第16話 彼は干物じゃない!
《《水曜日、午後7時》》
《《遥》》
月曜日から、凜花がおかしかった。
学校で話しかけても、返事はするけど目が合わない。廊下ですれ違った時も、私の顔を見るんじゃなくて、私の少し後ろあたりを見ている。あの子がこういう顔をする時は、頭の中が別のことでいっぱいになっている時だ。
私にはわかる。三年間、ずっと隣で見てきたから。
放課後、部活の終わりを待とうとしたら、先に行かれた。
「今日、早く切り上げるから。遥は先に帰ってて」
そう言って、さっさと行ってしまった。
……私と帰りたくないのかな。土曜日から何があったのか、話したくないのかな。
私は一人で駅まで歩きながら、いろいろ考えた。考えれば考えるほど、頭がモヤモヤするだけだった。
家に帰っても、そのモヤモヤは消えなかった。
LINEでメッセージを送ろうとして、やめた。こういう時の凜花は、文字じゃ埒が明かない。私は直電した。
コール、一回。二回。三回。
……出ない。
四回。五回。六回。
ちょっとぉ。私の電話じゃないの。
七回。八回。九回。
もしかして、本当に嫌われた?
十回。十一回。
十二回目で、出た。
「……もしもし」凜花の声が、水に濡れたみたいに重かった。
「トイレだった?」私は努めて明るく聞いた。
「ううん。ベッドに寝っ転がって、音の鳴ってるスマホを眺めてた」
……眺めてた。私の電話を、眺めてた。
胸のあたりが、じわっと痛くなった。
でも私はそれを飲み込んで、「何があったの」と聞いた。
何を聞いても、ハッキリしない答えしか返ってこなかった。「別に」「うん」「わかんない」。凜花の「わかんない」は本当にわかっていない時と、わかっているけど言いたくない時の二種類ある。今日のは後者だと思った。
「……凜花の家、行こうか」
「ううん、いい。……遥の部屋に行っちゃおうかな。家にいると気が滅入る」
来る。来てくれる。
「おいで。おいでよ」私の声が、少しだけ弾んだ。弾んだのが自分でわかって、少し恥ずかしかった。
「じゃあ、着替えて行くわ」
電話が切れた。
私は急いで部屋を片付けた。脱ぎっぱなしのカーディガンをクローゼットに突っ込んで、机の上の本を積み直して、ベッドのシーツを引っ張った。
……なんで私、こんなに慌ててるんだろう。
凜花が来るのは初めてじゃない。でも、今日は何か違う気がした。
三十分後、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、凜花が立っていた。
ジャージ姿。化粧っ気なし。髪を適当にまとめている。167センチの身体が、なんだか今日は小さく見えた。
「おじゃま」
それだけ言って、部屋に入ってきた。
そして、私のベッドに、頭から突っ伏した。
次の瞬間、泣き声が上がった。
「私は野良猫じゃないもん!泥棒猫じゃないもん!わ~ん!」
脚をバタバタさせて、シーツに顔を埋めて、本格的に泣きわめいている。
……野良猫?泥棒猫?
