もダメになる。日本室内陸上競技選手権大会だって、あんな状態で走れるとは思えない。
私にできることは何だろう。
……悠真に、直接会いに行く。
考えた瞬間、自分でも驚いた。凜花に黙って?私が?……でも、それしかない気がした。凜花が動けないなら、私が動く。
どうやって?彩花お姉さんが彼のいないアパートの時を狙えばいい。でも、彩花さんの不在時をどうやって調べるか。
……本人に聞けばいいじゃん。
遥はちょくちょく凜花の家に行っていたから、彩花とは顔見知りだった。進路相談をしたこともある。不自然じゃない。
でも悠真のアパートがどこかがわからない。四谷、とは凜花が言っていたけれど。
遥は横を見た。
凜花のバッグが床に転がっていた。
凜花は眠っていた。
泣いて、話して、それからいろいろあって、疲れ果てて眠っていた。目が赤い。鼻の頭も赤い。
遥はそっとベッドから抜け出した。
凜花のバッグに手を伸ばし、スマホを取り出した。PINは知っている。私の誕生日だ。凜花が設定した時、「遥の誕生日にしたから」と何でもないことのように言った。何でもないことのように言ったけれど、遥はその日から三日間、そのことを何度も思い出した。
画面が開いた。
連絡先。「悠真」。名前そのまま。律儀に現住所と実家の住所まで入力してある。
……抜けているようで、凜花はこういうところだけきちんとしている。
四谷◯丁目——。
遥は自分のスマホにメモした。凜花のスマホをバッグに戻して、メガネを拾った。
しばらくして、ベッドの上でもぞもぞと動く気配がした。
「……ん」
凜花がフラフラしながら起き上がった。遥は努めて平静な顔をした。
「おかえり」
「……遥、私、寝てた?」
「うん。よく寝てたよ」
凜花が髪をかき上げながら、ぼんやりした目で部屋を見回した。
「ねえ、凜花」遥は慎重に切り出した。「……あのグリグリ、良かったよ……って、それはおいといて」
「なによ、突然」
「彩花お姉さんが留学するって言ってたね?」
凜花の目が、一瞬鋭くなった。
「ああ、そうね。あの女!」
「姉妹の話はそれはそれで……お姉さんに留学の話、聞いてみたいの。聞いちゃダメかな?」
凜花がじろりと遥を見た。
「……別に。あの冷酷女と喋りたかったら喋ればいいじゃん」
「わかった。了解」遥は頷いた。「……ねえ、何か食べてく?」
「食欲ない。帰る」
凜花はそれだけ言って、バッグを掴んで立ち上がった。ジャージを整えて、髪をざっとまとめて、さっさとドアに向かう。
「気をつけてね」
「うん」
ドアが閉まった。遥は一人になった。
凜花が帰って五分後、遥は彩花に電話した。
「彩花お姉さん、遥ですけど」
「あら、お元気?」
「ええ。お姉さん、相談に乗ってもらえます?」
「いいわよ」
「凜花に聞いたんですけど、留学するんですって?」
「話の伝搬が早いわねえ。そうなのよ。四月から」
「私も留学を考えていて……大学の願書提出もあるでしょ?留学に有利な大学を選びたくて……会って、お話、お聞きできます?今、どちらですか?」
「今は高円寺の実家よ。アパートもそろそろ引き払って、実家の荷物も整理しないといけないから……今週は実家にいるわよ」
「わ~、凜花の家ならすぐ近くです。今日は水曜日ですからぁ……土曜日の夕方なんかどうでしょう?」
「了解。出がけに連絡してね。凜花にデザート、作ってもらおう」
「ではでは。土曜日に!」
電話を切った。
今週は彩花が実家にいる。つまり四谷のアパートには、悠真が一人でいる。大学の授業は木曜、金曜。夕方以降なら、いるはずだ。
急襲するなら、明日か明後日。
遥は少しの間、暗い天井を見上げた。
私は今、何をしようとしているんだろう。
凜花のため、と言えば嘘になる。全部が凜花のためではない。それくらい、自分でわかっている。でも、このままでいたら、凜花は模試も、選手権も、全部ぐちゃぐちゃになる。「干物を咥えに行く」か「逃げる」かの間で、あの子はずっと立ち止まったままだ。
誰かが動かないといけない。
……そういうことにしておこう。
《《木曜日、放課後》》
遥は一人、自室のクローゼットを開けた。凜花が陸上の練習に出ている時間を選んだ。
ハンガーの奥に、それはあった。
白。
凜花があの日、黒を選んだ時、遥は白を選んだ。お揃いだけれど、対。凜花が選ばない色。凜花が纏わない空気。
白を選んだのは、大した理由はない。黒は自分に似合わないということだけ。黒が似合うのは凜花だよね?ということ。凜花への対抗で白というわけじゃない。
白のティアードミニスカート。白のニットトップ。ガーターベルト風の白いレースのニーハイストッキング。白のロングコート風アウター。白のチョーカー。
あの日から、一度も着ていない。
凜花と一緒に選んで、凜花が悠真の部屋に向かった夜、遥は一人でこれを広げて、それから畳んで、クローゼットの奥にしまった。着ていく場所が、なかったから。
今日までは……。
鏡の前に立った。
度なしのメガネを外した。
白いゴスロリの遥が、鏡の中にいた。
……凜花とは、違う。
凜花の黒は夜の色だった。攻撃的で、挑発的で、見る者を狂わせる色。遥の白は、何の色だろう。自分では判断できなかった。
メガネをかけ直した。チョーカーのレースを指先で整えた。白いレインコートはない。だからベージュの膝丈のレインコートを羽織った。ボタンを上まで留めると、チョーカーだけが首元に残った。
凜花と同じ構造だ、と思った。でも色が違う。
《《木曜日、夕方》》
四谷の駅を降りた。
メモした住所を頼りに歩く。11月の夕暮れが、街を橙色に染めている。
遥の足取りは、凜花のそれとは違った。凜花は走ってきた、とあの子は言っていた。テストステロンが飽和状態で、走らずにいられなかった、と。
遥は歩いた。ゆっくり、確かめるように。
自分が何をしに来たのか、まだ答えが出ていなかった。凜花のためか。自分のためか。あるいは——悠真という男を、自分の目で見たかっただけなのか。
凜花があれほど惚れた男。彩花が「お世話」と呼んだ男。彼は干物じゃない!という男。遥はその男を、まだ一度も見ていない。
目的のマンションが見えてきた。
インターホンのボタンの前で、遥は立ち止まった。
トレンチコートの下で、白いフリルが微かに揺れた。遥は深呼吸をした。
メガネを、外した。
そして、ボタンを……。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




