第15話 譲るわ
《《火曜日、午後7時》》
彩花姉ちゃんが家に帰ってきたのは、夕食の後だった。
あの日曜日から今日まで3日間。悠真とラブラブだったんでしょうね?チクショウ!
私はリビングのソファーで物理のテキストを広げていた。ママはもう自室に引き上げている。パパは出張中。気づけば、姉妹二人きりになっていた。
姉ちゃんはダイニングチェアに座り、自分のコーヒーを自分で淹れ、タブレットを開いた。私に声をかけるでもなく、ただそこにいる。
こういう時の姉ちゃんとの沈黙は、昔から得意じゃない。美咲姉ちゃんなら絶対に何かしゃべりかけてくるのに、彩花姉ちゃんの沈黙は、底に何かが沈んでいる気がして、落ち着かない。
私はテキストの同じ行を、三回読んだ。一度も頭に入らなかった。
「凜花」
姉ちゃんが、タブレットから目を上げずに言った。
「なに」
「来年の四月から、NYに行くことになったから」
「……NY?」私の手が止まった。
「ニューヨーク。研究室の提携先。九月には本留学になるから、しばらく戻らない」
しばらく。どのくらいが「しばらく」なのか、私には想像もできなかった。
「……それ、いつ決まったの」
「夏ごろには、ほぼ決まってた」
夏ごろ。
私が悠真の部屋に初めて行ったのは、十一月に入ってからだ。姉ちゃんはその時、もう知っていた。悠真に家庭教師を頼んだ時も、「彩花の日」が続いた火曜から木曜も、土日に悠真を「貸して」くれた時も。
全部、知っていた。
「……悠真には、言ったの?」
私の声が、少しだけ掠れた。
「まだ」
たった一言。姉ちゃんの目はタブレットに戻っている。
「……なんで」
「言う機会がなかっただけよ」
言う機会がなかった。四谷のアパートで、火曜も水曜も木曜も一緒にいて。言う機会がなかった。
私の中で、何かが静かに沸騰し始めた。
「姉ちゃん」
「なに」
「それって……悠真に対して、ひどくない?」
姉ちゃんがようやくタブレットから目を上げた。私を見る。その瞳は、相変わらず静かで、底が見えない。
「そう?」
「そうでしょ!好きな人が、来年四月にいなくなるって……そういうこと、ちゃんと言わないと」
「好きな人」
姉ちゃんが、その言葉を繰り返した。まるで初めて聞く外国語みたいに。
「……悠真のこと、好きじゃないの?」
私が聞くと、姉ちゃんは少しの間、何かを考えるように視線を宙に泳がせた。
「好きよ。でも、NYには連れて行けないし、彼に私の研究についてくる義務もない」
それだけ言って、またタブレットに目を落とす。
私は声が出なかった。
好きよ、と言った。でもその「好き」の中に、悠真が四月以降どうなるかへの心配が、一ミリも含まれていない気がした。
「……それで?」私は自分でも気づかないうちに、そう聞いていた。
「え?」
「それで、悠真はどうなるの。姉ちゃんがNYに行ったら」
彩花姉ちゃんが、コーヒーカップをソーサーに置いた。そして、初めて私の方に身体を向けた。
「凜花。あなた、悠真のこと、好きでしょ」
「……べ、別に」心臓が、止まった。
「隠さなくていいわよ。私には全部、見えてるから」
全部、見えてる。
あの「……そう」という三秒の沈黙が、今になって意味を持った。見えていた。ずっと、見えていた。
「……どこまで、見えてるの」
私の声は、震えていた。怒りなのか恐怖なのか、自分でもわからなかった。
「だいたいね」
姉ちゃんはそれだけ言って、少し間を置いた。
「悠真が凜花に好意を持っているなら、どうぞ、ご自由に。私もね、悠真のお世話はできなくなるから……凜花に譲るわ」
――譲る。
その言葉が、私の頭の中でゆっくりと展開した。
譲る。
譲る?
「……譲る、って」
私の声が、低くなった。
「なによ、それ。なによ!悠真は姉ちゃんの持ち物なの?お古を妹に回すみたいに、『譲る』って言えるものなの!?」
姉ちゃんは眉一つ動かさない。
「悠真のお世話って何よ!お世話って!彼は姉ちゃんのペットじゃないでしょ!」
「凜花、声が大きい。ママが起きる」
「起きたっていい!」
私はソファーから立ち上がっていた。テキストが床に落ちた。
「姉ちゃんはずっとそうだよ!何でも自分の思い通りにして、全部コントロールして、悠真のことだって、NYに行くって決めた瞬間から、もう『終わり』にしてたんでしょ!なのに言わないで、ずるずると『彩花の日』を続けて……それって、悠真に対してひどすぎる!」
「そうね」
姉ちゃんが、あっさり言った。
「……え?」
「ひどいと思う。でも、それが私よ」
その一言の、あまりの静けさに、私の怒りが一瞬だけ空回りした。
「……姉ちゃんは、悔しくないの。悠真を、置いていくのが」
姉ちゃんは少しだけ、窓の外を見た。
「悔しいわよ」
初めて、彩花姉ちゃんの声に、何か別のものが混じった気がした。
「でも、研究を取るの。それだけよ」
沈黙が落ちた。
私は立ったまま、姉ちゃんを見ていた。怒りはまだ胸の中にある。でも、その怒りの隙間から、全然別の感情がじわじわと染み出してきていた。
悠真が、四月から、誰のものでもなくなる。
その事実が、怒りと一緒に、私の中に入ってきていた。
「……私は」
私は自分の声が、どこから出てくるのかわからないまま、言葉を続けた。
「姉ちゃんに、譲ってもらわなくていい。悠真は姉ちゃんの持ち物じゃないから、譲られるものじゃない。……私が、自分で、悠真に向き合う」
彩花姉ちゃんが、私を見た。
そして、ほんの少しだけ、口の端が動いた。笑ったのか、そうじゃないのか、私には判断できなかった。
「そう。それでいいんじゃない」
姉ちゃんはまた、タブレットに目を落とした。
私は床に落ちたテキストを拾い、ソファーに戻った。物理の公式は、やっぱり頭に入ってこなかった。
でも今は、それでよかった。
悠真、と私は心の中で呼びかけた。
「凜花、ぼくは……」の続きを、私はまだ知らない。
でも今度は、ちゃんと聞く。逃げないで、ちゃんと向き合って、聞く。
筑波になんか、行かない……。
……行かないけど……じゃあ、悠真の大学に行くの?
家猫が干物を食べて、腹一杯になったから縁側から蹴った、
そこを通りかかった野良猫が、ありがてえ、って干物をくわえて逃げていく?
ああああああああ、どうすんの?私?
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※飲酒喫煙シーンが書かれてあります。
※性描写を含みます。