意味がわからない。でも近所迷惑ではある。私は凜花の背中に腕を回して、とりあえずよしよしした。
「……落ち着いたら話して。土曜日から何があったの」
しばらく泣かせた。
凜花が泣き止むまで、私はただ背中をさすっていた。シャンプーの香りがした。ジャージの下の、細くて温かい背中。
……好きだな、と思った。
この子のことが、好きだ。
その気持ちは今に始まったことじゃないのに、こうして触れるたびに、毎回新しく気づかされる。
凜花が顔を上げた。目が赤い。鼻の頭も赤い。
「話す」
そう言って、話し始めた。
土曜日のこと。悠真の部屋で料理を作って、勉強して、泊まったこと。日曜日の朝に号泣したこと。筑波に行くと言ったこと。午後に彩花さんが帰ってきたこと。
そして昨夜、彩花さんが「譲るわ」と言ったこと。
聞きながら、私は自分の顔が引きつらないように気をつけた。
泊まった。朝に号泣した。筑波に行くと言った。
この一週間で、凜花と悠真の間に、私の知らない時間がそれだけ積み重なっていた。
(……知ってた。知ってたけど)
私は凜花のためにゴスロリを選んだ。一緒に選んだ。あの衣装が悠真に向かうための「武器」だってわかっていて、一緒に選んだ。
それが私の、凜花への愛情の形だと思っていた。
でも今、凜花の話を聞きながら、その「愛情」がどんな顔をしているのか、私には少しわからなくなっていた。
「……『譲るわ』って」私は慎重に言葉を選んだ。
「凜花は、悠真さんのこと、モノだと思ってるの?彩花さんが譲れるものだと思ってるの?」
凜花が目を丸くした。
「あったりまえでしょ!悠真は干物じゃない!」
……干物。
「いや、私が聞いてるのは、悠真さんが姉妹の間で譲渡できるモノかどうか、ということで。干物かどうかを聞いてるわけじゃないんだけど」
「同じでしょ!」
「……同じじゃないと思うけど」
「同じなの!」
凜花が再びシーツに顔を埋めた。
私は小さく息を吐いた。
この子は怒っている。「譲るわ」という言葉に、本気で怒っている。
それはつまり、凜花が悠真を「人間として」好きだということだ。モノとして欲しいんじゃなくて。
わかっていた。わかっていたけど、改めてそう確認すると、胸のどこかが静かに、音もなく、傷んだ。
「……凜花」
「なに」くぐもった声が返ってきた。
「悠真さんのこと、好きなんだね」
しばらく沈黙があった。
「……うん」
小さい声だった。でも、はっきり聞こえた。
私はメガネを外して、目を閉じた。
好きだって言った。凜花が、誰かのことを「好き」だって、私に言った。
嬉しくない。全然、嬉しくない。
でも、不思議と泣けなかった。
凜花が「好き」だと言える人ができたこと。それをちゃんと私に話してくれたこと。その二つが同時に、私の胸の中に、静かに落ちてきた。
「……そっか」
私はそれだけ言って、また凜花の背中に手を置いた。
メガネをかけ直した。
この子のために、私にできることは何だろう。
その問いが、今の私には、一番大事な問いだった。
凜花が仰向けになった。
そして、私の首に腕を回してきた。
……あ。
「凜花」
「……遥」
私の名前を呼ぶ声が、いつもと違った。甘くて、少し掠れていて、私に向けられているのに、どこか遠くを見ているような声。
わかった。
これは私を求めているんじゃない。
彩花さんへの怒りと、悠真への恋しさと、「譲るわ」という言葉の屈辱が、全部混ざって、
今夜の凜花をこうさせている。私はその、逃げ場になっている。
わかっている。わかっているのに。
凜花の唇が、私の唇を探してきた。
私の頭は、ちゃんと「これは違う」と言っていた。
でも身体は、全然別のことを言っていた。
部屋着を剥ぎ取られながら、私はなぜか関係のないことを考えていた。
凜花より背が低い。でも、胸はある。……って、今それ関係ないでしょ、遥。
自分の思考の支離滅裂さに、少し笑いそうになった。
でもすぐに、笑えなくなった。
……あれ。
前と、違う。
先週、私が凜花を求めた時、凜花はまだどこかぎこちなかった。
私がリードして、凜花がついてくる形だった。
今夜は、逆だ。
凜花が、私を翻弄している。
どこで覚えたの。誰に教わったの。
聞かなくてもわかる。わかるから、余計に、頭の奥が白くなっていく。
悠真が、この子に教えたんだ。
その事実が、快感と一緒に、私の意識の中に溶け込んできた。
悔しいのか、悲しいのか、それとも別の何かなのか、もう区別がつかなかった。
何度目かに意識が飛びかけた時、私は天井を見ていた。
凜花に、逝かされている。
私が、凜花に。
この子は今、私を見ているのか。それとも、誰か別の人の影を、私に重ねているのか。
聞けない。聞いたら、答えが怖い。
だから私は目を閉じた。
メガネは、さっきどこかに落ちた。
ぼやけた視界の中で、凜花の輪郭だけが、やけにはっきり見えた。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




